何十年か前のプロイセンとザクセンの話 7−2
レポート作成のための資料閲覧と称し、大量のビニール本を楽しむこと三時間。
ぐったりと机に突っ伏したプロイセンは、一冊の薄いカラー雑誌をザクセンの席へ滑らせるように投げた。すると、デスクに肘を突いて顔を思い切りうつむけていたザクセンは、まるで呪いの人形でも寄越されたかのようにびくっと身を引き、雑誌を払いのけた。紙の固まりは乾いた音を立てて床に落下する。その音を聞いたプロイセンは、顔を上げないまま疲れきった調子でザクセンに言う。
「ちゃんと拾っとけよ、ザクセン。ついでに処分も頼む」
「嫌だよ。おまえが手配したブツなんだから、おまえがなんとかしてよ」
ザクセンもまた席から動こうとせず、雑誌から視線を逸らし指先だけを向けて、プロイセンに回収してくれるよう頼む。が、プロイセンは小さく頭を左右に振る。
「正直表紙も見たくねえんだよ。見ただけで中身が脳裏をよぎる」
「言わないで。思い出しちゃうじゃん」
ひどく沈痛な面持ちでげっそりとしたふたりは、はあ、と同時にため息をついた。肩を上下させながら。しばしの沈黙のあと、プロイセンはおそるおそるといった仕種で床に落ちた雑誌の裏表紙に目線をやりながら、かすかに震える声で呟いた。
「あ、あいつ……いくらなんでもこれはないだろ……うげぇぇぇぇ」
先ほどの言葉どおり、雑誌の画像が脳裏にフラッシュバックする。彼は口を片手で覆うと、青ざめながらうめいた。ザクセンもまた蒼白な顔色で同意する。
「さ、さすがにきつすぎるな、あれは……。あれはないよ、うん、あれは」
ぶつぶつと呟くザクセンの傍らで、プロイセンも同じように口の中でくぐもった独り言を紡いでいる。
「どーぶつ……どーぶつ……いや、別にいいけどよぉ、なんつーか、せめてもうちょっと種族選ぼうぜ……」
いまさら動物くらいじゃ驚かないが、広い広い動物界からなぜよりにもよってあのチョイスなんだ。
小言にも似たぼやきを繰り返すプロイセンに、ザクセンが力ない笑い声とともに話しかけてくる。
「あはは……表紙が真面目な社会派っぽい体裁とってるあたり、凶悪だよな……見たとき、普通の政経雑誌が紛れ込んでんだと思っちゃったもん」
そう、彼らの精神衛生に多大なるダメージを与えた写真集――要するにキツめのポルノ――は、一見書店の店頭に平積みされていそうなデザインの表紙でもって偽装されていたのだった。真面目腐った活字体のアルファベットと小難しそうな単語が並ぶ表紙と、中身のショッキング画像の数々はどう足掻いても結びつかない。シンプルすぎる擬態ではあるが、それゆえ実際にこのような種類の細工が施された雑誌が流通するなんて思わなかった。完全に不意打ちを食らった格好だ。プロイセンはぎりりと悔しげに奥歯を噛み締めた。
「まさかトラップだったとは……くそっ! 西のやつらにしてやられた気分だぜ。あんな単純な仕掛けに引っかかるなんて……」
ありがちなトラップにまんまとはまったことが屈辱でならないようで、彼はむすっとした表情で、頭髪に指を立ててがしがしと掻き回した。一方ザクセンはいまだに思うところがあるようで、組んだ手の後ろに口元を隠しながら、神妙な声でなかば自問のように言った。
「なあ、あれ合成だよな? きっと合成だよな? 完全実写だとしたら俺ドン引きなんだけど」
「向こうの技術力を考えれば合成だろ。ウチだったら無理だけど。ちくしょう、テクノロジーひけらかしやがって」
不機嫌そうに文句を垂れるプロイセン。対照的に、ザクセンはそれどころではないといった様子で頭を抱え、机に突っ伏した。そして、なんとも情けない嘆きの声を上げる。
「ああ、だめだ、俺今夜あたり絶対夢に出てくるわ、あの写真の光景。合成だってわかっててもだめだ、インパクトありすぎた。目ぇ閉じてもまぶたの裏に見えるもん……」
「やめろ! そういうこと言うんじゃねえ! ンなこと聞いたらつられて俺まで悪夢見そうじゃねえか! 暗示がかかって!」
プロイセンは体を起こすと、威嚇するようにバンッとデスクを手の平で叩いてザクセンの弱音を止めた。気が立った猫のようだが、ザクセンは取り合わず、机に張り付いたまま不甲斐ない調子で彼に頼み込む。
「いいじゃん、この際共有してよ。ひとりじゃ怖すぎる」
「元はと言えばおまえがうっかり本開いたせいじゃねえか」
「でも、ページ捲ってったのはおまえじゃん! やばいって喚く俺の忠告無視してさあ! 最初のほうでやめとけば、あんなキッツイ写真まで辿り着かずについたのに!……う、だめ、思い出しちゃった……」
責任の擦り付け合いをしているうちに、例の映像が彼らの頭の中に鮮明に浮かび上がってきた。二日酔いの朝のような不景気な顔色でふたりはしばし沈黙のまま椅子に沈んだ。
やがて、プロイセンは席を立つと、床に転がった雑誌をつま先で蹴飛ばした。
「う〜、気分悪……顔でも洗ってくっか」
ゆらり、とわずかに体を揺らしながら扉へと向かうと、ワンテンポ遅れて反応したザクセンが大慌てで立ち上がり駆け寄ってきた。といっても、半分腰が抜けているらしく、姿勢も足取りもなんだか覚束ない。彼はプロイセンの肩にもたれかかるように腕を絡めてきた。
「ま、待ってプロイセン、俺も! 一緒にトイレ行く!」
「はあ? 連れションかよ。学生じゃあるまいし」
「こ、こんな危険な本の山とふたり(?)きりにしないでくれよ〜。なんか呪われそうじゃん!」
「なにガキみたいなこと言ってんだおまえは」
うっとうしそうにそう言うと、プロイセンはザクセンを振り切って部屋を出ようとした――が。
「嫌だ! 行かないでよプロイセン!」
必死の面持ちのザクセンが、ひしっとプロイセンに抱きついた。というより巻きついた。
「あ〜〜〜もうっ!」
首にぶら下がるように腕を回してくるザクセンをうっとうしげににらみつつ、プロイセンは彼を引きずりながらトイレに向かった。
*****
節水のためか、ただの配管上の不備か、細い水流しか出ない水流に焦れながらも、プロイセンは冷水を顔に叩きつけた。この陰気な建物の中でリフレッシュなんて到底無理だが、ちょっとした気分転換程度にはなる。男でよかった、となんとはなしに彼は思った。だって化粧をしていたら気軽に顔も洗えないじゃないか――。
タオルなんて用意してこなかったので、彼はシャツの裾を引っ張り上げ、顔の水滴を無造作に拭った。それオッサンのすることだよ、とザクセンの指摘が入ったが、プロイセンは気にも留めなかった。
少しだけさっぱりしたところで、彼は改めて唇を尖らせて文句を垂れ流しはじめた。
「くっそー……いくらあっちが自由だからって、あれはちょっと奔放すぎだろ……少しは自重しろよあの野郎……フリーダムにも程があるだろーが。そのへんの教育、行き届いてなかったかなあ……」
いまは自由に会えない相手の顔を思い浮かべては、愚痴とともに自省をする。自分はどこかで教育を間違えたのだろうか。プロイセンは彼との過去を振り返りつつむぅっと小難しげに眉根を寄せた。
ザクセンは、別にあいつが直接あのポルノ作成したわけじゃないだろ、と常識的な意見を述べつつも、プロイセンの愚痴にも共感を覚えないではなかった。しばらく会わない間にあいつ生活乱れてるんじゃないか、と。
「まあ確かに、いまの俺らには刺激が強いよなあ、ああいうのは。こっちは抑圧されすぎてて、なんかもうあっちの奔放すぎる流行についていけないって感じ。俺ら、あいつほど若くないしねえ」
腰に手を当て、軽く肩を持ち上げながらやれやれとため息をつくザクセン。子供が隠し持っていたエロ本を偶然発見してしまった親の心境とは、こんな感じなのかもしれない。特に驚くようなことでもないのだけれど、なんだか複雑な気持ちになる――そんな感慨があった。
ザクセンがしみじみしている横で、プロイセンは水でやや冷えた頬を両の手の平で叩いた。小気味のよい音が短く反響する。ザクセンがはっとして面を上げると、お得意の不敵な笑みを張り付かせたプロイセンの鏡像が見えた。
「しかし、俄然意欲が湧いてきたな」
「は? 何が?」
場違いなほど楽しげなプロイセンの口調に、ザクセンは目をぱちくりさせた。プロイセンはふふんと鼻先で笑いながら肩越しにザクセンを振り返った。
「報告書の作成。これは本気で書く価値がありそうだぜ……ははははは、いかにやつんちが乱れているかについて、分析と考察を書きまくってくれるわぁ! 画像資料つきでな! 幸い資料は山ほどあるしな! いまの俺はかつてないほど勤労意欲がみなぎっている! みなぎってるぜぇ! ふ、ふふふ、ふはははははは!」
最近は聞く機会の減った懐かしの高笑いを盛大に響かせつつ、プロイセンは片手を額に当て、喉を仰け反らせた。変な方向にやる気スイッチが入ってしまったようだ。
「それって私怨っていうか、そっち方面であいつに負けて悔しいってことだよね……」
数歩離れたところで佇むザクセンがぽつりと呟く。が、プロイセンの笑い声に簡単に掻き消されてしまった。
「さあ戻るぞザクセン! 仕事だ仕事ぉ! 尊いお勤めだぞ同志! 労働に勤しむ喜びを全面に出せぇ! ノルマ万歳!」
腕まくりをし、意気揚々と労働に従事しようと歩き出すプロイセンの背中を追いながら、ザクセンは適当に相槌を打った。
「はいはい」
こっちはこっちで妙な染まり方してきてるよな。
微妙に洗脳されているような気がしないでもないプロイセンの発言を聞きながら、ザクセンはちょっぴり同情した。もっとも、あのポルノ雑誌の山(プロイセンいわく、合法的に入手したものだ)を思い出すと、あまり嘆かわしい気分にはならなかったが。むしろもっとやれ、と声には出せないながら、ザクセンはこっそりと後押しした。
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