何十年か前のプロイセンとザクセンの話 7−3
いつになく意欲的かつ精力的にデスクワークに打ち込んだプロイセンは、定時ぴったりに帰り支度をはじめた。やる気に満ち溢れすぎていたため、予定より九十分も早く書類が仕上がったのだが、変に早めに切り上げたら後日仕事を増やされそうなので、終了時刻が来るのを待っていたのだった。もっとも、せっかちな彼が待ち時間をただぼんやり過ごすなんて無駄に優雅なことをするはずもなく、せっせと別の作業に勤しんでいたのだが。旧型のシュレッダーさえ買ってもらえない低予算の冷遇事務所で、彼は呪われた雑誌(自分で購入したのだが)を延々はさみで細かく切り刻んでいた。彼は仇敵を前にしているかのような驚異的な集中力でもって次々に襲い掛かる恐ろしい画像を脳内でスルーし、つとめて冷静かつ迅速に作業を進めた。そしてカラフルなスパゲティのようになったページの成れの果てがやんわりと詰められた錆きったバケツに水をなみなみと注ぎ、紙に水分をたっぷりと吸わせ、証拠隠滅もとい危険物処理を終えたのだった(最初は焼却処理をするつもりだったが、小火を案じたザクセンに止められた)。
「うし! 俺の仕事は今日もすばらしく完璧だった! さすがだぜ俺!」
いましがた言った台詞を事務風の堅苦しい表現に変換して業務日誌に記入すると、彼はいそいそと壁際に掛けた上着を羽織った。こうして何事もなく定刻に職場を退室できることが、灰色の日々におけるささやかな幸せの瞬間だ。軽やかな足取りで出入り口に向かおうとした彼だったが、ふと室内が妙に静かなのに気づいて足を止めた。振り返ると、自分の席の隣で少し青ざめた顔色で座っている同僚の姿が視界に入った。いつもなら彼と同じく浮かれ気分で仕事を引き上げるというのに。
「どうしたザクセン、浮かない顔して。尊いお勤めを果たしたあとの解放感――いや、違った、達成感を存分に謳歌しようぜ同志?」
うっかり漏れかけた本音を慌てて訂正したプロイセンは、デスクに逆戻りすると景気付けるようにザクセンの背をパンと叩いた。
「んー、そうだね。ようやく終わって嬉しいよ……」
言葉とは対照的に、ザクセンはなにやら思い詰めた表情でじっと虚空を凝視していた。
「なんだ、不景気なツラして。……まさかまたなんかポカやったのか? それならさっさと素直に言え。対応が遅れたらそのほうが厄介だ」
前科があるだけにあながち穿ちすぎとも言えない。プロイセンは少しばかり慌てながら相手に問いただした。ザクセンはふるふると首を左右に振って小声で答えた。
「いや、それは大丈夫なんだけど……多分」
「多分かよ」
自信なさげなザクセンの回答に根拠もなく不安を煽られるプロイセンは、無性に心配になってきて、上司から配布されたスケジュール表と本日の自分たちがこなしたノルマ分の書類を照合しはじめた。予定表に赤鉛筆でチェックを入れていくプロイセンに、そこまでしなくても、とザクセンは苦笑いを浮かべたが、止めようとはしなかった。プロイセンは真剣な面持ちで、各種締め切りをひとつひとつ確かめていった。
一通り点検を終えて不備がないことを確認したプロイセンがほっとため息をついたとき、
「なあ、プロイセン……」
おずおずとザクセンが声を掛けてきた。振り返ったプロイセンに、ザクセンが言葉を続ける。
「あのさ……今日うちに泊まってかね? 俺がおまえんち泊まるのでもいいけど」
あまりに脈絡のない誘いに、プロイセンは目をぱちくりさせた。お互い飲みに誘ったり誘われたりして、結果的に相手宅で一泊していくというパターンはこれまでに何度もあったが、最初から宿泊を目的とした誘いを受けたことはない。
「は? 藪から棒に何の話だ? まあ別に予定はねえからいいっちゃいいけど……なんでだ?」
怪訝に眉をしかめながらプロイセンが尋ねると、ザクセンは気まずそうに目線を逸らし、もじもじとためらいがちに口を開いた。
「いや、それが……」
「うん?」
プロイセンに促され、ザクセンは言いづらそうに唇を何度かぱくつかせたあと、口早に文を紡いだ。
「ひ、ひとりで寝たら悪夢見そうでやだ……」
「……はあ?」
いったいなんのこっちゃ? と心底理解に苦しむ様子でプロイセンが首を傾げていると、ザクセンがわたわたと両腕を振り回しながら弁明し出した。
「だっ、だって、だって! アレ、誇張でなくすごかったじゃん! 今夜俺絶対うなされるよ! 怖い夢見るよ! いまでも頭ん中であの画像がエンドレスで飛び交ってるもん!」
ザクセンは必死の形相で、自分が何をそんなに恐れているのか切々と訴えた。この文脈でアレが指すものと言ったら――。
「あの絵面まじあり得ないって! よりにもよってあんなのと絡んでるなんて! あれに比べりゃ、イヌのやつなんてものすごく健全に思えてきちゃったじゃん!? だって、アレって、アレって……ああぁぁぁぁ……駄目だ、口にするのすら恐ろしい……」
彼らを恐怖のどん底に突き落とした、奔放すぎる西側文化の結晶――例のトリッキーな写真集の中身が、プロイセンの脳内で強制的に再生された。
「ちょっ……思い出させるな! せっかく忘れかけてたのに! うっ……うえぇぇぇ……」
「やったな! これでおまえもひとりで寝られなくなっただろ!?」
思わず口元を押さえてデスクに上半身をもたせかけたプロイセンに、ザクセンがなかばやけくそ気味に勝ち誇ったような声音で言った。何が何でも今夜はひとりで寝たくないらしい。
「おまえなあ……」
プロイセンはデスクに肘をついて体を起こすと、やれやれと肩をすくめた。
「……仕方ねえな、わかったよ。おまえんち行ってやらぁ」
「わー! ありがとー、プロイセン!」
割とあっさり承諾したプロイセンに感激したのか、ザクセンは勢いよく席から立ち上がると、衝動的に彼に抱きついた。プロイセンは呆れながらも相手を振り払わないでおいた。いつものことではあるし。
「はいはい。……まあ、どうせアパート一緒だしな」
同じアパートの別の部屋、というのが現在の彼らの住居事情だった。相手の部屋まで三十秒で到着する便利さである。
*****
粗悪な薄いビールをしこたま飲んで適当に酔って寝る、というお決まりの自堕落コースを辿って一夜が明けた朝。
ガタが来はじめたシングルのパイプベッドの上でうつ伏せになったザクセンが、枕に顔をうずめながらぶつぶつと力なく呟いた。
「あはは……結局ヤな夢見ちゃったなあ」
隣では、一足先に起き出したプロイセンが、ザクセンの部屋の備品となって久しい自分専用のシュラフを片付けている。
「おまえ夜中すげぇうなされてたぞ。たまに『ぎゃひー!』とか『うひぁあっ!?』とかわけのわからん不気味な悲鳴上げるし。おかげでこっちは眠れたもんじゃねえっての、うるさくて」
たまには日干しするか、とプロイセンは畳み掛けたシュラフを再び広げて窓へ向かった。その背に向かってザクセンがちょっぴり非難めいた声を発した。
「えー? 何言ってんだよ。おまえのほうがうるさかったじゃん、寝言。あれ、うなされるってレベルじゃなかったぞ。ほんとになんかしゃべってたぞ」
「はあ? 知らねえよ、そんなの」
窓の柵にシュラフを掛けながらプロイセンが振り返る。胡散臭そうに寄せられた眉根は、ザクセンの言葉を信用していないことを物語っていた。ザクセンは、ほんとだって、念押ししたが、プロイセンは納得いかないといった面持ちで唇を尖らせている。もっとも、寝言なんて普通本人は覚えていないものなのだから、プロイセンの反応も妥当と言えるかもしれない。ザクセンはそのことに理解を示すように、若干オーバーな仕種で肩をすくめて見せた。
「ま、寝てる間のことじゃ自覚ないのは仕方ないか。多分おまえも妙な夢見てたんだろ。俺もそうだし。でも正直、どんな夢だったのかよく思い出せないいんだよな。なんかすごく嫌な夢だったのは覚えてるけど」
もそりと起き上がったザクセンは、腕組みをして神妙そうにしみじみと言った。夢の中で何が起きたのかは定かではないが、それがよろしくないものであったことはなんとなく察せられるというか、感情が覚えている感じだった。
寝言の記憶はないプロイセンだったが、彼の言い分には共感するらしく、シュラフを棒で軽くはたきながらうなずいた。
「ああ、俺もだ。異様に夢見が悪いのは確かだが、内容は思い出せん」
「まあ、そのほうがいいのかもな。絶対ろくな夢じゃなかっただろうし」
「そうだな。思い出さないほうが幸せなこともきっとあるに違いない」
ザクセンは布団をめくって通気すると、履き潰した布靴につま先を引っ掛けて立ち上がり、ゆうべの飲み食いで散らかした残骸の後始末に回った。プロイセンは転がったビール瓶を足の先で蹴り上げて器用にキャッチしていった。無駄で無意味な芸だが起き抜けの気つけにはちょうどいい。しかし、瓶の本数からするに別段逸脱した酒量を摂取したわけではないだろうに、今日はやたらと頭痛と気分の悪さがまとわりつく。これ絶対アルコールのせいじゃないよな――プロイセンは自分の額に手の平を当て、仏頂面でぼやいた。
「くそぉ……この俺としたことが、ポルノごときに振り回されるなんて……」
ぎりっ、と歯と歯を軋ませるプロイセン。実に悔しそうな様子だ。一方、ザクセンは起きたばかりだというのに、上司の上司にたっぷりご教授賜ったあとのような疲れきった表情で、空虚な乾いた笑いを声に乗せた。
「ははは……あいつ絶対ムッツリだよなー。まあ前々から知ってたけどさあ、今回ので確信したよ。なんていうか、変態って言葉が腐って異臭を放ってる感じだったもんな」
ザクセンはふらつく足取りのまま台所のシンクの前に立つと、そろそろ日常に戻ろうというように、洗い物をはじめた。しかしプロイセンのほうはまだ腹の虫がおさまらないらしく、ビール瓶を部屋の隅にまとめながら、ぶつぶつと大きな独り言をかましている。
「あの野郎……とんでもねえもんこさえやがって。今度会ったら教育的指導食らわしてやる……!!」
「それって言いがかりだよなあ……。あいつがアレ監修したわけじゃないだろうし……多分」
一応フォローを入れるザクセン。が、プロイセンの耳には届かない。クレームは尽きるどころか増大するばかりだ。
「あとよー、あの雑誌の男モデル、ぜってぇ股間に補正入れるか整形するかしてただろ。あれなんだよ、邪道じゃね? なんだあのモッコリは。黄金比すぎて逆に不自然だっつーの。チートだろあれは。あんなの世間一般の野郎どもが見たらみんな自信なくしちまうじゃねえか。――はっ……まさかそれがやつの狙いか!? こっちの男どもの自信を喪失させ、士気の減衰と人口減少による国力の低下を画策してると言うのか……!?」
プロイセンは自らが出した推測に愕然とし、眼を見開き口元を押さえてわなわなと震えた。長期的スパンで見れば、実に理に適った作戦じゃないか、我ながらなんて恐ろしい男を育ててしまったんだ……!
螺旋を描きながらぶっ飛んだ方向に突き進むプロイセンの思考に、ザクセンは盛大なため息をついた。
「……ただのひがみから著しい被害妄想に発展させるのはやめろよ。ポルノつくってる連中がそこまで深いこと考えてるわけないだろ。まあ確かに俺も、あの股間は反則だと思ったけど」
一応プロイセンの意見も汲みつつたしなめるザクセンだったが、相手はとことんわが道を突き進むばかりだった。プロイセンはベッドサイドに放置しておいた自分の鞄からスケジュール手帳を取り出すと、今月および来月のカレンダーをじっとりと眺めた。
「ええと、次に顔合わせる予定って言うと……おお、おあつらえ向きにニューヨークで会議があるじゃん。あの眼鏡小僧んちか。俺らにとっちゃアウェーだが、その分ロシアの野郎も動き制限されるし、何よりあの眼鏡のとこなら迷惑とか考えず思う存分――」
「やめてよ! そんな場所でポルノが原因で喧嘩とか、最悪だよ! 俺もう二度と表出歩けないよ!」
プロイセンの不穏当な発言を聞いたザクセンは、ヒステリックな甲高い悲鳴を上げた。が、プロイセンは彼とは逆に、妙に落ち着き払った様子で、頼もしいばかりの声音で告げた。
「安心しろ、汚れ役は俺が引き受けてやる。おまえはこっちで待っていればいい。俺が外に行ってくるから、おまえは俺の留守を守ってくれ」
「プロイセン……」
プロイセンに両肩を軽く掴まれたザクセンは、一瞬キュンという謎の効果音とともに説得されかけたものの――
「……おまえ、そんなこといって自分があいつに文句つけたいだけだろ! ってか、代表やってんのがおまえってだけで、俺だって一蓮托生なんだからさあ、あんま恥ずかしいことしないでくれよ! 頼むから!」
やはり騙されてはくれなかった。
プロイセンはぱっと彼の肩を離すと、窓の外、朝日と反対の方角に視線を向け、
「はははははは! 次に会うときが楽しみだなあ、ヴェスト!」
昨晩の悪夢などどこ吹く風、すっかりいつもの調子でハイテンションに叫んだ。
こうしてまた、尊いお勤めの一日がはじまった。
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