ドイツとバイエルン、ほかお兄さんたち 4
人間の身体能力の限界と地球上の物理法則へのチャレンジとしか思えない驚異的な動作によって床から跳ね上がったプロイセンは、鋭い放物線を描いてドイツの上半身へと落下しようとしていた。ドイツは刹那の時間、驚きに目を見開いて硬直しかけたが、鍛えられた反射と危険回避の能力が、ほとんど自動的に彼の体を動かした。
彼は後退するではなく(対象の軌道と部屋の狭さを考えると、避けきれないと判断した)、腕を前に差し出すと、覚悟を決めたように両足を床に踏ん張らせ――飛んできた物体を両腕でキャッチした。
が、体重に加えて加速の加わったプロイセンの体をまともに正面から受け止めたとあっては、いかに頑強な肉体をもつドイツとて、たまったものではなかった。
「うわぁ!?」
彼は奇跡的にもプロイセンを横抱きにしたものの、さすがにその場に留まることはかなわず、結果的に後方へとバランスを崩した。このままでは後頭部を強打すると瞬間的に察知したが、だからといって対処法はない。受身を取ろうにも両腕はプロイセンのせいで塞がれている。手を離すという自己防衛にとって最良の選択肢は、なぜかとっさには浮かばなかった。
このままなす術もなく後ろに転倒することは免れない。ドイツは覚悟を決めると、せめて頭部への強打を避けようと顎を引いて縮まるように身を固くした。
が、予想したタイミングをとっくに経過しても、衝撃の波が襲ってくることはなかった。重心が崩れ自力で体重を支えきれていないことは明らかなのに。
「……?」
不思議に思ったドイツがそろりと振り返ると、肩越しにすぐブランデンブルクの顔があった。どうやら彼が背後でふたり分の体重を支えてくれているらしい。ついさっきまでデスクでパソコンに向かっていたはずなのに、即座に移動してこのような不測の事態に見事に対応するとは、とんだ早業だ。彼のことだから、三百年来の相方であるプロイセンの行動及びそれがもたらす結果について予測することは難しくないのだろう。……だったらもっと早く動いてフォローしてくれたっていいじゃないかと思ってしまうのは、甘えなのだろうか。ドイツはちょっぴり考え込みそうになったが、ひとまず相手に礼を言うのを優先した。
「すまないブランデンブルク。助かった」
ブランデンブルクが軽くうなずくのを見届けると、ドイツは彼に背を支持してもらいながら、自力で立位を保てる体勢にもっていった。プロイセンを腕に抱えたまま。
抱っこ状態のプロイセンは、ドイツの肩に顎を乗せてブランデンブルクにウインクをひとつ送った。
「えらいぞブランデンブルク。さすがおまえだ。頼りになる」
満足げにブランデンブルクを褒めるプロイセンに、ドイツはなかば諦めたような疲労感漂う声音で控えめに呟いた。
「その前に自分の行動について反省してはくれまいか……」
自力で立ってくれない――拘束されているせいでできないのだが――プロイセンを仕方なく抱きかかえながら、ドイツは大きなため息をひとつ落とした。と、それに呼応するかのように、足元から別の喚き声がした。
「てめえぇぇぇぇ! このっ、馬鹿プロイセン! 何しやがる!」
床では、芋虫のようにうつ伏せになったバイエルンが、乏しい柔軟性を精一杯駆使して上体を反らせ、歯を剥き出しにしている。一度は立ち上がったものの、先ほどのプロイセンの強引なジャンプに巻き込まれたのかアタックされたのか、再び床に転がる羽目になったようだ。
その状況に気づいたらしいプロイセンは、ドイツに抱えてもらいながら、後ろへ首を捻って勝ち誇ったような癇に障る笑みでバイエルンを見下ろした。
「おう、悪ぃなバイエルン、転ばしちまってよお。いやあ、おまえならうまく避けてくれると思ったんだけどな〜、最近運動神経鈍ったか?」
いちいち空気に荒波を立てないことには気がすまないらしく、プロイセンは実にいい笑顔でバイエルンを突付いた。バイエルンは蛇のように腰から上を床から浮かし、売られた喧嘩を正面から買った。
「危険行為かましてきたのはてめえのほうだろ! 危ねえじゃねえか!」
「なんだバイエルン、心配してくれるのか? 嬉しいな〜」
「けっ、別におまえが怪我しようが首と胴がおさらばしようが知ったこっちゃねえが、ドイツまで巻き込むんでやるな。とっとと離れろ、重そうじゃねえか。……ドイツもそんな粗大ごみとっとと降ろせ。腰痛めるぞ」
「いや、どちらかというと腰を痛めそうな体勢なのはそっちだと思うんだが……」
そんなに体を反らせて大丈夫なのだろうか。ドイツは心配そうな、かつ困ったような表情でバイエルンを見下ろした。その態度が気に入らなかったのか、プロイセンの攻撃はますますヒートアップした。彼は拘束されたままの足を折り曲げてドイツの胴に絡めると、高笑いを交えて叫んだ。
「へっ! バイエルン! 嫉妬とは見苦しい限りだなあ! たとえ離れていようとも、ヴェストと俺はそれもう濃厚な絆で結ばれてんだよ! あ、ブランデンブルクもな! ははははは、見ろよ、真面目できっちりしまくった性格! 俺の教育の賜物だ! なあヴェスト! 俺を選んでよかっただろ!? そうだろ!? なあ!?」
血走ったまなこで唾を飛び散らせながらドイツに詰め寄るプロイセン。有無を言わさぬ勢いと迫力である。というか、必死すぎてちょっと怖い。
「う、うん? あ、ああ、うん、まあ……」
ドイツが戸惑いがちに一応の肯定を返すと、プロイセンは大喜びでばたばたと全身を跳ねさせた。喜びの表現らしい。
「ほら、本人もそう言ってるだろ! さすが俺のヴェスト、よくわかってるじゃねえの!」
バイエルンに対する優越感に浸りながら、彼は勢いのままドイツの頬に露骨なキスを落とした。ドイツは特に驚くでも嫌がるでもなかったが、足元から送られてくる剣呑な視線に気まずさを覚えて困り果てていた。
ザクセンはひとり遠巻きに彼らの様子を傍観しつつ、
「まあ、ここで否定されたらプロイセン泣いちゃうもんなあ……」
的確な感想を漏らした。まあ、ドイツがリップサービスなんて器用な芸当を持ち合わせているとは思っていないけれど。
一方すっかり調子に乗ったプロイセンは、高みからバイエルンを見下ろしながら思い切り舌を突き出して挑発している。大人気ないからやめないか、というドイツの忠告は完全無視である。せめてもの救いは、プロイセンと同レベルに堕ちたくないという信念をもつバイエルンが、比較的冷静な反応を返してくれたことだろうか。口調は相変わらず荒々しいが。
「なぁにひとりで勝手にいい気になってやがる! おまえがごり押しで返事させただけだろ! すっかり自分好みに手なずけたようだがなあ、こういうヘンに従順なとこまで躾けたとしたら、たいした教育家だなあプロイセン先生!? さすがいい趣味してらっしゃる!」
「ははははは、褒めるがいいさバイエルンよぉ! そこに這い蹲りながらなあ!」
「自力で体重も支えられてないくせに何エラそうなこと言ってんだ!」
「ははん! おまえ相変わらず見る目ねえなあ! ヴェストがこうしたがってるから俺がそれをかなえてやってるんだよ! なあヴェスト!? そうだろ!?」
「押されっぱなしになってないでたまには否定しろドイツ! おまえはナインと言える子だろ!?」
「え、あ、いや……」
ふたりの板ばさみになったドイツは、言葉に詰まっておろおろするばかりだ。
「なあ、そのへんにしておかないとそろそろドイツが吐血しかねないぞ」
さすがに見かねたザクセンが、そろそろ止めに入ったほうがいいかと右腕をゆらりと前に出し掛けた。が、そのときドイツの背後で静かなアクションが起こりつつあることに気づいた。
「どうしたブランデンブルク?」
注目をプロイセンらからブランデンブルクに移す。
「って、おまえ、なんだその格好?」
ブランデンブルクの出で立ちにザクセンがぎょっとして眉をひそめた。ブランデンブルクは休憩室への突入時に着用していたものものしい防護マスクを再び身に纏っていた。彼はゴーグルの位置を正したあと、同じ装備品をザクセンに投げて寄越した。
「ちょ、おま、これ……!」
ゴーグルの下でブランデンブルクがアイコンタクトとしてのウインクを送ってきた。彼の意図を瞬間的に察したザクセンは慌ててそれらを装着し、体を反転させて壁際を向いた。移り変わる視界の中、床に転がる見覚えのあるごてごてした物体と、ドイツの頭部へと忍び寄る防護用フルメットを持つ手がちらりと見えた。
ザクセンは、なんとはなしに神に祈りながら、防護マスクの上から耳を強く押さえ、きつく目を瞑った。
次の瞬間、休憩室が凄まじい閃光と爆音で溢れた。
…………………………………………。
激しい爆音のあとには、不気味な静けさが待っていた。
ザクセンは恐る恐る顔を上げて振り返った。
「あーあ、大惨事……」
……とはいうものの、室内に大きな変化はなかった。プロイセンとバイエルンが床にぐったりと倒れ伏しているという点を除いては。
「スタングレネードまで用意してたのかよ……」
ザクセンが呆れながらぼやくと、ドイツの頭を守るように抱えたブランデンブルクが、防護マスクの下にやり遂げた男の顔を浮かべてうなずいた。もしかして、最初からこのつもりでスタングレネードを炸裂させるタイミングを虎視眈々と狙っていたのだろうか。まあこのくらいしなければ収拾がつかなかったのかもしれないが。しかし、それにしたって――
「おまえ、無茶苦茶やるなあ……」
ザクセンはおっかなびっくりに呟きながら、無傷ながらも視覚と聴覚への絶大な刺激によって撃沈してぴくりとも動かないプロイセンとバイエルンを交互に見やった。ふたりとも死んだように倒れている。
うへえ……とザクセンが変な声を漏らしている傍らで、ブランデンブルクは腕の中で保護していたドイツを解放してやった。何が起こったのか把握できず呆然としているドイツの手の中になにやら押し込めると、彼はマスクを外しながら床に膝をつき、拘束衣の中からプロイセンの体を取り出すと長細い積荷のように肩に担いで、何事もなかったかのような静かな足取りでそのまま休憩室をあとにした。
去っていく彼の背を見送りながら、ドイツはまだ混乱の残る中、とりあえず防護マスクを外した。
「そういえば、彼は地味に過激な性格だったな……」
「普段おとなしいから忘れがちだけど、割とプロイセンと似たり寄ったりなとこあるんだよなー」
ふたりが覇気のない声で話していると、
「あ、あんのクソ野郎ぉぉぉぉぉぉ!! 殴る! 百発は殴ってやる!」
足元から威勢のいい叫びが届いた。驚いたことに、バイエルンが早々に意識を取り戻していた。いまだ拘束状態の彼は、弱ったシャクトリムシのような動きでドアめがけて移動した。が、
「落ち着くんだバイエルン。まだ感覚が麻痺しているだろう。そっちは壁しかないぞ。気をつけないと危な――」
「いで!?」
本人はブランデンブルクを追って部屋を出ようとしたつもりらしいが、方向を九十度間違えたため、壁に頭をぶつける羽目になった。
「だから気をつけるようにと……」
ドイツが助けようと足を動かす前に、ザクセンがバイエルンに近づき、拘束を解いてやっていた。バイエルンは礼も言わず、酔っ払いよりもふらついた足取りで壁を伝いながら休憩室を出ていった。
「おい、いま野に放ったらそれこそ怒り狂って暴れるんじゃ……」
ドイツが懸念を示すが、ザクセンは肩をすくめて呑気に答えるだけだった。
「まあまあ。いいじゃん、行かせてやれば。バイエルンもプロイセンも、怪我はしてないにせよ、しばらくは体使い物にならないだろ。ブランデンブルクだって、さすがにそんな状態のバイエルンを攻撃したりはしないだろうし」
「それはそうかもしれないが……」
まだ心配を払拭しきれないドイツに、ザクセンが妙に余裕のある、というかおもしろがるような笑みを浮かべて見せた。
「それにさあ、いまプロイセンたち医務室だろ? しししし……絶対おもしろいことになるぜ? ここの医務室って基本的にガラガラじゃん? あのバカップルがこのシチュエーション逃すわけない。いまごろ盛大にいちゃついてるだろうな――プロイセンが気絶してるにせよ回復してるにせよ」
「ああ、容易に想像がつくな……って、それじゃバイエルンの怒りに油を注ぐことになるじゃないか!」
あの元夫婦のいちゃいちゃは、この世でもっとも遭遇したくない場面のひとつといっても過言でもないだろう。そんなシーンを目撃したバイエルンの反応がいかなるものになるのかは想像に難くない。
が、ザクセンは性質の悪い気楽さでのんびりと返した。
「うん。だからさ、おもしろそうじゃん?」
「ザクセン……やっぱりストレス溜まってるだろ?」
「いやあ、おまえほどじゃないと思うよ?」
へらへらと笑うザクセンだったが、心なしか元気がない。ドイツは先ほどブランデンブルクに握らされた小さな瓶を示すと、
「胃薬、さっきブランデンブルクがくれたんだが……一緒に飲むか?」
と力のない声音で申し出た。ザクセンも断る理由はないらしく、
「そうだな……」
と疲れた返事をした。
すばらしいシンクロ率を誇る盛大なため息をついたあと、彼らはとぼとぼと給湯室に向かって歩いていった。
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