ドイツと親戚のお兄さんたち 3
対面する青年の自己紹介に、ドイツは静かに混乱していた。
カリーニングラード? 《彼》ではなくて?
確かに、今日この席についたのはロシアから使いで寄越されることになっていたカリーニングラードなる人物だ。そのつもりでここへ来た。けれども、その相手として彼が――少なくとも彼とまったく同じ容姿をした者が現れるなんて、予想外にもほどがある事態だ。
ドイツは口を緩慢に小さく動かしては何か言葉を紡ごうと試みるが、声帯がまるで震えず声にならなかった。もっとも、混乱する心中では相手に対して何を言うべきなのかとてもではないが決められなかったが。
混乱に襲われ再び石化中のドイツの傍らで、ザクセンは椅子に腰掛けたまま机に身を上半身を乗り上げさせ、今日の会談相手の顔をまじまじと観察した。その隣に座る、ほぼ同じ容姿をしたブランデンブルクと見比べながら。ここまで似ている相手がドッペルゲンガーでないとすると、次に浮かぶ可能性はひとつに絞られてくる。ブランデンブルク言動(これまで一言もしゃべっていないが)や反応からしても、隣の男の正体は限りなく明白だ。自らをカリーニングラードと名乗った男は、にやついた笑みを口と目元に張り付かせて、おもしろそうにこちらを、というかドイツを見つめている。そのいたずらっぽい、あるいは意地悪そうな笑みには嫌というほど既視感があった。
ちら、とドイツを横目で見やる。ザクセンの視線に気づいたのか、ドイツが困りきった顔で振り向いてきた。未知の事態に遭遇し対応がわからず、近しい大人に助けを求める子供のように。そのまなざしはブランデンブルクにも向けられた。困惑でいっぱいのドイツがかわいそうになってきたのか、ブランデンブルクがわずかにこくんと首を縦に振った。なんとかしてやるつもりらしいな、とザクセンは読み取った。
ブランデンブルクは机の下でこっそりと手を横にやると、隣の青年の太股をつんつんと人差し指の先で突付いた。その小さな刺激に、彼は眼球を動かしブランデンブルクに視線を移した。露骨に表情に表れてはいないが、そこには咎めるような色が窺えた。そろそろ種明かしをしてやれ。無言の相手からそんな声を感じ取る。
彼はふっとため息にも似た笑いを漏らしたあと、大仰に肩をすくめた。そして、改めて向かいのふたりを視界に収めると、
「なーんてな。別にプロイセンだろうがケーニヒスベルクだろうがオストプロイセンだろうが構わないぜ。どれも旧名だけどよ」
ティッシュペーパーよりも軽そうな調子で、あまりにもあっさりと言ってのけた。
「ケーニヒスベルク……プロイセン……?」
ドイツは呆然とした顔で、聞いたままの単語をとつとつと繰り返した。明かされた回答が何を意味するのか、まだ頭の中で処理できていない様子だった。
そんなドイツに代わり、ザクセンが確認を取る。
「プロイセン?……でいいんだよな?」
結構な確信を持っていたザクセンではあったが、あまりにもあっさりと明かされてしまったため、逆に半信半疑になってくる。中途半端に曲がった人差し指をそろそろと相手に向けると、即座にうなずきが返された。
「おう、俺だ。久しぶりだなあ、ザクセン。相変わらず微妙なツラしてんなおまえ。ま、好きに呼べや」
ぞんざいさを増した口調で答えるプロイセン。しかも微妙に失礼なコメント付きだ。ザクセンはぽりぽりと頬を掻きながら、
「あ〜〜〜……えっと、んじゃ、スベスベマンジュウガニさんでどう?」
呼び名をひとつ提案した。すると、プロイセンがバンと片手で机を叩いた。本気で怒ったわけではなく、ただのパフォーマンスに過ぎないのだが。
「関連のある呼び名にしろ! どういうチョイスだ! スベスベマンジュウガニなんて見たことねえよ。ましてや特産品なんかじゃねえ。生態系考えてからモノを言え」
「細かいとこ突っ込むなよ。思いつきの発言なんだからさあ」
「発言には責任を持て」
本人確認をして一分も経たないうちから、プロイセンとザクセンは実に気安く言葉を交わし出した。しかも話題は、この場とは蟻の足の先ほども関係ないカニについてだ。どこで知識を仕入れたのか、プロイセンはスベスベマンジュウガニの生息分布や生態についてなぜか熱く語り出した。途中までは相槌を入れたりうなずいたりと反応を返していたザクセンだったが、エスカレートするプロイセンについていけなくなったのか、途中からもうやめてコールを出しはじめた。が、プロイセンの脳には届いていなかった。そいつどうにかしてくれ、とブランデンブルクにヘルプを求めて目をやったそのとき、
「あ、ブランデンブルクがうけてる」
ザクセンは彼の周りに楽しそうな空気が漂っていることに気づいた。ザクセンの指摘にはたと止まったプロイセンが、すぐに横を振り返った。と、ブランデンブルクとばちりと目が合った。
「なんだよ、俺の博識に感動したか? 俺に熱視線送ってたみてえじゃねえか」
都合よく解釈したプロイセンはにやりと笑うと、ブランデンブルクの鼻先を人差し指で軽く突付いた。無口で静かな彼だが、無感動というわけではなく、むしろプロイセンの連れ合いだけあって、外面的な印象に反して感情の起伏がかなりある。読み取りには相当の付き合いの長さというか熟練が必要なのだが。
「バカップルめ……」
にわかにいちゃつき出したふたりを何か諦めたような目で見つめるザクセン。醒めた、というよりむしろ生温かいかもしれない。
一方、わけのわからない方向に突き進んでいく展開からひとり取り残されたドイツは、いまだ呆けた表情のまま一メートル先でべたべたしているふたりを眺めながら、ぽつりと一言漏らした。
「いったいどうして……」
もう何がなんだかさっぱりである。
いきなりプロイセンが姿を見せたことも、彼がこの部屋でブランデンブルクとけっこうな勢いで絡み合っていたことも、スベスベマンジュウガニの詳細が延々と述べられたことも。
カオスの中心に身を置きながら事態を把握できず、ドイツは途方に暮れるばかりだった。ザクセンとて条件は同じだろうが、彼は事情がわからないながら、プロイセンらのノリにしっかりとついていっていた。ひとり取り残されたドイツは、口を挟もうにもタイミングと話題に窮していた。
質問にすら困った様子のドイツに、プロイセンが呆れながら苦笑を浮かべた。
「おまえさ、もうちょっと別のリアクションねえの? 驚くとか感激するとかさあ。つまんねえやつだな。まあ、昔からおまえはそうだけどよ」
もっと劇的な反応を期待していたのか、プロイセンはちょっぴり不満そうだ。ドイツは真顔で彼をまっすぐ見つけ返した。
「驚いていないわけないだろう。いますぐヴルストを茹でに調理室に行きたい気分だ。……ザクセン、ヴルストは冷蔵庫にあっただろうか?」
「は? 知らないよ、そんなこと」
動揺を収束させるには日常的で習慣的な行為に没頭するのが手っ取り早い手段だ――なんてことが書かれた怪しげな実用書でも最近読んだのだろうか、ドイツはいきなりヴルストを調理したいと希望してきた。突然のことに、なんのこっちゃと口をぽかんと開けるザクセン。そんな彼をよそに、ドイツは最近一週間の食料品購入履歴について列挙しはじめた。機械のような正確さだ。いや、一人暮らしの彼の買い物事情なんて知らないので、彼の言っていることが事実なのかそれとも混乱した彼の脳が勝手につくり出して乱打のごとくアウトプットしている法螺なのかは定かではないが、生来の威圧感も手伝い、異様に説得力があった。内容は食べ物のことばかりだが。
くだらないといえばこれ以上ないほどくだらない報告にザクセンは呆気に取られつつ、プロイセンに目配せをした。合図に気づいたプロイセンが彼に視線を寄越した。彼はじと目でプロイセンを軽くにらむ。
「おいプロイセン、ドイツのやつ確実に動揺してるぞこれ。焦らさず答えてやれよ。こいつが予期せぬ事態に弱いの知ってるだろ。いまにも頭から黒い煙がプスプス出てきそうだぜ?」
「もう出てるんじゃね? イメージ的には」
ククッと軋むような嫌な笑い声を立てながら、プロイセンは脚を組み替えた。地味に大パニックを起こしているドイツを観察するのが楽しくて仕方ないらしい。そんな意地悪しなくても、こいつの気を引くにはそこで座ってるだけで十分なのに。ザクセンは胸中で苦く笑う。
と、そのとき、ドイツが突如立ち上がり、両手を机に突いて身を乗り出した。そして、
「ブランデンブルク、最近ヴルストを買ったか? 俺はここ三日ほど新しくは購入していないのだが」
脈絡なくブランデンブルクに話を振った。彼は数秒きょとんとしたあと、律儀にもドイツに答えていた。小さなジェスチャーで、ナイン、と。
「そうか、では俺が買ってくるから少し待っていてくれ」
そう言うと、ドイツはおもむろに体を反転させて買い物に出かけようとした。慌てて彼の袖を掴んだ引き止めるザクセン。
「落ち着けよ」
「俺はきわめて冷静だ。ヴルストの製造法についてメーカーで社員教育の教壇に立てるほど」
「……とりあえずヴルストから離れろ、な?」
ザクセンはこめかみを押さえながらうめいた。段々と事態が意味不明な方向に邁進し、収拾がつかないことになっているような。こういうときの頼みの綱は(認めたくはないが)プロイセンなのだが、肝心の彼は頬をにやつかせるだけで一向にドイツを鎮めてくれる気配がない。きっと、些細な未知の状況に遭遇し、困って泣きべそをかいている幼児をハンディカムでホームビデオに収める大人の心境に違いない。
筋骨たくましい身長百八十センチの大の男が取り乱す光景を微笑ましく見守っていたプロイセンだが、ふいに脇腹を突付かれる感触にちょっと首を曲げた。視線を少しばかり横に移動させると、ブランデンブルクが神妙に眉をしかめているのが見えた。
「うん? なんだよ?……ああ、わかったわかった、そろそろ言うって。あんまもったいぶってもかわいそうだしな」
ドイツの混乱ぶりを見かねたのか、ブランデンブルクがプロイセンを無言で咎めた。プロイセンも潮時だと判断したのか、あっさりと首を縦に振った。そして椅子から腰を持ち上げ手前に置かれた長机を行儀悪く跨ぐと、大股でドイツの隣まで移動した。彼はドイツの肩に片手を乗せると、
「ま、とりあえず座れ。ここは話し合いの場だぜ。途中退場は失礼ってもんだろ」
「しかし、市場からの仕入れ時刻の締めを考えると――」
「いいから座れ」
下に向けて軽く力を加えた。有無を言わさぬ力でも口調でもなかったが、ドイツにとっては従わざるを得ない何かがあるのか、まだ表情に混乱を残しながらも素直に座った。プロイセンは満足そうに目を細めて小さく笑った。
「……いい子だ」
どぎまぎと視線をさまよわせるドイツの顎に手をそえて自分のほうを向かせると、プロイセンは彼の頬を撫でた。
その感触に言いようもない懐かしさが湧き上がるのにある種の感慨を覚えながら、ドイツはなかば陶然とした声音で呟いた。
「おまえはいったい……」
「おまえの推測で当たってると思うぜ?――おまえがまだ俺を忘れていないのなら」
思わせぶりな発言とともに不敵な笑みを浮かべ、プロイセンはドイツの顎をほんの少し上向かせた。見つめ返すドイツの瞳は、ともすれば、泣き出しそうでもあった。
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