ドイツと親戚のお兄さんたち 4
頬に添えられたプロイセンの手は肉刺と節くれだらけだった。そのごつごつした感触は、ドイツの胸にたとえようもない激しいノスタルジーを掻き立てた。彼はプロイセンの手の甲を包むように自分の手を置くと、
「本当に、おまえなのか……?」
かすれた声で問うた。先ほどから同じ部屋にいて、しかも、いまは目の前にいて、こうして自分に触れている。けれどもまだ――いや、彼と触れ合っているからこそ一層、その事実が信じ難かった。いや、感情と本能は彼が彼であることを告げている。が、理性がそれに疑問を挟むのだ。ずっと前に姿を消した人物がいまになって現れるなんて、夢物語並の空想ではないか、と。
まばたきを忘れて凝視するドイツ。と、それまで不敵に笑っていたプロイセンの面差しに、かすかに寂寞の影がよぎった。
「わからないのか? 俺のことが」
彼の声に少しだけ自信のなさそうな響きを感じ、ドイツはゆるりと首を左右に振った。
「いや……確信はある。おまえは、おまえだ。間違いない。俺が間違えるはずがない。だが、自分でもその根拠がわからない。理由もなく確信をもつのは危険だとわかっているのだが……」
目の前の男をプロイセンと同定する自信はある。自分が彼を間違えることはないと。だが、その根拠を説明できず、ドイツは言葉を濁すしかなかった。彼が彼であることを証明する手段を思いつかない。ただそう感じるとしか言えないのだ。
どんな言葉を掛ければいいのか。言語的思考が処理能力の限界に達し、ドイツはその場で小さく口を開閉させた。眼前に彼がいるのに、何も言えないのがもどかしくてならない。
悔しげに唇を噛むドイツの頬からそっと手を離すと、プロイセンは整えられた彼の前髪をくしゃりと撫でた。
「悪くない答えだ。……よく覚えてたな」
いくらかの安堵をない混ぜにしながら、プロイセンは自分が乱したドイツの髪を整えるように梳いた。ドイツは無言でそれを受け入れる。大人になってからも何かと彼に子供扱いされるのはおもしろくない――が、このときばかりは、それが嬉しくてならなかった。
静かに感慨と感動に耽っているドイツに、プロイセンはくすぐったそうな苦笑を漏らした。そして、指先でドイツの鼻頭をちょんと突付いて現実に引き戻したあと、手近にあった椅子を掴んで彼の正面に座った。せっかく配置した話し合いの席など完全無視だったが、幸いこの場にいるのは身内ばかり、誰も異論を挟まなかった。いつの間にか、ブランデンブルクまでドイツのそばに移動している。これが個人の家だったら、微笑ましい親戚の集いの画に見えたかもしれない。
まだ呆然としたまなざしのままのドイツの前でプロイセンはリラックスした様子で脚を組んだ。
「一から全部説明すると一週間ここに缶詰になっても終わりそうにねえからよ、とりあえず要点だけかいつまんで話しとく。あ、俺が誰かなんて野暮なことは聞くなよ? そんなことは自分で察しろ」
へっ、と軽薄に笑ったあと、彼は真顔に戻って目を閉じて話しはじめた。神妙になりすぎないよう注意しながら。
「ま、地図のとおりってわけなんだけどな。あの戦いのあと、東部が分割された結果、俺はロシア――当時はソ連だな――に組み込まれた。ま、これについては仕方ねえ。そういう立地だったんだからよ。ブランデンブルクだけでもおまえんとこに残れてよかったぜ。んで、そのあと改名されて現在に至ってるってわけ。どーもおまえらにはそのへんのこと伝わってなかったみてえだな。なんだよさっきの顔、幽霊でも見ちゃったみたいな」
茶化すような口調で先刻のどっきり企画のような再会場面を揶揄すると、ドイツの隣で成り行きを見守っていたザクセンがぼそりと呟いた。
「いや、あれはそういう種類の驚きじゃないんだけど……」
映画やドラマではあるまいし、会議室で絡み合っているなんて予想の範囲外だ。しかも、目撃するほうにしたら視覚への暴力としか思えない光景だったのだし。
もうちょっとTPOをわきまえろよ、と元夫婦をじと目で見やるが、プロイセンはもちろんブランデンブルクのほうも、聞き入れる気はなさそうだった。こんなところで息を合わせないでほしいのだが。
そんなザクセンの心境など気にも留めず、プロイセンは話を続けた。
「俺としても早く連絡したかったんだけどよ、俺の実家ちょっと前までアレだったじゃん? ずーっと許可が降りなくてな。結局こっちのほうで壁をはじめとする諸々のモンがぶっ壊れるまで、にっちもさっちもいかなかったんだ。いや、俺んちについて言えば、そのあとのが厄介だったんだけどよ」
と、プロイセンは組んでいた脚を解くと、机に肘を突いて若干前に乗り出した。至近距離でドイツを見つめながら、
「おまえは知らなかっただろうが、ここ何年か、ちょくちょくこっち来てたんだぜ?」
いたずらっぽい調子で言った。ドイツは目をぱちくりさせた。
「なんだと?」
こちらへ来ていた? 年単位でカウントするくらい前から?
聞いてないぞ、そんなこと。
プロイセンの予想外の発言に困惑した様子のドイツ。プロイセンは自身の横髪をがしがしと掻きながら苦笑とともに自嘲した。
「いまはましになったけど、ちょっと前まで俺んちめっちゃ家計苦しくてなー、元夫婦のよしみでこいつにちょっくら助けてもらってたんだわ。ありがとな、ブランデンブルク」
と、素直に感謝の言葉を述べたかと思うと、プロイセンは上半身を斜めにひねり、隣のブランデンブルクと向き合った。そして、相手の頬と顎に手を添えたかと思うと、ごく自然な動きで軽くキスをした。彼らのすることなのでいまさら驚きはしないギャラリー二名だったが、
「うわ〜……同じ顔どうしって破壊力あるな……」
ザクセンは飽き飽きした調子でぼやいた。自分とほぼ同じ顔をしたやつが相手だなんて、よっぽどのナルシストじゃなきゃ耐えられない、とこっそり思った。
一方ドイツは昔得た免疫が賦活してきたのか、プロイセンとブランデンブルクのいちゃいちゃを空気のごとくスルーし、真顔で尋ねた。
「ということは、ブランデンブルクはおまえのことを知ってたのか」
身を乗り出し、ややもすれば剣呑になりそうな雰囲気のドイツを宥めるように、プロイセンはうなずきつつ眉を下げて見せた。
「つっても、再会したのは数年前のこった。それまではこいつも全然知らなかったんだぜ。いやあ、再会したときのこいつの感激ぶりはすごかったぜ。半世紀ぶりにめちゃ燃え上がったな、あんときは。……なあ?」
背もたれに片腕を引っかけ、気障ったらしく脚を組んだプロイセンが、明確な含みをもたせたいやらしい笑みを浮かべた。放っておくとすぐにふたりの世界に突入しそうだと察したザクセンは、野暮だと自覚しつつ彼らに待ったを掛けた。
「なあプロイセン、そのあたりは頼むから割愛して。脱線するから。いま一応会議中ってことになってるし」
「ああ、まあそれもそうだな。どこまで話したっけ? ああ、そうだ、ブランデンブルクが先んじて俺と会ってたってことか。言っとくが、なんで教えなかったんだって、こいつを責めるんじゃねえぞ? 俺が口止めしてたんだから。まあこいつ無口だから、ペラペラしゃべる心配もそんななかったわけだが」
「口止め? なぜ?」
納得がいかなさそうな口調でドイツが問う。プロイセンは目線を壁に逸らしながら、少し言いよどんだ。
「ん〜……なんつーかさ、なんか金たかるみたいで嫌じゃん? そりゃあの野郎に分捕られて絶賛下働きだけどよ、それでも俺にだってなけなしのプライドはあるんだぜ」
「やはりブランデンブルクのほうが頼りやすかったか、おまえにとっては」
プロイセンは行儀悪く右膝に乗せた左足首を手持ち無沙汰に掴みながら、ふっと息を吐いた。
「ま……お互い知り抜いた仲だからな、気楽っちゃ気楽だ。三百年の年月は伊達じゃねえよ。でも、おまえに無断でってことはなかったと思うが。こいつだって立場と情勢はわきまえてるし、俺も形式は守れって言っといたし」
「確かに、彼がカリーニングラード――つまりいまのおまえ――への助成について話してきたことはあったが……まさかそんな裏事情があったとは」
感情の整理がつかないのか、ドイツは複雑そうに表情をゆがめた。しかし、黙って思い悩むのも苦しいらしく、立て続けに質問を繰り出した。囲むように並んでいる年長の親戚たちを見回しながら。
「知っていたのはブランデンブルクだけなのか? この様子だとザクセンは知らなかったようだが……」
ちら、とドイツの視線を受けたザクセンは首をぶんぶんと左右に振り、もちろん知らなかったさ、と全力で主張した。
落ち着きを欠いた、というより、心持ち苛立っているようにも見えるドイツを観察していたプロイセンは、意地悪そうに口角をつり上げた。
「……なんだおまえ、もしかして妬いてんのか? おまえより先に連絡取ったやつがいるってことによぉ」
柄の悪い笑みとともに尋ねるプロイセン。目の前の生真面目な青年が少しばかり慌てるのを期待したのだが――肝心のドイツは、真面目すぎるあまり実直に答えてきた。
「いや、真っ先に知らせるのがブランデンブルクだということに異論はない。長く深いつき合いなんだからな、それは当然だ。彼をスキップするほうが問題だ」
なかなかの模範解答ぶりだが、ドイツのことなので、建前ということもあるまい。プロイセンはため息を吐いた。
「物わかりよくてつまらねえよな、おまえって。なあ、ブランデンブルク? ここでちょっとは妬いてくれりゃ、かわいいってもんなのにな?……ん? 内心じゃあいつもちょっと妬いてるって? ああ、そうかもな。自覚なさそうだけど」
プロイセンは目線だけでブランデンブルクと会話を交わすと、再びドイツへと視線を戻した。好奇心を宿した瞳を向けられたドイツは、なんとなく座り心地の悪さを覚えて椅子の上で身じろいだ。と、プロイセンは前触れもなくドイツのほうへ左腕を伸ばすと、親指と中指で輪をつくり、全開になっている彼の額にデコピンをかました。手加減されていたのでたいして痛くはなかったが、ドイツは反射的に目を瞑った。まぶたを下ろした顔が普段の印象よりも年若く見え、プロイセンはちょっとした満足感と名状しがたい懐かしさを覚えた。
ドイツは額を指先でさすりながら、プロイセンおよびブランデンブルクから受けた指摘をいくらか認めるように言った。
「まあ……年単位で先送りにされていたのは少し腹立たしいが……再会がブランデンブルクと同時でなくてよかったとは思う。一緒だったらたまったものではない」
「あ、なんでそーいう冷たいこと言うんだよ。いまこいつちょっと傷ついたぞ」
その発言は聞き捨てならない、とばかりにプロイセンが頬を膨らます。ブランデンブルクは、なぜドイツに――かわいいドイツに――そんなことを言われたのか理解できないようで、困惑気味だった。
いまのは少々言葉が足りなかったか、と反省しつつ、ドイツは弁明した。
「いや、だって……再会したらおまえら絶対その場でいちゃいちゃベタベタし出すだろう。事実そうだったんじゃないか? さっきここで会ったときも相当アレだったし……」
ドイツが憶測を口にすると、プロイセンは悪びれもせずおおいにうなずいた。
「おう、あの日はそりゃもう熱かったぜ――晩から、朝まで。なあ、ブランデンブルク?」
思わせぶりな疑問調で語るプロイセンの声は、心なしか甘ったるさを帯びていた。聞いている人間の背筋をむずむず、あるいはぞわぞわさせるような何かがある。
「朝から晩まで、じゃないのが意味深でヤだなあ……」
うへえ、と変な声を出すザクセンのことはさくっと無視し、プロイセンはブランデンブルクとの再会がいかに感動的かつ情熱的であったかを解説しはじめた――恐ろしいことに。
「ああ、でも、ちょっと見せてやりたかったかもな――俺らの仲。もしかすると、いままででいちばん熱い一日だったかもしれねえし。再会した日、俺は支援についてブランデンブルクんちで話し合い、具体的な数字をひと通りまとめたあと、椅子から立ち上がり、帰り支度をはじめた。こいつも手伝った。お互い別々の方向を向いて無言のまま荷物を片付けていたんだが、ふとこいつの手が視界の端に入ったとき、俺は衝動的にその手を握った。その瞬間、俺らの間にともに流れた三百年の年月が洪水のようにフラッシュバックし、俺はこいつの手首をきつく握って引き寄せると、横のテーブルに腰をつけて体重を預け、半世紀の空白を埋めるように――」
解説は言語のみならず、再現という名の実演を交えて行われた。すなわち、プロイセンとブランデンブルクが意味深長に接触し出した。
「やめてくれ! 聞きたくない! あまつさえ再現するな! ブランデンブルクもこんなところでその気になってくれるな!」
耳を両手で力いっぱい押さえて塞ぎながら、ドイツが悲痛な懇願を叫んだ。
「えー? 野暮なこと言うなよ、これからがいいとこだってのに」
「なおさらやめてくれ!」
彼らの不毛な言い合いを、バカップルな両親に悩む思春期の少年のようだな、とザクセンは第三者的視線でしばし傍観した。そんな目で眺めていると、いまとなっては遠い日々、まだ青臭さと少年らしさを残したプロイセンたちと、いまよりずっと小さかった頃のドイツの姿が脳裏によみがえった。微笑ましい思い出だが、思い出とは畢竟過去に閉ざされた時間の一幕だと考えると、切なくもあった。
柄にもなくしょっぱい気持ちになったザクセンは、靄を払うように頭を振ると、
「なあ、脱線激しいけど、そろそろ本題戻ろうよ? なんかもう、何のために集まったのかさっぱりじゃん。忘れがちだけど、これってウチとロシアんちの間の話し合いの席ってことになるんだろ? 会議は踊るじゃ上司にどつかれかねないぞ」
いよいよ無関係な方向への暴走の兆しを見せはじめた三人を引き止めた。ザクセンの冷静な意見は、ヒートアップしたプロイセンの頭を急速冷却させた。彼ははっとして背筋を正し、
「ああ、いけねえ。どうにも身内ばっかだと気が緩むな。……続きはあとでな、ブランデンブルク」
名残惜しそうにブランデンブルクの頬を指の背で撫でると、鼻頭に唇を落とした。ブランデンブルクもまったく同じ行為を返す。言動はおとなしい彼だが、プロイセンの連れ合いだけあって妙なところで大胆だ。ザクセンはこめかみを人差し指で押さえながらひそひそとドイツに話しかけた。
「なあ、これってセクハラの一種じゃね? こいつらの横暴に適用できそうな法律とか条例ってある気がするんだけど……」
「十分適用可能だと思うが、これを訴えるのも恥ずかしいな……」
やはり小声で返すドイツ。正面から聞こえてくる、ちゅ、という音の繰り返しを意識から締め出しつつ、ふたりはげっそりとぼやき合った。
「どっちも血縁だもんなあ……お互い恥ずかしい身内を持っちまったもんだよな」
「全面的に同意せざるを得ない」
「バイエルンがいたらこの部屋の机全部ひっくり返してるだろうな……」
「かもな」
うなずきながら、ドイツは目の前でいちゃつくふたりに小難しい視線を投げた。彼らがあまりにどっぷりとふたりの世界に浸かっているのでちょっとした疎外感があった。けれどもドイツの中では安堵のほうが大きかった。険悪な雰囲気になられるよりはずっといい。文句や苦言を呈しはしたが、仲の良いふたりを見るのは嫌いではなかった。遠い昔から、ずっと。
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