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ドイツと親戚のお兄さんたち 7


 しがみつくドイツの手はプロイセンの服の背に深い皺を刻んだ。彼の左肩に顔をうずめ、ドイツは縮こまるようにして背を丸める。そしてそれきり黙り込んでしまう。彼の存在をすでに諦めていたドイツからすれば、言葉に表すことのできない万感の想いがあるのだろう。額を彼の肩口に擦り付け、反対側の肩甲骨の辺りを包むように抱く。痩せて骨っぽい感触が伝わってきたことに、ドイツは言い知れぬ時の流れを感じた。最後に彼にこうして素直に甘えられたのはいつのことだっただろうか。まだ彼を見上げるくらいの背丈の頃、彼の背中は少年の目にずいぶんと広く頼もしく見えたものだった。だが、大人になったいまこうしてみれば、それほどでもないことがわかった。彼は長い間、この背に自分を背負っていてくれたのだ。言葉にならない懐旧と感謝の念が湧き上がり、ドイツはますますぎゅっと彼の肩を抱いた。その温かさが昔と変わらないことに胸打たれながら。
 激しい感情の波に揺られた長い沈黙のあと、ドイツは緩慢な動作で彼の肩からわずかに額を浮かせると、少しだけ震える声でたった一言、
「会いたかった」
 と言った。半世紀間積もりに積もった想いを押し込めるにはあまりに短い言葉。けれども、何よりも端的に彼の想いを表していた。
 そう、会いたかったのだ。彼を亡き者だと思い込んでいたときでさえ、自分は本心では彼に会いたくてたまらなかった。それを叶えるすべがないと理解しながらも、感情は彼を求めてやまなかった。会って、それでどうするかなんて先のことに考えなど及ばなかった。ただもう一度会いたかったのだ。
「俺は……おまえのことを忘れはしなかったが、すでに過去の存在として、諦めることはできていたと思っていた。でも、いまわかった。やはりそんなのは無理だったんだ。俺は……おまえに会いたくて……会いたくて、たまらなかったんだ。ずっと、そう思って、いたんだ」
 熱い息とともに途切れがちに心のうちを語るドイツ。プロイセンは少しだけ顎を上向けて宙を仰ぐと、ゆっくりと目を閉じながら相手の背を緩く撫でた。
「ああ……俺もだ」
 と、彼はおもむろに頭を後ろに引いた。離れるのを嫌がるように、ドイツの腕の力がかすかに強くなった。彼は苦笑しつつ、すぐに動きを止めると、ドイツの顔を正面にとらえた。そしてその頬を両手で包み込むと、
「会いたかったよ」
 平生の彼からは想像のつかない、優しく穏やかな調子で言った。
 ドイツは頬に触れてくるプロイセンの手の上に自分の手をかぶせると、感涙を絶えるようにきつくまぶたを下ろした。
「もっと早くに知りたかった。おまえが生きていると」
 閉ざした視界の先で、プロイセンがちょっとばつが悪そうに視線を躍らせる気配がする。
「悪い……俺も思うところがあってさ、踏ん切りがつかなかった。ブランデンブルクに連絡とって、ちょくちょくこっちに来るようになってから、たまにおまえの顔、遠くから見てたんだけどさ……」
 ドイツの目尻に微少ながら溜まった水を親指で拭ってやりながら、プロイセンは申し訳なさそうに眉を下げた。ドイツは漠然と遠くを眺めるようなぽかんとした表情で呟いた。
「そうだったのか」
「ああ。見てた。見るといつも、こうしておまえを抱き締めたい衝動に駆られたもんだった。ほんの数メートル先におまえをとらえてたことだってあったんだぜ」
「そんなに近くに……なぜ気づかなかったのか」
 ショックを受けたというほどではなさそうだが、やはり意外だったようで、ドイツは呆然としながらプロイセンの顔を見つめた。普段のむっつりした小難しい顔つきが鳴りを潜め、いささか幼い印象を与える表情だ。プロイセンはそんな彼に郷愁に似た懐かしさを覚えた。
「そりゃ、俺が気づかれないようにしてたからさ。ま、気づかれてもブランデンブルクのフリを決め込むつもりだったけどよ」
 場を和ませるようにそう言うプロイセンだったが、ドイツは頭ごなしに否定してきた。
「無理だろう。おまえが彼の真似なんて。すぐにボロが出るに決まっている。その口がついている限り」
「何を言う。俺はあいつのことはぜーんぶ知ってんだよ。演技くらいチョロイもんだぜ」
「たとえそうであっても、俺は騙せないぞ。ほかのやつはともかくとして」
 ドイツは珍しく挑戦的な口調で言った。それだけ自信があるということだろう。プロイセンも、それを生意気とは感じないようで、
「そういや、おまえは俺らを間違えたことなかったな。初対面の頃は別として」
 遠い過去を振り返るときに特有のまなざしで虚空を見た。
「間違えないさ。ブランデンブルクのほうがかっこいいからな。無駄な口を叩かない分」
 身内同士の気安さが出てきたのか、ドイツにしては珍しい軽口が出てくる。一瞬気色ばんだプロイセンだったが――
「なんだと?……いや、それはつまり、遠回りに俺を褒めてるんだな? ふっ、回りくどいやつめ。もっと素直に褒め称えたっていいんだぜ、俺は照れん。なぜなら厳然たる事実でしかないからだ」
 すぐさま不敵な笑みを浮かべると、一筋の照れも謙遜もなく、ドイツの弁を都合よく解釈した。左右非対称につり上がったプロイセンの口角に目をやりながら、ドイツが微苦笑する。
「そういう顔すると決定的に見分けられるんだが……」
 顔立ちは同じだが、顔つきは違う。だから、表情がついているときの彼らの顔の印象は異なる。多分表情筋をより激しく使用しているのは
 ドイツはプロイセンの白唇の左端を軽く指先で突付いて下げさせてシンメトリーに戻し、改めてしげしげと眺めた。
「しかし、そっくりなのは確かだな。片方を見ているともう片方も自然と浮かんでくる」
 ふいに、ドイツが目線を下げる。数回のまばたきと唇のよどみのあと、彼は自嘲気味の苦笑いで口元を彩った。
「そのことで……ブランデンブルクにはずいぶん気を遣わせてしまった。再統一後も、彼はあまり俺に会わなかった。……顔を合わせたら、俺がおまえを思い出すのではないかと心配してくれたんだろう」
 思うところがあるらしく、ドイツは後ろめたそうな調子で話した。彼の言葉の背後にあるものが何であるのか推測がつかないではなかったが、プロイセンは追究することはせず、話の相槌としてこくりと小さくうなずいたあと、しみじみと語った。
「あいつもあいつで、ずいぶんおまえのことかわいがってたもんな。再会したあとさあ、早くおまえに会ってやれって、あいつにすげえせっつかれてたんだぜ? あの野郎、おまえ絡みだと俺にだって容赦しないからよー、ちょくちょく喧嘩になったりもした。ま、この件についちゃ俺のが立場弱いから、勝てっこなかったんだけど」
 ドイツが知らない間に(元)夫婦喧嘩が繰り広げられていたらしい。といっても彼らのことなので、最終的には仲直りと称していちゃいちゃしていたに相違ないが。
 ドイツは、ふ、と力を抜いた微笑とともに、思い出を振り返るときに現れる、何とも言えない独特の響きを帯びた声で呟いた。
「彼らしい。そういえば、訓練でおまえに泣かされたときは、彼がフォローに回ってくれたものだったな。……懐かしい」
「あいつ、そんなことしてたのかよ。甘やかすなってあれほど言い含めといたのに」
 むぅ、と唇を曲げるプロイセン。ドイツはちょっとおかしそうに笑ったあと、穏やかな調子で言った。
「時効だ」
「……だな」
 すべては遠い過去の出来事。それはふたりの間で共通の認識であり、だからこそ、彼らはこの話題について笑い合うことができたのだろう。
 けれどもその事実は同時に、分かたれた時間の長さを痛切に彼ら自身に知らしめるものでもあった。思い出を懐かしく思えるのは、それが本当に過去の時間の中に収められているということだ。古いアルバムの中の写真のように。
 途方もない時間を別々に歩んだ。その道がこの先も完全に合流することはないだろう。
 プロイセンはいま一度その現実を心中で噛み締めると、数回の浅い呼吸のあと、少し大仰な動作でほっと息をついて見せた。
「おまえが快く迎え入れてくれてよかった、本当に」
「不安だったのか」
「信じてなかったわけじゃねえよ。ただ、まあ……空白が長すぎたからよ」
「そうだな。……長かった」
 プロイセンの言葉をドイツは切々と肯定した。プロイセンの生存を知らなかった分、ドイツにとっての体感的な空白の時間は、プロイセンのそれよりも長かったに違いない。
 プロイセンもそれは理解しているようで、いい子だったな、というようにドイツの金髪をくしゃりと撫でた。会議中のどたばたや休憩室に入ってからの抱擁、そしていましがたのプロイセンの行為で、ドイツの髪はすっかり乱れていた。だが、ドイツはそれを気にするでもなく、心地よさそうにプロイセンの手に触れられるがままだった。




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