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ドイツと親戚のお兄さんたち 8


 プロイセンは整髪剤でべたつく指先をドイツの金糸に絡ませ、崩れてしまった前髪を元に戻してやろうと、頭髪の流れとは逆方向に撫で付けた。しかし、一旦型崩れを起こした髪型を手ひとつで復元することは不可能で、ドイツの前髪はすぐにぱらぱらと下り、秀でた額を柔らかく覆った。寝起きを思わせる、少し子供っぽい無防備なドイツの様子に、プロイセンは珍しく嫌味のない微少を浮かべた。すっかり大人になったドイツだけれど、表情によっては幼い頃の面影がふいによぎる。本人は無自覚かつ無意識だろうが、彼の少年時代を知っている者にとっては、思い出をくすぐられる懐かしい像だった。
「思春期の子供だったら絶対グレてるよなー、こんなに留守にしてたら」
 ふと、プロイセンが考え込むような難しい表情でぽつりと呟く。するとドイツの頭がぴくりと小さく揺れた。なんだ、とプロイセンが視線で問うと、ドイツは少々気まずそうな様子でおずおずと口を開いた。
「実はちょっぴりグレかけたんだ」
「へえ?」
 プロイセンが目を見張る。赤い瞳には、責めるでも問いただすでもからかうでもなく、純粋にその先の説明が聞きたいという好奇心が浮かんでいる。ドイツは何秒かの逡巡のあと、きまりが悪そうに頬を人差し指で掻きながら、知られざる過去を白状した。
「おまえがいないというのが、自分で思っている以上に堪えたらしくてな……一時期けっこう荒れていたんだ。それで、ブランデンブルクやザクセンに当たっていた」
「ああ、東の連中な。そりゃいい迷惑だっただろうな」
 プロイセンは目を細めた。実を言えば、そのあたりの経緯はすでにブランデンブルクから伝聞していた。あのヴェストでもそんなことが、といくらか驚くのと同時に、彼が遅まきながらそういう経験をしたことに安心もした。そしてまた、心残りでもあった。彼のそういった複雑に屈折した感情を受け止めてやれる場所に自分がいられなかったことが。本来なら、自分がそうした立場に立つはずだったのに。もっとも、ドイツにそうした鬱屈とした時期が訪れた最大の原因が、ほかならぬプロイセンを失ったことであるのだから、当のプロイセンが彼の激しい感情を受け止める立場に回ることなどあり得ない話なのだが。
 そんな思考を巡らしたプロイセンは、かすかに残念そうに眉根を寄せた。と、ドイツはそれを咎めと受け取ったのか、厚い肩を恐縮気味にしゅんとすくめた。主に叱られた大型犬さながらの様子だ。
「彼らには、その、悪いことをしたと思っている」
 そのまま縮んでしまいそうなドイツの頭に、プロイセンはぽんと手を乗せた。
「反省してるなら、そんだけ成長できたってことだろ。結果オーライだ。それに、おまえのすることなら大目に見るだろ、あいつらは。……おまえに、そんなふうに当たれる相手がいてよかったよ」
 それが俺じゃなかったのは残念だけど――その言葉は、付け加えることなく胸中に仕舞いこんだ。代わりに、そばにいてやれなくてごめんな、と言おうとしたが、それもやはり声にはならなかった。自分の謝罪の言葉は、ドイツにとっては自身を責める材料にしかならないだろうと思われたから。
 プロイセンの意味ありげな沈黙の意味を察したのか、ドイツはあまり気を遣わないでくれというようにふるふると頭を左右に振った。
「情けないことこの上ないが……身内なのをいいことに、かなり当たってしまった。特にブランデンブルクには、顔も見たくない、なんて言ってしまったことがあるし……」
 過去の自分の台詞をひどく悔いているようで、ドイツは消沈するような深いため息を吐いた。激しい自省の念に駆られている彼の姿を横目でとらえながら、プロイセンは咎めるふうでもなく、ただの感想のように述べた。
「そいつは堪えただろうな、あいつも」
「すぐに後悔したが、謝る前に物理的な障壁ができて、会えなくなってしまってな……結局謝罪できたのは、何十年も経ってからのことだった。許してもらえたときには、心底ほっとした」
 ドイツは胸に手を当てて安堵の仕種をして見せた。数十年単位で後悔していたらしい。このくそ真面目が、とプロイセンはちょっぴり呆れながら肩をすくめた。
「ま、あいつのこった、一種の通過儀礼だと思って受け止めたと思うぜ? あいつといいザクセンといい、連中、昔からおまえに甘いしよ」
 プロイセンがぼやくと、ドイツが思い出したように呟いた。
「そう言えば、おまえがいちばん厳しかったな」
「俺まで甘かったら教育が成り立たんだろ。ったく、嫌な役回りは全部俺だったぜ」
「そうだな……おまえには本当に世話になった」
 プロイセンと過ごした日々は、楽しい思い出ばかりではなかった。時に血反吐を吐く思いを――字義通りの意味で――したこともある。もっとも、そのことで彼を恨んだことはない。彼が自分のためにならないことをするはずがない――そう思える程度には、ドイツは彼を信じていたし、彼もまたその信頼に値するに十分なものを与えていた。
「少しは恩を返せるといいのだが」
 自信なさげにドイツが呟くと、プロイセンがにやりとお決まりの笑みで口の端をつり上げさせた。
「そうしてくれるんだろ、これから」
「そのつもりだ」
「期待してるぜ」
 茶化すようにドイツの胸板を軽く小突くプロイセン。ドイツは身じろぎもせず、真顔で答えた。
「ああ。ぜひしてくれ」
 その態度があまりに真摯であると同時に自然であったので、プロイセンは数秒呆けたあと、
「頼もしい限りだな。あのガキがこんなに立派になっちまってまあ……おにーちゃんは感激だぜ。はー……小便垂れて泣いてた頃が懐かしいぜ」
 遠い目で感慨深げに追想した。ドイツにとってはこの上なく恥ずかしい思い出を。
「それは懐かしまないでくれ」
 ドイツはげんなりした口調でそう頼んだ。幸いこの場には思い出の当事者しかいないので、慌てて相手の口を塞ぐような行動に出ることはなかった。もっとも、年長の親類たちは軒並みドイツの『忘れてほしい過去』をしっかり記憶(場合によっては記録)しているような連中なので、仲間内だけの空間であればプロイセンの声が漏れたところでどうということはないかもしれない。
 しかし、いくら外聞を気にしなくてもいいとはいえ、当の本人にとってはやはり恥ずかしいものは恥ずかしい。この話はやめよう、というようにドイツは首を振るが、プロイセンはますますおもしろそうに唇をにやりと曲げる。
「えー? めちゃ懐かしいじゃん。いいだろ、いまにしてみればかわいい思い出じゃん」
「俺にとっては忌まわしい思い出だ」
 重苦しいドイツの声とは対照的に、プロイセンはけらけらと軽薄に笑っている。プロイセンにとっては楽しい思い出のひとつであるらしい。
「なんでだよ。後片付け一緒にやってさあ、楽しかっただろー?」
「俺は全然楽しくなかった」
 揶揄されたと感じたのか、ドイツはむっと唇をへの字にかたちづくると、あからさまに視線を逸らした。子供が拗ねるときのような仕種をするドイツを宥めるように、プロイセンはぽんぽんと頭を撫でた。
「共同作業ってのは、結束を高めるために重要なんだよ。おまえのことだから、俺に迷惑掛けて申し訳ないなんて思ってたんだろうが、全然違うぜ。むしろ逆。俺は嬉しかったんだよ、おまえがああいう姿見せてくれてさ。俺は確かにおまえが立派に育ったことを誇りに思っちゃいるが、何もそれだけを見ておまえを評価しているわけじゃない。俺は、おまえのダメなところも全部見て、それをひっくるめた上で、おまえのこと好きなんだから」
 無造作に髪を乱してくるプロイセンの手の下で、ドイツは時間にして数秒、体感時間的には永遠と思えるくらいの間、ぽかんとした。彼の口からあまりに呆気なく発せられた言葉が音波となってドイツの耳に届きさらに高次の場所で言語として処理され、その意味を認識したとき――彼は激しい波が胸裏に押し寄せるのを自覚した。その感情の名前を、知っているようで知らない気もしたし、また知らないようで知っている気もした。
「おい? どうしちまったんだ?」
 うつむいたまま黙り込んでしまったドイツを訝しく感じたプロイセンが、顔を近づけて覗き込んでくる。と、ドイツは自分の額のあたりに置かれた彼の手をそっと握った。
 掴んだ彼の手を、まるで宝物に触れるかのようにきゅっと両手で大事そうに握ると、ドイツは低く静かな、けれどもほんの少し上ずった声で彼を呼んだ。
「……プロイセン」
「なんだ?」
「ありがとう」
 ドイツの突然の簡潔すぎる謝辞に、プロイセンはきょとんとした。どういった文脈でいまの言葉が出てきたのか、彼には理解しかねた。彼は不思議そうに何度かまばたきをしたあと、照れるでもなく答えた。
「感謝されるほどのこっちゃねえよ。俺は俺のやりたいようにやっただけさ」
 しかし、ドイツはふるりと首を横に振ると、プロイセンの手の平を自分の額に押し付けさせながら、祈りのような厳かな声音で語った。
「この半世紀、あなたに伝えたかった言葉だ。自分がどれだけあなたに感謝しているのか、伝えたいと……伝えなければと思い当たったときには……何もかもが遅かった。あなたはもういなかった。でも……いまここで言えて、よかった」
 途切れがちなドイツの弁は、彼らしからぬことに、脈絡に欠けわかりにくいものだった。けれども、その感情を伝えるには十分なものだった。彼の真摯さはプロイセンを圧倒するだけの力をもっていた。
 静謐に似た沈黙が落ちる中、ドイツはプロイセンの手の平の熱を額に感じながら、改めてもう一度告げた。
「ありがとう……俺の家族でいてくれて」




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