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ドイツと親戚のお兄さんたち 9


 いつの間にか太陽は地平線の向こうに隠れ、残り火のようなかすかな陽光だけがほんのりと街を照らすだけになっていた。積もり積もった話を交わす中、ふいに顔を上げて窓の外を眺めたとき、プロイセンは夜の闇が迫っていることに気づいた。視線をやや上に移動させ、壁時計を見ると、
「あれ、もうこんな時間か」
 すでに定時を過ぎていた。ドイツもつられるように彼の視線を追ってアナログ時計の針が指し示す数字を読んだ。
「本当だ、いつの間に……。すっかり話し込んでしまったな」
「そうだな。まだまだ話は尽きねえけど」
 喉の渇きを覚えたプロイセンは、三杯目になるコーヒーを口に運んだ。すっかり冷め切ったインスタントのそれは香りも味も悪く、粘膜を潤おすという目的を果たしただけだった。ソファの背もたれに体重を預け一息ついている彼を前に、ドイツは少しそわそわしはじめた。どうしたんだ、とプロイセンが目で尋ねると、ドイツは数秒の逡巡のあと、
「あの……今日はこのあとどうするんだ? どこかに宿泊するのか? それとも……もう帰るのか?」
 顎を引き少し上目遣いになりながら遠慮がちに尋ねた。
 ったく、そういうとこは子供の頃とほんと変わんねえな――プロイセンは懐かしい気持ちで小さく苦笑した。彼がいまより若く、ドイツがいまよりずっと幼かった時代が脳裏によみがえる。外回りのためにしばらく留守にするという彼に、少年は落ち着かない様子で質問したものだった。どこへどうやって行くのか、どんな場所に滞在するのか、帰りはいつなのか。行かないでとも、一緒に行きたいとも、早く戻って来いとも言わない聞き分けのよい少年だったけれど、そんなときはたいてい少しだけ拗ねたような寂しそうな瞳をしていたのをいまでも覚えている。そのときの表情は、いま目の前に座る青年の顔に浮かんでいるそれとそっくりだった。
 プロイセンはもったいぶるようにしばし沈黙を守ったあと、それまでの思わせぶりな態度とは打って変わって気安い口調で告げた。
「いや、おまえんちに泊まる。いいだろ? 広いんだし。俺のほうとしても経費削減になるしよー。ゆうべはブランデンブルクんちに泊まったから、今日はおまえんちって決めてたんだ。荷物ならもうあいつに運んでもらってるし、準備は万端だ。ってなわけだから、これ決定事項な。泊めろ」
 行動は相手の了解を得てから、という発想は彼の中にはないらしく、実にずうずうしく、いけしゃあしゃあと言ってのけた。
 突然のことに呆気に取られたドイツは、まぬけな様子で中途半端に口を開き、ぽかんとしていた。昔から彼の傍若無人な振る舞いには苦労させられているドイツだったが、このときばかりは彼の甚大すぎる行動力に感謝した。彼の言い草はとことん横柄で無遠慮ではあったが、その発言内容はドイツの望みと合致したものだったから――つまり、彼はまだしばらくこちらにいて、自分と一緒に過ごしてくれるつもりだということだ。
 内心飛び跳ねるくらい喜んだドイツは、声が上擦りそうになるのを予想して口元を手で覆うと、なるべく冷静を装いながらくぐもった声音で答えた。
「それは構わないが……いきなりにもほどがあるぞ。事前に言ってくれればもっと丹念に掃除しておいたのに」
 別にそれほど掃除のことを気にしたわけではないが、喜色満面をつくれるような性格ではないドイツは、照れ隠しのようにそう言った。とっさに出てくる言い訳の種が掃除というのがなんとも彼らしかった。
 プロイセンはドイツの心境などお見通しといった余裕たっぷりの表情をしていたが、
「それじゃサプライズにならねえだろ。それにおまえの場合、普段から掃除ばっかしてるから大丈夫だろ」
 少しばかり嫌味ったらしく、相手の言葉を額面どおり受け取った返答をした。するとドイツは、これまた生真面目に返した。こちらは素でやっているに違いないが。
「う、うむ、多分大丈夫だ。客室も定期的に掃除しているし」
「はあ? おまえ、俺を客室に寝かせる気か。それはちょっと冷たいんじゃねえ?」
 ドイツの言葉に、プロイセンは非難がましい声を立てた。口を左右非対称につり上げ、目を細めるその姿は、どこからどう見ても柄が悪いという表現でしか表せなかった。本気で起こっているわけではないというのは雰囲気から察したドイツだったが、なぜ彼が唐突にこんな芝居じみた不機嫌な態度を取り出したのかわからず、困惑する。来客を客室に案内することが無礼にあたるというのだろうか? 彼が長らく暮らしているロシアでは、何かこう、こちらの人間には想像もつかないような特殊な歓待の儀式でも行うのだろうか?
 ドイツがおろおろしながらとんちんかんな想像を巡らすさまをしばらくおもしろそうに眺めていたプロイセンだったが、やがてちょっとかわいそうになったのか、あるいはその滑稽なさまに笑いを耐え切れなくなったのか、ククッと喉を鳴らすような笑い声とともに政界を示してやった。
「別に無茶な要求してるわけじゃねえから安心しろって。久々に顔合わせたんだしよー、ブランデンブルク誘って今夜は三人一緒に寝るか――昔みてぇによ」
「いっしょに寝……? え……?」
 プロイセンの発言の一部を復唱しかけたドイツだったが、その言葉が意味するところに引っかかりを覚え、口の動きを鈍らせた。少しばかり不可解そうに眉根を寄せているドイツに、彼は大きくこくりとうなずいて見せた。
「おう、一緒だ。懐かしいだろ」
 彼があまりに当たり前のように言ってくるので、ドイツは驚くのを通り越して呆れてしまった。
「一緒にってな……いい大人が何を言うんだ。だいたい、うちにそんな大きな寝床はないぞ」
 家が大きく客室も揃っているのでダブルベッドくらいはあるが、さすがに成人男子三人が一箇所に横になれるような寝床は用意できない。が、プロイセンもそのあたりの事情というか常識はわきまえているようで、即座に提案を出してきた。
「床にシュラフでいいじゃねえか。あるだろ、シュラフくらい」
「そりゃ物置を探せば出てくると思うが……それだとおまえたち訓練モードのスイッチが入るんじゃないか? 俺は嫌だぞ、つき合わされるのは」
 ドイツにとってプロイセンとの野外キャンプの思い出といったら、夏のバカンスにおけるアウトドアなんてさわやかなものではなく、もっぱら鬱蒼とした森や無人島における泥臭い命がけのサバイバル訓練の記憶ばかりが掘り起こされてくる。思い出すだけでげっそりといった様子のドイツだったが、プロイセンはぞんざいに左手を振りながらその可能性を否定した。
「心配しなくても、いまは所属上、おいそれとそういうことはできん。俺だってそのへんはわきまえてるぜ」
 彼の口調は軽いものだったが、発言の内容はドイツの胸に翳りをもたらした。もう彼が自分と同じところにいないという現実を改めて感じる。
「あ、ああ……そうだったな」
 そう呟くドイツは、包み隠さず寂しそうだった。しょぼんとして肩を落とすドイツの胸を、プロイセンは励ますように拳で軽く叩いた。
「まあそういうことだし、いいだろたまには。おまえがチビの頃は、俺らの間に挟んで寝てやったもんだしよぉ。おまえ一時期ひとりじゃ寝られなくてさあ、犬のぬいぐるみ抱えて夜俺らの部屋まで来てたよなあ。でもおまえプライド高いのか遠慮がちなのか、一緒に寝てほしいとはなかなか言い出せなくてさあ、潤んだ目で俺らを凝視して、無言で必死に訴えてただろ。ははは、あ〜、懐かしい」
 特に邪気もなく語るプロイセンだったが、ドイツにとっては恥ずかしい思い出のひとつだったようで、
「そ、それは相当昔のことだろう。その頃を除けば、俺はたいていひとりで寝ていたぞ。おまえたちの邪魔ができるものか」
 あたふたしながら自己擁護した。
「あんだよ、気ぃ遣ってたのかよ。ガキのくせに」
「だっておまえたち、俺が寝ているそばでも構わずいちゃいちゃし出すじゃないか。俺の頭上で。正直たまったものではなかったぞ」
 間に年端の行かぬ少年がいるからといって自重するような夫婦ではなかったので、ドイツは幼少期から彼らのいちゃいちゃを誰よりも間近で目撃する羽目になってしまった。もっとも、最初はふたりがなぜ眠らずになにやらごそごそしているのかわからなかったのだが。
 子供になんてもの見せるんだ、とちょっぴり腹立たしそうなドイツ。しかしプロイセンは悪びれるどころか愉快そうな笑みでもってろくでもないアドバイスをする。
「馬鹿、そういうときは寝たふりをしてがっつり観察するもんだろーが。見取り稽古は重要だぞ。せっかく俺らが実践観察のチャンスをつくってやったっていうのに、みすみす逃しやがって」
「あれ、わざとだったのか……とんだ露悪趣味だな」
 ドイツは呆れ返ったため息をついた。
 もっともいまにして思えば、彼らなりに子供に気を遣っていたらしいこともわかるのだが。本気で彼らがいちゃつき出したらあの程度の行為ではすまないということを、ドイツは後年知ることになったから。
 思い出したくないおぞましい記憶が脳裏で再生されかけ、ドイツは追い払うように頭をぶんぶんと左右に振った。そんな彼の心境を少しも汲まず、プロイセンがびしりと人差し指を向けてきた。
「そういう遠慮がちなところがおまえの悪いところだ。昔からよぉ」
「いや、遠慮という次元の問題でもないと思うんだが」
「ガキはわがまま言えるうちが花だってのに。……もっと甘えときゃよかったんだ」
 微妙に会話が成立していなかったが、プロイセンの後半の言葉にわずかながらしんみりしたトーンを感じたドイツは、それ以上の文句は言えなくなってしまった。
 甘えておけばよかった――大人になったいま、そう思うときがないではなかった。
 もっと甘えろよ。当時彼は何度もそう言ってくれたのに。
「……そうかもしれないな」
 うつむき加減になって顔を曇らせたドイツに、プロイセンは少し慌てた様子でこほんと咳払いをした。
「……ま、まあ、俺もちと厳しいとこあったしな。そう思い切って甘やかしてはやれなかったのは事実だな」
 と、彼はふいにソファに視線をやると、数秒凝視したあとおもむろにそちらへ足を向け、どかりと座った。ただし真ん中ではなく、かなり端に詰めて。彼の急な行動をドイツは不思議そうに見つめた。
 アームレストにぴったりと寄り添うようにして腰掛けたプロイセンは、自分の大腿部を手の平でパンっとはたいたあと、顔を上げてドイツと視線を合わせた。
「よし、そんじゃ埋め合わせすっか」
「埋め合わせ?」
 目をぱちくりさせるドイツに、プロイセンが手招きをする。
「来いよ」
「は?」
 ドイツは疑問符を浮かべながらも、相手の指示に従ってソファの前まで移動した。いい子だ、というように満足げにうなずくプロイセン。
「どうしたんだ?」
 尋ねてくるドイツに、プロイセンは自分の膝元を指差しながらにやっと笑った。
「ここ。寝転がれよ」
 彼の唐突な命令を即座には呑み込めなかったドイツは、きょとんとして目をしばたたかせるだけだった。




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