Thank you for your clap!


何十年か前のプロイセンとザクセンの話 番外編

帰還


 今日もまた大量の書類とにらめっこか。
 冬の朝、ザクセンは敷地の門のそばにある守衛の詰め所で入場手続きを済ませると、眠い頭を激励するように両手で一発、自分の頬をぱちんと叩いた。いつもどおりの出勤風景だ。
 建物の玄関をくぐって一階のフロアに入る。始業前の慌しさがそこかしこに漂っていた。彼はすれ違う職員と軽く挨拶をしながら階段へ向かった。階段の数メートル手前、通路が十字に交わるところへ差し掛かり左折しようとしたとき、視界がふっと翳るのを感じた。反射的にそちらに眼球を向ける。と、瞳に映ったのはすでに見慣れた、けれどもこの場には合わない制服の色。ソ連兵だ。
 やばい!
 ぶつかる寸前、もはや接触の避けられない状況でザクセンは胸中で叫んだ。そしてついでにぼやく――なんでこんなとこにソ連のやつがいるんだよ。
「うわ――っと、失礼」
 しかし、思ったほどの衝撃はない。ザクセンが曲がってくるのを察したのか、相手が直前で立ち止まったらしい。もっともそれでも、肩が軽くぶつかったが。
「朝からぼけっとすんな。危ないぞ」
 案の定、怒られた。
 うるさいよ、とザクセンは内心反発した。が、そのとき、奇妙なことに気づく。こいつ、いまドイツ語で注意してこなかったか? しかもかなり自然に。それに、何やら聞き覚えのある声のような……。
 おそるおそる顔を上げるザクセン。と、目の前にあったのは。
「ふぇっ……!?」
 接触した相手の顔を正面にとらえて、ザクセンは絶句した。
 ソ連軍の制服姿のその人物を、彼はよく知っていた。
 ザクセンは目を見開き、口をぱくぱくと開閉させた。調音しようにも、声がなかなか出てこない。
「………………プ、プ……プププ、プ、プロ、プロッ、プロイセン……!?」
 どもり、途切れがちになりながらも、ザクセンはその名を呼んだ。
 すると相手は、気安い調子で軽く左手を挙げ、挨拶をしてきた。ごく普通に、毎日顔を合わせる同僚に対してするように。
「おう、ザクセン、元気だったか」
 あまりにもナチュラルに声を掛けられたので、ザクセンはどうリアクションを取っていいかわからず、驚きに身を任せて素っ頓狂な声を上げ続けるしかなかった。
「え、え、えぇぇぇぇぇ……!」
「なんだよ、挨拶なしかよ。失礼なやつ」
 ザクセンはしばらくの間、ぽかんとしたりあたふたしたりを繰り返した。実に忙しなかったが、やがて一通り動揺の行動を済ませると、いくらか冷静さが戻ったのか、改めて相手の姿を上から下までじっくり眺めた。
 つま先から首まではきっちりとソ連兵の制服。しかしその先にあるのはロシア人の顔ではなかった。
 ザクセンの頭の中で、何世紀も前から知っている相貌と、眼前の青年の顔が見事に合致する。その瞬間、彼は衝動のまま相手に飛びついた。
「うわ!?――おいっ!」
「うわあぁぁ……ほんとにおまえだぁ……プロイセンだぁ……生きてたんだぁ……」
 ザクセンはプロイセンの首に思い切り抱きつき、しみじみとした声で呟いた。
 バランスを崩したプロイセンは、廊下の壁に背をつけて自分の重心とザクセンの体重を支えた。壁とザクセンに押しつぶされるような体勢になり、肺を圧迫される。プロイセンは顎を上向けると、ぷはっと息を吐いた。
「おいおい……大げさだぞ」
 プロイセンが呆れたような感心したような調子で言うが、ザクセンはまだ離れない。
「だっておまえ、ボッコボコだったって……」
「それはおまえらだって一緒だろ。おまえだって相当ボコされたんだしよ」
「あ、ああ、そりゃもうむっちゃくちゃだったけど……。でもおまえのがひどい目に遭ったんじゃあ……だって、ずっとロシアんとこで捕まってたんだろ?」
 ザクセンがおずおずと尋ねると、プロイセンは肩をすくめた。
「戻る機会を逸しちまっただけだ。それに、シベリア行きは免れた」
「大丈夫か? あ、ごめん、どっか痛くない? 怪我とか……」
「心配すんな」
 プロイセンに体重を掛けていたことを自覚したザクセンが、慌てて体を離した。プロイセンは無事を示すように軽く腕を広げて見せた。と、思い出したようにザクセンが眉をしかめる。そして、軽く曲げた人差し指を相手に向けながら、ためらいがちに口を開く。
「な、なあ……そのカッコ、どうしたんだ? ま、まさか所属が変わっちゃったとか……?」
 おっかなびっくり、という表現がぴったりな様子で聞いてくるザクセンに、プロイセンは苦笑しながら答えた。
「ああ、これか? いや、これはだな、ずっとあの野郎のとこにいたもんだからほかにフォーマルな服がなくてよ――まして俺らの制服があるわけねえし――こっち来るとき仕方なく着せられた。お偉いさんに会うのに私服はダメだろってことで。けどまあ、ひとまず挨拶済ませたことだし、早く脱ぎてぇ。いっそここで脱いじまうか。どうせここ野郎ばっかだろ? ストリップくらい構わねえよな?」
 言いながら、プロイセンは制服の前を開くと、さっさと袖を抜いてしまった。続いて、すでに寒い季節だというのに構わずシャツも脱いで上半身裸になる。
 あまりの早業にザクセンは呆気に取られていた。よっぽどその服イヤだったんだ……とぼんやり感想を思い浮かべながら。
 プロイセンはさらにベルトを引き抜き、ブーツを緩めると、ついにズボンのウエストに手を掛け出した。と、そこでようやく、呆然としていたザクセンがはっと我に返る。
「あ、あのさ、俺、ロッカーに着替えあるからさ、なんなら貸そうか? 私服だけど」
 放っておくと全裸になりかねないプロイセンに、ザクセンが提案する。プロイセンはズボンのボタンを外したところでぴたりと止まり、ぱっと目を輝かせた。
「ほんとか! やった、ようやくこれとおさらばできる! 正直ダサくてまじでイヤだったんだ! ぜってー似合ってねえしこれ! なあ、そう思うだろザクセン!」
 興奮気味のプロイセンを見て、ザクセンは安堵の息を漏らした。
「あはは……そうだな。おまえらしい発言でちょっとほっとしたよ。正直、ロシアに染まっちゃってたらどうしようかと」
「ンなわけねえじゃん。なにトンチンカンな想像してんだよ」
 脱ぎ散らかした服を回収しながら、プロイセンがきっぱりと言う。ザクセンはうんうんとうなずきつつ、
「でも、この服は正直かなり心臓に悪かったよ。いろんな意味で、さ」
 もう一度、深々と息を吐いた。
 プロイセンは少し押し黙ったあと、ぱん、とザクセンの背中を叩いた。
「じゃ、早く着替えさせろよ」
「わかったわかった。俺もそうしてほしいし」
「いま気づいたんだが、ここけっこう寒いよな」
「そりゃ、もう冬だし。上着いる?」
 ザクセンが自分の制服のジャケットを指しながら尋ねる。プロイセンは首を横に振る。
「いや、いらん。それより早く着替え着替え!」
 急かしてくるプロイセンにやれやれと苦笑をこぼしつつ、それでもどこか嬉しそうに、ザクセンは彼をロッカーへ案内した。




top