何十年か前のプロイセンとザクセンの話 番外編
近況報告
冷え切っている上に埃臭いロッカールームで、プロイセンはザクセンから借りた長袖の黒い開襟シャツを羽織ながら尋ねた。
「で、おまえのほうはどうだったんだよ?」
サイズにたいした差はないので、問題なく着用可能だ。彼はロッカーの内側に取り付けられた小さな鏡を覗き込みながら、襟首の曲がりを正した。ザクセンは、カーディガンに腕を通している彼の横顔を眺めながら答えた。
「見てのとおりさ」
その答えを受けて、プロイセンは彼のほうを振り返った。きっかり三秒相手の顔をとらえたあと、
「やつれてるな」
と一言感想を述べた。
するとザクセンが、ぐっと両の拳を握ってぶんぶんと上下に振りながら、地団駄を踏んだ。
「だってソ連のやつらの取立て厳しいんだもん! それに仕事忙しいし、人手足りないし!」
彼も彼なりに鬱憤が溜まっているのか、ややもすればヒステリックだ。狭いロッカールームでは、思いの外声が響いた。プロイセンは、わかるぞその気持ち、というようにうんうんと首を縦に振った。
「ははは……まあ、俺も似たようなもんだったけどよ」
ジャケットのボタンを留め終えたプロイセンは、疲れたようなため息を漏らした。
「うん、おまえもやせたっつーか、やつれ気味だよなあ。前より腹筋割れてないし。胸ちっさくなったし」
「語弊のある表現すんな。胸筋落ちたって言えねえのか、普通に」
心配そうに近づいてきたザクセンの頭を、プロイセンは手の平ではたいた。避けずに叩かれたザクセンは、額に当たる彼の手を掴みながら、念を押すように聞く。
「ほんとに大丈夫なのか? 無理してない?」
「平気だって。怪我隠してるわけでもねえ。さっきのでわかっただろ?」
「あー、うん、まあ、わかったっちゃわかったけど……」
ザクセンは肯定しつつ、廊下での突然のストリップ未遂を思い出した。確かに、現在も活動中の炎症や負傷はないようだった。この部屋に入ってからは脚のほうも見たが、特に包帯やテープの類はなかった。掴んだ彼の手もしげしげと観察する。生爪を引き剥がされたような痕はないか、つい気になってしまう。幸い――という言葉が真に的確か否かはわからないが――彼の指先は、長年にわたる剣の握りダコはあるものの、きれいなものだった。
プロイセンはザクセンの懸念に気づいたのか、もう一度大丈夫だと繰り返し(あまり反復されるとかえって心配になってくるのだが)、手の平を軽く振った。そして、少し間をおいてから、そろそろと口を開いた。
「なあ……あいつはどうしてる? 会ったか?」
彼の質問が誰を指してのものなのかは、確認するまでもなく理解できた。ザクセンはまず、後半の問いに答えた。
「あ、うん、何度か顔合わせた」
「どうしてる? 瀕死ってことはないと思うが。俺もこんくらい動けるんだし」
少しそわそわした様子で、プロイセンは片手を腰に当て、つま先で床をとんとんと蹴った。もし椅子に座っていたら絶賛貧乏揺すり中だろう。
「忙しそうだった」
「だろうな」
「おまえのこと心配してたよ」
「……へえ」
ザクセンがそう言うと、プロイセンは少し遅れて相槌を打った。
「すごい心配してた。あんな顔、はじめて見た」
「ふうん」
気のない返事をするプロイセンに、ザクセンはさらに細かく伝える。
「ほんとにすっごい心配してたんだから。早く無事を知らせてやらないとかわいそうだ。俺はこっち側だからおまえのことはそれとなく聞いて知ってたけど、あいつは何も知らないはずだからさ。俺も下手なことは言えなかったし」
ザクセンの話を受け、プロイセンはぽりぽりと人差し指で頬を掻いた。そして、そっぽを向いてぼそりと、
「んー、まあ、暇ができたら見に行ってやらあ」
気乗りしないふうな言葉を投げる。
ザクセンは苦笑した。
「なに照れてんだよ」
「は? 照れることなんてねえだろが」
「なーに言ってんだ、嬉しそうな顔して」
つん、とプロイセンの二の腕を突付いてやる。彼は明後日のほうに視線をさまよわせつつ、眉間に皺を寄せた。不機嫌そうな表情だが、その頬が少し紅潮しているのは、何も寒さのせいだけではないだろう。
「……うるせぇよ」
「おまえだってあいつのこと心配だったんだろ?」
プロイセンは十秒ほど沈黙してから、観念したように小さくうなずいた。そして、ザクセンのほうに向き直る。
「そりゃあ……けど、いても立ってもいられないってほどじゃねえよ」
「そうなのか?」
嘘や強がりを言っているような印象ではなかったので、ザクセンはちょっと意外に感じて目をぱちくりさせた。プロイセンのことだからもっと騒ぐかと予想していたのに、意想外に冷静だ。
「ああ。このくらいでくたばるようなやつじゃないだろ。コテンパンにやられて這いつくばろうが、もういっぺんひとりで立ち上がれるくらいには、鍛えておいたつもりだからな」
プロイセンは、へんっ、と鼻を鳴らした。ザクセンは納得したようにうなずいた。
「自信あるんだ」
「そういうこった。俺らはまず、自分の心配すんのが先だろ」
言いながら、プロイセンはドアに向かった。仕事場に案内しろ、とザクセンに言う。
ザクセンは同意すると、彼のあとに続いて部屋を出た。そしてそこからは自分が率先するかたちで廊下を出て階段を上がっていく。踊場に着いたところで、彼は肩越しにプロイセンを見た。そして、おもむろに話題を再開させる。
「……でもさ、状況が許すなら、できるだけ早く顔見せてやれよ? ほんと心配してたし、それに、不安そうだった。あいつ、なんだかんだでおまえがいないのってはじめてじゃん? やっぱ心細いんじゃないかな」
いきなり助言を受けたプロイセンは、しかし何についての話題なのかは即座に理解したようで、遅延もなく答えてきた。
「いや、別々に暮らしてたこともあるぞ。いまさら一人暮らしくらいどうってことねえだろ」
「そういうことじゃなくてさ――」
ザクセンは続けようとしたが、しばしの逡巡のあと、やめた。俺がごちゃごちゃ言うまでもないことか、と自分の野暮さ加減にこっそり呆れながら。
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