何十年か前のプロイセンとザクセンの話 番外編
労働
出向初日に配属が決定し、建物内の構造さえ熟知しないままに労働に従事させられたプロイセンは、結局この日、ザクセンが溜め込んだ書類の提出にほとんどの時間を費やす羽目になった。おかげで部署の配置や移動経路にはあっという間に慣れたのだが……。
「あー! もうっ、この建物、縦に長すぎるんだよ! 何回上下に往復させりゃ気が済むんだ! だいたい、事務所が四階で書類の提出先が地下一階と地上十階って、どう考えてもイジメだろ!?」
意地で定時までに最低限の書類を捌けさせると、彼はまだデスクさえ与えられていない事務室でいらいらと吼えたけた。あちこちたらい回しにされたり、いちゃもんのように再提出を命じられたりと、さっそくストレス満載の一日だった。
プロイセンが頭に血を昇らせている傍らで、ザクセンはぐったりと粗末な事務椅子に崩れかかっている。
「あれだけ階段走り回ってそれだけ怒れる体力が残ってるおまえがすごいと思うよ……俺もう、膝ガクガクだし、息切れてるし、怒る元気もない……」
「おまえ、なんでそんなに体力ないんだ? 俺、おまえの二倍はあっちこっち駆けずり回ったぞ」
呆れるのを通り越して何か不思議なものを見るような表情で尋ねてくるプロイセンに、ザクセンが反論する。
「俺が体力ないんじゃないよ! おまえがありすぎるんだよ!」
「いや、これでも昔より大分落ちたんだけどな。分割されるし取り立てられるし」
「おかしい……おまえのがダメージ蓄積してるはずなのに……」
ザクセンはぶつぶつとこぼした。疲労困憊のためか、頭髪まで心なしかよれよれと萎れている。
「はははははは、これが基礎体力の違いってやつだ。情けねえなあ、ザクセン」
プロイセンは腰に片手を当てて笑った。と、急になにやら閃きが走ったのか、彼は反対の手で指を鳴らした。
「あ、そうだ。せっかく帰ってきたことだし、なんなら俺が直々にトレーニングについてやってもいいぜ? 体力づくりは国の基本だ。鍛えておいて無駄ということはない。はははは、この俺がおまえのために過不足もなければ一分の隙もない完璧なるトレーニングメニューを考えてやろう――あ、上司には内緒な」
彼は提案のあとそう付け加えた。しかしザクセンは力の限り首を左右に振り、きっぱりとした口調で応じた。
「いや、全力で断る。おまえの考案したトレーニングメニューなんぞ実践したら、一時間で俺死ぬわ……」
なにか嫌な思い出でもよぎったのか、ザクセンはさっと青ざめた。が、プロイセンは気にとめることなく話を進める。
「俺ももうちょっとよくなったらつき合ってやるぜ。いまは軽いのしかやってねえけど、徐々にきつくしていく予定だ。楽しみにしてろ」
「それこそ俺死ぬじゃん! おまえの鬼のようなハードメニューについて行けるかっての!」
このままプロイセンの提案が実行に移されてはたまらないと判断したのか、ザクセンは椅子から立ち上がってデスクにバンッと両手を突いて主張した。もっとも、音で威嚇しようという子供じみた考えに基づいての行動ではなく、単に膝が笑ってよろめいたため、バランスを支えようとして結果的にそうなっただけなのだが。
プロイセンは手首のスナップを利かせてぱたぱたと左手を振ると、
「はははは。……ま、おまえに高望みはしねえよ。俺につき合えるのはあいつだけだったしな」
ちょっと声のトーンを落とした。
ザクセンは体勢を立て直すと、デスクから手を離した。
「あぁ、確かあいつ、血ィ吐くまでがんばっちゃったんだよな。俺なら鼻血か、せいぜい血尿の時点でギブだよ」
「そうそう。ったく、自分の体力の限界くらい見極めろってーの。無理もほどほどにしとけってんだ」
自己管理も能力のひとつだぞ、とプロイセンは説教っぽく眉をしかめながらぼやいた。ザクセンは、渋面のにじむ彼の横顔をどこか遠い心地で眺めながら、ぽつりと小声で言った。
「……おまえもな」
「どうした?」
声は聞こえたが言葉としては聞き取れなかったらしく、プロイセンが目をぱちくりさせた。
ザクセンは軽く首を振ると、出入り口のほうへ視線を向けた。
「いや。なんでもない。さ、もう仕事終わったんだし、とっとと帰ろう。うちに来いよ。たいしたもんないけど、ビールくらい出すからさ。帰還記念に一杯やろう」
「おう!」
ザクセンの誘いに、プロイセンは即答した。そしてすぐに、ビールの種類と量について彼に質問の攻勢を仕掛けたのだった。
*****
パネル工法の集団住宅の一室が、ザクセンが間借りしている部屋だった。プロイセンは上からの指示が来るまで事実上宿無しなので、当面ザクセン宅に転がり込むことにした。暫定的に宿舎への泊まり込みを許可されて入るが、割り振られら部屋といったら、監獄の独房のような狭くて何もない部屋だった。
かくして開かれたお泊まり会の会場たるザクセンの部屋はひどく狭いというほどでもないが、いかんせん一人暮らしなので、家具が乏しかった。椅子は折りたたみ式が一脚あるだけで、テーブルもノートを三冊横に並べるのがやっとのサイズだ。そのため彼らは、必然的にもっとも座るスペースが取れる場所、すなわちベッドの上に飲食物を持ち込んだ。
ベッドの端から脚を垂らして腰掛けるプロイセンは、ビール瓶に直接口をつけて傾けている。
「ちょっと薄くねえか?」
それなりの量を飲み下してから、彼は瓶の口に視線を落とし、眉をしかめた。隣ではザクセンが、やはりラッパ飲みをしている。
「ああ、品質悪くってさぁ。いいやつなんて買えないんだよー、これで精一杯。でも冷えてるだろ?――この建物すげえ冷えるからさ」
ザクセンは皮肉っぽく言った。暖を取る器具がないため、室内だというのにふたりとも屋外にいるのと同じような防寒具を身につけたままだ。
「まあ、別に悪いってほどでもねえか」
プロイセンはぺろっと下唇を舌先で舐めてから、再び液体を喉に流した。
量の少ないチーズをちまちまとつまみながら、彼らは世間話と近況報告を混ぜたような話をした。
「おまえいつからいまの職場に配属されたんだ?」
プロイセンが尋ねると、ザクセンは加えていた瓶の口をちょっと離した。
「んーと、こっちが成立するちょっと前、かな。ひとり職場なんて無理って泣きついたんだけど、聞いてもらえなくてさ。そのうち人員増やしてやるって口約束だけだった。まさかおまえがその追加人員だとは、そのときは思いもしなかったけど」
「おまえがあまりに情けないから、増やさざるを得なかったんじゃねえ?」
「ひでー」
言いながら、ザクセンはつんと軽くプロイセンを小突いた。
「ははははは。でも、その通りだろ。なんだよあの書類の山」
「報告量が半端ないんだから仕方ないじゃん。あまりに多いから分類してみたんだけど、そうしたらドツボにはまったっていうか、分け出したらキリがなくなったんだよ。おまえだってこの先バンバン書かされるぞ。高速タイピングでタイプライター破壊するなよ?」
指をすばやく動かしてタイプのジェスチャーをするザクセン。プロイセンは鼻で笑う。
「その場合、壊れるような軟弱なタイプライターが悪いだろうが」
「いやぁ? タイピストがおまえだったらジョークに留まらない可能性があるだろー。優しくタッチしてやれよ? うちの備品、十年戦士も普通なんだから」
くだらないといえばくだらないことこの上ない、他愛もない話題で盛り上がる。アルコールも手伝って自分でもよくわからないままゲラゲラ笑っていた。時折、興に乗ったプロイセンがお決まりのけたたましい笑い声とともにザクセンの背中をばしばしと叩く。酔いで若干抑制が外れているためザクセンとしてはけっこう痛かったが、気分が高揚しているせいか、苦になるほどではなかった。
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