「その年のクリスマス」の後日談的な話です。独は出てきません。
彼なりの親心
年が明けて勤務が再開されると、いよいよ本格的に職場の引越し作業がはじまった。結局最後の最後まで人員二名で事務所を回し通したプロイセンとザクセンは、まだ陽光の弱々しい冬の朝いちばんから文書保管庫に篭り切り、押収を免れた物言わぬ書類たちを相手に孤独な作業に勤しんでいた。膨大な数の書類は、もちろん有限ではあるのだが、たったふたりで捌くには殺人的な量であると言えた。重量と嵩を鑑みれば、物理的な凶器として殺人に使えるのではないかと思えるくらい。
くそ、面倒な仕事全部押し付けやがって。
前上司たちの顔を頭に思い浮かべては胸中で文句を垂れながらも、元来の整理好きの気質は書類の分別にはもってこいのようで、数をこなすうちにいつしかプロイセンは作業に没頭していった。書類作成時に設定された目的および内容の機密性ごとに分類し(アナログな鍵ひとつでロックされた部屋に保管された書類にたいした機密価値はないわけだが)、枚数をカウントし記録用紙に記載していく。単調な作業だが、無尽とも思える紙がきちんとまとまりをつくって群をなしていくのを見るのは気持ちがよかった。
分類作業に夢中のプロイセンが神がかり的なスピードで仕事をこなしていく傍らで、ザクセンはヒトとして正しい速度で作業を進めていた。時折紙の端で指を切っては痛いと短い悲鳴を上げながら。
小指にばかり三箇所も切り傷をつくったザクセンは、仕事を一時中断し、ポケットに無造作に突っ込んであったよれよれの絆創膏で手当てをした。一旦手を止めると途端に集中力が切れ、作業を再開するのが億劫になる。このまま続けても能率は駄々下がりに違いない。ザクセンは勝手にそう判断すると、椅子の背もたれにどかりと体重を預け、一休みした。詰まった鼻を軽くかんでからプロイセンのほうを一瞥すると、単調な書類整理を淡々と、けれどもどこかノリよく続けている。プロイセンもまた鼻水鼻詰まりに悩まされており、作業の合間にティッシュ箱に手を伸ばしていた。しばらく観察していると、鼻をかむ間隔が一定であることに気づいた。こんなことまで正確に行わなくてもいいのに、とザクセンは思ったが、きっと体がタイミングを覚えているだけだろう。それはそれで驚異的には違いないが。
ひときわ盛大な音を立てて鼻をかんだ挙句、使用済みのちり紙に付着した自分の鼻水の粘度を確かめているプロイセンを眺めながら、こいつなんでこんなに親父くさいんだろう……とザクセンは呆れ返った。と、ふいにプロイセンが視線を寄越してきた。見られていることに気づいたらしい。
「あんだよ、休憩もほどほどにしておけよ。これ終わんねえとこの事務所引き上げられねえんだぞ。俺らの四十年の苦労の結晶、向こうにそっくりそのままくれてやるのもなんか癪だし」
「それはもっともだけど、おまえもちっとは休めよ。俺、コーヒー淹れてくるからさ」
ザクセンはサボリのごまかしがてらそう言うと、席を立って給湯室へ向かった。待っている間、プロイセンは手元の書類の束を掴み、机の表面で軽く叩いて角を揃えた。
使い古された金属製のカップをふたつ携えて戻ってきたザクセンは、片方をプロイセンのデスクに置いた。砂糖もミルクも切らしているが、畳まれることが確定している事務所の給湯室に物品を補充する手続きを踏むのも面倒なので、最近はもっぱらブラックばかりである。苦味と酸味ばかりの安物のコーヒーで口内を潤しながら、ザクセンはふいに感慨が胸に湧くのを感じた。抑圧と苦難を重ねた四十年の月日だったが、それも終わりを迎え、毎日のようにふたりで愚痴をこぼしながらも回してきたこのちっぽけな事務所から撤退する日が徐々に近づいていると思うと、不思議なことに名残惜しい気持ちが湧いてくる。もちろん長年の悲願が達成されたことを喜んではいるが、それとともにいままでの日常が終わりを告げることを実感されて、少しだけ寂しさを覚える。未練はない。ここで過ごした半世紀がいい思い出だったとは思わない。けれども、それでもなお、過ぎ去った時間への愛着のようなものは生じるようだ。
この場所でこいつとふたりで缶詰になって仕事の虫やるの、あとどれくらいだろうな。
解放の喜びと一抹の寂しさをコーヒーの苦味とともに飲み下し、ザクセンはふっと息を吐いた。
「なんだ、疲れてんのか。確かに休み明けの仕事ってのはきついけどな」
マグカップをデスクに置くと、プロイセンは両手を頭上に掲げ、左手で右の手首を引っ張り伸びをした。すると、プロイセンの発言に思い出すところがあったらしく、ザクセンが尋ねてきた。
「そういやおまえさ、クリスマス、ドイツんとこ行ってたんだって?」
「ああ。あれ? 俺話したっけ?」
「いや、ドイツから聞いた。ほら、年末おまえ体調崩してたじゃん? そのまま休み突入でちょっと心配だったから、俺、何度かおまえんち連絡入れたんだけどさ、全然出ないもんだから正直焦ったんだぞ。部屋で寂しく孤独死してるんじゃないかって。おまえならありそうだもん。ま、そのあとドイツが気ぃ利かせて連絡寄越したから一安心だったけど」
ザクセンの話に、プロイセンが意味ありげににんまりと笑った。ちょっと嬉しそうでもある。
「悪かったなぁ、ザクセン、せっかくの休みにひとりぼっちにしちまってよ」
「いや、俺は俺でほかの連中とつるんでたし」
「なんだ、かわいげのないやつ。そこで、『さみしかったよぉ、プロイセン』とか言ってくりゃ、俺だってちっとはキュンとするのによ」
唇を尖らせながらぼやくプロイセン。ザクセンは笑いながら、おどけるように眉をゆがめて見せた。
「それだけはまじ勘弁。気味悪くて倒れそう」
「なんだとこの野郎。んなこと言ってると本気でときめいてやるからな」
やはりふざけるような調子で答えつつ、プロイセンはティッシュ箱に手を伸ばした。コーヒーの湯気に刺激されたのか、先ほどより鼻水の量が増えてしまった。
薄皮の剥けた赤い鼻頭にティッシュを押し付けるプロイセンを見ながら、ザクセンは少しだけ神妙なトーンで聞いた。
「プロイセンさあ、大丈夫なの?」
「何が」
「ここんとこずーっと風邪引きっぱなしで具合悪いじゃん」
「おまえだってそうだろ」
と、プロイセンはザクセンデスクの脇に置かれたごみ箱を指差した。プロイセンに負けず劣らず、ザクセンのごみ箱もまたちり紙のくずで山盛りになり溢れていた。ザクセンはばつが悪そうに、床に散らばったごみを拾いはじめた。
「そうだけど……おまえのが重症だろ」
「そうか? おまえより動けてると思うが」
実際、プロイセンのほうが時間あたりの仕事量は多い。もっとも、それはずっと以前からの話なのだが。
「そりゃおまえは基礎体力あるからな。でも、もともとのキャパっつーか、体力レベルからの低下率を比べたら、おまえのがひどいと思うんだ。もともと百だったのが五十に落ちるのと、六十だったのが四十に落ちるんじゃ、前者のが深刻だろ」
ザクセンは右手と左手を宙で段違いに水平に掲げ、メーターに見立てて上下させて説明した。プロイセンは彼の弁にうなずきつつ、
「まあ、それが短期間の急落だったらやべえと思うけどな、半世紀かけてじりじり落ち込んだならその間に体も慣れるし、そう深刻にもならねえだろ」
苦笑めいた吐息とともに肩をすくめた。ザクセンは少しだけ苦い顔になる。
「やっぱ体力落ちてる自覚はあるんだ」
「そりゃな。でも、ほんとにそこまでつらくねえぞ。なんつーの、微熱頭重倦怠感がお友達って感じで」
「いくら友達少ないからって、物体どころか状態に交友関係を求めるのはどうかと思うよ」
「んー、でもよー、しんどさで言ったら、フランスの野郎にボコられたあとがマックスしんどかったんだよな、正味な話。リハビリに時間掛かったしよ。あー、思い出すだけでムカムカしてくる」
回想とともに当時の歯がゆさもよみがえってきたらしく、プロイセンは苛立ち混じりに貧乏ゆすりをはじめた。ザクセンは、行儀悪いからよせと注意すると、頬杖をついて呆れたため息をついた。
「療養もそこそこに、おあつらえ向きとばかりに松葉杖でドイツのケツ叩いてビシバシしごいてたやつが何を言うんだか」
「その甲斐あってやつは立派になっただろうが」
「それは認めるけど」
途端に誇らしげに語るプロイセン。事実そのとおりではあるので、ザクセンとしては否定や反論の余地はなかった。こりゃしばらくはドイツ自慢が続くだろうな――と思いきや、プロイセンは意外にもそのまま口を閉ざし、ゆっくりと残りのコーヒーを味わった。風味のない安っぽい液体を喉に流すと、彼は長いため息とともに事務椅子に身を沈めた。その横顔には色濃い疲労、いや、消耗が浮かんでいた。彼には似つかわしくない、夕闇を連想させる昏い印象を受け、ザクセンはどきりとした。
「プロイセン? しんどいのか?」
ザクセンの問いに、プロイセンは意外そうな声音で答えてきた。
「いや、別に。まだくたばったりしねえよ」
「その言い方、いつかはくたばりそうでなんかヤなんだけど」
「そりゃ、いつかは、な」
何かを仄めかすようなプロイセンの口調。ザクセンは小難しい顔で押し黙ってしまった。そんな彼に、プロイセンがへっと皮肉っぽい笑みを浮かべた。
「なーに不服そうなツラしてんだ。別にいますぐとは言ってねえぞ」
プロイセンは一拍置くと、空っぽのマグカップを両手で支えたまま話を続けた。
「あいつももういっちょまえだし、もともとしっかりしたやつだからよっぽど大丈夫だとは思うけどよ、しばらくは国内ごたつきそうじゃん? 俺らの後始末でさ。それに関して俺らも手ぇ貸さないわけにもいかないだろうし」
「まあ、そうだな。向こうにゃ話せない部分も多いけど」
プロイセンは目を閉じて苦笑をこぼすと、平生よりもいくらか静かな調子で言った。
「だからまあ、俺たちの問題が一段落ついて、あいつの肩の荷が軽くなるまでは、生きててやりたいとは思ってる。これからまだ一波乱、二波乱はありそうだし、多少の助けにはなれるだろ。まだ耄碌しちゃいないからな、しばらくは働けるぜ。ってか、いま潰れるのは困る。まだあいつに教えておきたいこととかあるし」
プロイセンの言葉は、諦念とも思慮ともつかなかった。ただ、彼が変わらずドイツを想っていることはよく伝わってきた。同時に、ドイツがいつか完全に自立する日を思い描いていることも。
「……。具体的な手助けをしなくても、おまえの場合、ただいるだけであいつにとっちゃ十分なんじゃないか?」
「それじゃご隠居のじいさんじゃねえか」
「実際に頼らなくても、頼れる相手がいるってわかってるだけで、心理的に安定するもんだよ。あいつ、おまえと離れてる間ずっと不安だっただろうし、これからは一緒にいてやれよ」
ザクセンの忠告にプロイセンはこくりとうなずいた。そして付け加える。
「ま、できる限り、な」
プロイセンの態度がどこまでも自然体だったので、ザクセンはそれ以上追及することができなかった。
普は今日明日自分がいなくなることはないけど、将来的には独より先にいなくなるだろうな(年の順的にも)、と思っている感じです。その上での親心、みたいな。
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