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何十年か前のプロイセンとザクセンの話 1


 定員二名のせせこましいオフィスで、プロイセンは一定の速度でタイプライターを打ち続けていた。午前八時三十分きっかりに紙をセットしてから、かれこれ三時間、延々とタイピングを続けている。おかげで下書き書類の山は八割方捌けた。
 十一時四十分。なぜか鳩時計が一回鳴いた。この鳩時計はどういうわけか、毎時間〇〇分と四十分に窓から飛び出す。普通は三〇分ごとなのだが、この鳩はちょっぴり変わりもののようだ。この時計がこのような仕様で作成されたのか、途方もない欠陥品なのかは現在まで議論中である。
 プロイセンは鳩が引っ込んだ時計を見上げると、おもむろに立ち上がった。そしてスーツのジャケットを脱いで椅子に掛け、壁際に寄ってその場で屈み込んだ。彼は壁からの距離を目測すると、何を思ったか、両手を床に着いた。
 衣擦れと、軽いものが壁に当たる音がする。同じ部屋で同じような仕事をしていた同僚が、顔を上げた。壁を見やれば、そこにはプロイセンがいる。ただし、その姿はというと、
「……何やってんですか、同志」
 思わず妙な言葉遣いになった彼に、プロイセンが目線を向ける。顔の向きは変えない。なぜなら、変えられない体勢だからだ。
「見てのとおり三点倒立だ」
 プロイセンは、両手のひらと頭蓋のてっぺんで体重を支えながら平静に言った。確かに、三点倒立である。それはもう見事な三点倒立だ。体育の教本のモデルのごとく、である。彼は逆立ちのまま、説明を加えた。
「座ってばかりいると足のほうに血液がたまって頭まで回らない。だからこうして正反対の姿勢を取っているんだ。実に科学的だろう。あとその呼び方やめろ、ザクセン。俺らには合わない」
 プロイセンが文句をつけると、ザクセンはほっと胸を撫で下ろした。
「ああ、よかった。脳みそが赤く染まったせいで異常行動が出現したわけじゃないのか」
「おまえな……もう少し遠回りに表現しろ。仕事中だぞ」
「仕事中に三点倒立してるひとに言われても」
 ザクセンの言葉を受け、プロイセンはしばし沈黙した後、ぐっと両腕に力を込めた。そして、そのまま頭を地べたから離す。
「いや、普通の倒立にしたからって、何にもならないから」
 両腕を張って通常の倒立姿勢に持ち込んだプロイセンに、ザクセンは呆れたため息をついた。
 プロイセンも同僚に構ってもらって気が済んだのか、やがて足を床につけ、昇った血を戻すためかふるふると頭を振った。そして今度は腕立て伏せをはじめる。
 二十回ほど勢いよく腕の屈曲と伸展を繰り返したところで彼は口を開いた。運動は止めないが。
「あー、もう、毎日毎日デスクワークにデスクワークにデスクワークに……体がなまるじゃねえか。俺、こういうの苦手だってのに。あの上司、適材適所ってものをまるで考えてねえ。そう思わないか、ザクセン?」
「まあ、その意見には賛成だけど、だからっておまえを現地派遣するのは無理だろ。いろんな意味で不適切だ」
 プロイセンは呼吸のタイミングなど考えもせず、勢いよくまくし立てた。
「くそー、毎日毎日野郎とふたり部屋に引きこもって西の雑誌読んでレポート書いて、新聞読んでレポート書いて、本読んでレポート書いて……って、何の嫌がらせだよ、この仕事! しかも勤務中は書籍と一緒に日がな一日監禁とか、これって精神的拷問だろっ!?」
「おまえもたいがい口は慎めよ? 第一監禁はされてないじゃないか。チェック受ければ出入りできるんだし、おまえが駄々こねてもノルマこなせば別に怒られないし」
「なんだその悲しい妥協は」
 と、彼は腕立て伏せをやめた。運動と発声で肺に強負荷を掛けたにもかかわらず、息の乱れはあまりない。次にスクワットを開始した彼をザクセンはしばらく放っておいたが、回数を数える声がうるさく、気が散って仕方がない。
「……いっそ走りに行ったら? 敷地内なら多分大丈夫だろ」
「さっきも言ったが、いまは仕事中だぞ。サボれるかよ」
「仕事してないじゃん」
「あと二セットやったら再開する。そしたらちっとは集中力も戻るだろ」
「筋肉に負荷かけないとデスクワークがはかどらないって、なあ……」
「なんだよ」
「いや、おまえらしくていいと思うよ。おまえはいつまでもそんな感じでいてくれ」
 ザクセンは、止まっていた手を再度動かしはじめた。こちらはタイピングではなく、ひたすら新聞の切抜きを集めてファイリング作業をしている。指の腹はインクで黒く染まっている。
 百まで数え終わったプロイセンは、二セット目に入るのかと思いきや、ぽりぽりと頭を掻きながらドアのほうへ歩いていった。
「……やっぱ走り行ってくる。これじゃ全然足りん、運動量が!」
 そう宣言したものの、プロイセンはドアの前で立ち止まったまま、室内を振り返っている。彼のじっとりとした視線を受けたザクセンは、はあ、と息を吐いた。
「俺は仕事まだ終わってないから、一緒には行ってやれないぞ」
「別に付き合えとは言ってないだろ」
「いや、目がそう言ってた」
「言ってねえよ!」
「はいはい」
「俺はひとりでトレーニングするほうが好きなんだ、そのほうがはかどるからな! ははははは、自主トレ最高!」
 プロイセンはそれだけ言い残すと、元気よくオフィスから出て行った。
「いってらっしゃい」
 すでに閉められた扉に向かって、ザクセンが見送りの言葉を投げた。
「ったく、体育会系め……。あいつほんと、インテリジェンスって感じじゃない性格だよな……。仕事自体はできるのが皮肉だけど」
 彼は、プロイセンのデスクの書類を見ながら呟いた。一走りしてから仕事を再開しても、今日のノルマを終えるのは余裕だろう。

*****

 翌朝出勤したプロイセンは、いつもの職場でいつもと変わらない仕事をするべく、機器の準備をしていた。
「あー、今日もかったるい収集に分析に報告にかよ……労力の割に報われねえよな」
 ひとりぼやきながら作業をしていると、ノックの後扉が開かれた。
「よお」
「おー……って、なんだその格好。保健体操の企画でも浮上したのか? 正直前時代的だと思うが」
 やって来たザクセンを見て、彼はぎょっとした。ザクセンは、上下ジャージーという、事務職とはおよそ結びつかないけったいな服装をしている。
「いや、俺もたまには走ろうかと思って、スタンバってきた。おまえも運動着用意しといたら? ワイシャツ洗うの面倒だろ。アイロンかけなきゃいけないし」
 言いながら席に着くと、ザクセンは隣の席のプロイセンを一瞥した。
「俺が仕事終わらすまで待ってろよ?」
「あ、ああ。仕方ねえな、待っててやるよ」
 今日もオフィスにはタイピングの音が響いていた。


※インテリジェンス=諜報、情報収集活動

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