何十年か前のプロイセンとザクセンの話 2
昼の休憩からザクセンが事務所に戻ると、プロイセンはまだ空だった。そろそろ鳩が鳴く時間なのに、と思ったところで、ひんやりとした空気の流れを感じる。ふと窓を見やれば、そこにはだらりと垂れ下がる二本の棒が。
ザクセンはちょっと額を押さえて沈黙した後、すたすたと窓辺に寄って開け放たれた窓を見上げた。外側には、人間の体があった。わざわざ顔を確かめるまでもない。プロイセンだ。
「また運動不足解消中か?」
「ああ、そうだ。腕立て伏せだけひたすらやってても、負荷がかかる筋肉は一緒だろ。それじゃよくないと思って、懸垂で鍛えてるんだ。より一層重力に抗する力が必要だからな、トレーニングになるぞ。おまえもやれ」
プロイセンは、上下一対になっている窓の上のほうの桟に両手を掛け、一定の速度を保って腕の力だけで体を上下させていた。見事な懸垂運動である。
「やったらどうだ、じゃなくて、やれ、なのか」
「デスクワークばっかじゃ体に悪いだろ」
地上八階という高さに恐れをなすこともなく、彼は体を振って勢いをつけると、しゅたん、と部屋の中に戻った。両肩を交互に回す彼を見て、ザクセンは感心したように言う。
「いつ見ても惚れ惚れするような筋力だよな、おまえ。見た目はそんな筋肉あるように見えねえのに。着やせしてるだけで、脱いだらすごいんですってタイプとか? でも前、がんばっても腹筋六分割にならないって愚痴ってたよな。まあ、ムキムキ具合であいつにかなうやつは……あ、悪い」
ザクセンははっと自分の口を片手で押さえた。きょろり、と顔弓だけ動かしてプロイセンをうかがうが、相手はぱたぱたと手を振ってちょっと苦笑した。
「や、別に気にしねえって。にしても、いまあいつと腕相撲やったら絶対勝てねー気がする」
彼は右手を見下ろすと、ぐっぐっと何度か開閉させた。
「もともと勝ててなかったじゃん」
「うるさいぞ。背丈が同じなら負けないっての」
プロイセンはむっと頬を膨らませた。筋力勝負になれば、体格が大きいほうが有利なのだから仕方がない。
「けどそれを差っ引いても、確実に筋肉落ちてるんだよなー。やっぱ書類とにらみ合ってばっかってのはいけねえ」
プロイセンは肘を曲げ、収縮した左の上腕の屈筋を右手で触った。ザクセンもつられて彼の力こぶに手を伸ばした。服の上からでも筋肉の隆起がわかる。
「そうか? かなり硬いと思うけど、この上腕二頭筋。ついでに大胸筋も触っていい?」
許可を取る前に、ザクセンはプロイセンのスーツの合わせ目に手を突っ込んだ。
「おー、やっぱ見た目よりいい体してんなー、うん、見た目より」
好奇心をつつかれたのか、ザクセンは腹筋のほうにも手を下ろした。プロイセンはまったく気にしたふうもなく、マイペースに話を続ける。
「左はまだいいんだけど、右が弱くってな。片腕懸垂できねえんだよ」
ほら、と彼は服の中に突っ込まれたザクセンの手を抜くと、再び窓枠を掴んだ。ただし、今度は片手で。先に左から試してみせる。左腕では何度か体を上に引き上げて見せることができたが、右では腕が震えるだけで懸垂には至らない。彼は片目をつむりながら、くっそー、と悔しそうに呟いた。浅い角度ならつくのだが、完全に屈曲位を取ることはできないらしい。
しかしそれでもザクセンは、彼の見上げた腕力にほうっと感心の吐息をついた。
「左なら片腕懸垂できるんだ……。けど、左右でなんでそんなに差があるんだ? 利き腕の違い?」
尋ねられ、プロイセンは左手で右肩を押さえた。
「いや。大分前のことなんだがこっちの肩被弾してさ、治ったんだけどなんかまだ引っ掛かりがあるような気がしてあんま力入れられないんだよ。あと、腕に破片が刺さったのほっといたら、握力があんま出なくなった。やっぱ怪我はしかるべき治療をしかるべきタイミングでしないとだめだな」
プロイセンはため息とともに、ぐっ、ぱっ、と右手を開いては握った。
「おまえも大変だな」
「いまじゃこの程度しか力出ないんだぜ」
と、彼はおもむろにザクセンのデスクに向かうと、上に置かれたステンレス製のマグカップを右手で掴んだ。そして、腕をピンと伸ばしたまま思い切り手指の筋を曲げる。めきょめきょっ! と嫌な音を立てながら、マグカップは見る見るうちにその容積を減らした。彼は可能な限り力を込めた後、これ以上は潰れないと判断したところでぱっと指を開いた。そして、ステンレスの残骸を見下ろして苦い顔をする。
「ほら、完全に潰しきれなかっ――」
「ちょっ、お、おまっ、何するんだよ! 何が力出ないだよ! すっげえ馬鹿力じゃん!」
プロイセンの手の中で無残な不燃ごみと化した自分のマグカップを指差し、ザクセンがヒステリックに叫んだ。プロイセンはカップを左に持ち替えて、何度か中に放っては受け止める動作をした。
「いや、でも、この程度のステンレス容器、左手の握力なら縦にぺしゃんこにできるんだぜ?」
「もー、これ気に入ってたのに!」
「悪い悪い、いま直すから」
軽く謝罪すると、プロイセンは平然とした顔でマグカップを徒手整復しはじめた。ぺこ、めき、と金属の軋む嫌な音が短く響く。
あらかた容器らしいかっこうに戻したところで、プロイセンは皺のついたステンレスのカップをザクセンの机に置いた。幸い底面は平らなままだったので、座りは悪くない。
「ほらよ、だいたい元通りだろ」
「なんでその筋力でムキムキにならないんだ……?」
ザクセンがあっけに取られているところで、パッポー、と時計の鳩が鳴いた。
「さー、仕事仕事。やっぱ適度な運動は能率的な仕事につながるよなー」
プロイセンは自分のデスクに着席すると、タイプライターを打ち出した。
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