ちょっとミリタリ絡みの話です。
何十年か前のプロイセンとザクセンの話 5
始業十五分前きっかりにザクセンはロッカー室から廊下へ出ると、向かいにある事務室のドアノブを回した。扉の上部に取り付けられた擦りガラス越しに、人影が動いているのが見える。同僚はすでに出勤しているようだ。
「相変わらず早いな、プロ……」
がちゃり、とドアを押して開け切ったザクセンは、職場内にひとりしかいない仕事仲間の姿を見とめたとき、数秒固まった。しかし相手は平生と変わらない様子で、
「おう、ザクセン。やっと来たか」
扉のほうへ目を向けた。
ザクセンはプロイセンの全身を頭頂部からつま先までくまなく眺めた。と、上下二往復したところで、油の切れたマリオネットよろしくぎこちない動きをしていたザクセンは、まるで熱したフライパンにでも触ったような勢いでバッと右手をノブから離した。
「おぉっ!? なんだその格好!?――って痛ぇっ!?」
ノブへの力がなくなったドアは、当然のこととして、元の位置の戻ろうとする。つまり、閉まろうと。しかし生憎敷居には障害物――ザクセンという名の――があった。よってザクセンは、閉まる扉に思い切り挟まれた。
「……何やってんだおまえ」
擦りガラスにぶつけた鼻の頭を押さえて痛がっているザクセンを、プロイセンは呆れ気味の半眼で眺めた。朝っぱらからコメディ映画の一幕を目撃したわけだが、現実で見てしまうと意外とおもしろくないものだな、と思う。
「大丈夫か? 鼻血出てねえ?」
プロイセンは出入り口まで移動すると、扉の端を掴み、挟まれていたザクセンを救出してやった。
「いや、平気……」
「まぬけだな」
「だってびっくりしたんだよ」
ザクセンは顔の下半分を手の平で覆い隠しつつ、改めてプロイセンを見た。
「それ、陸軍の制服じゃん? 異動命令でもあったのか?」
ザクセンは怪訝な顔をして尋ねた。いまの職場は平服が基本のはずだが、今日のプロイセンは明らかに一般市民には見えない服装だった。端的に言うと、軍服である。略式ではあるが。
「いや、よく見ろ」
プロイセンは自分の着ている制服を指差して、相手に注意を促す。ザクセンは、さらにじっくりと彼の衣装を観察した。
「ん?……なんかちょっと違うような……。もしかしておまえ、自分でつくったのか? そうか、ついに我慢できなくなったのか。おまえ、こういうカッコじゃないと落ち着かないんだっけ。でも、ここまで精巧に再現するなんてすごいな。コスプレの域を超えてるよ」
「コスプレじゃねえ。いくら俺だって、意味もなくこんなもんこさえたりしねえよ。そんな暇人に見えるか?」
「いや、おまえならやりかねないと思って」
真顔で答えるザクセン。プロイセンは腰に手を当ててため息をついた。そして、種明かしをする。
「ウチの制服だってよ」
「なんだって?」
目をぱちくりさせるザクセンに、プロイセンが説明を加える。制服の襟を正しながら。
「こないだ省のお偉いさんが新しくなっただろ。そんで、編成やらなんやら、内部をいじるらしい。で、制服がこれになったってわけ。まだ全体にゃ正式に施行されてねえけど、服の見本届いてたから、かっぱらってきた。んで、着てみた。なかなか似合ってると思わねえ?」
新品の服を自慢する子供のように、プロイセンは両腕を広げて自分の制服姿の全貌をお披露目した。声がちょっぴりはしゃいでいるのを、ザクセンは聞き取った。
「えらく生き生きしてるなあ」
「このほうが肌に合うんだよ。あ、おまえも着てみる?」
「いいよ、どうせあとで届くだろうから。そんなに嬉しそうなおまえから引っぺがすのは忍びないし」
こいつ、今日は一日中制服を着ているかもしれない。期限のよさそうなプロイセンの横顔を眺め、ザクセンは思った。
「あとで階級章も来るってさ」
「階級って、軍隊の?」
「らしい」
「うへぇ、ほとんど軍じゃないか。いや、まあもともとそんな感じだったけどさあ」
どうやら本格的に軍隊組織化するらしい。いまの上司のそのまた親玉のところのシステムに倣ったのだろう。
ザクセンは軍服のプロイセンを見て、ちょっと皮肉な印象を抱きながら、
「けど、ここに勤めている以上、制服着る機会ってなさそうだよな。俺ら、シビリアンを隠れ蓑に活動してるわけなんだから、そんなあからさまな格好はできないんじゃね?」
結局彼らの出勤と勤務には制服は関係ないだろうという現実を告げた。プロイセンもそれは理解しているようで、渋い顔をしつつもあっさりうなずいた。
「そーなんだよなー。あっても普段は着られないんだよなー。着用するとしたら上司に呼び出されるときくらいだろうし。うー……嫌がらせとしか思えん、この処遇」
「まあまあ。いまのウチの状況でこんなん着て歩いたら露骨に市民に嫌われるぜ? それよかいいだろ」
「まあそうだけどさー」
プロイセンは腕を組んでわざとらしくぷぅっと頬を膨らませた。ザクセンはその頬をつんつんと突付く。
「なに、また憂鬱モード?」
「んー……俺はおまえと違って上司連中にゃ嫌われてんだから、多分この先もここで飼い殺しだろうと思うと、なんかなあ」
「あのひとたち見てると同属嫌悪のような気がするけどなあ……」
上司たちはプロイセンに否定的だが、その割に彼らしさを受け入れている。今度定められたというこの制服なんて、最たる例じゃないか。ザクセンがそんなことを考えている傍らで、プロイセンの愚痴は続く。
「で、必要なときだけ都合よく呼び出されてしんどい仕事押し付けられるんだ、そういう運命の窓際族なんだ。おまえも巻き添え食らって気の毒にな。俺の見張りで飛ばされたんだろ?」
ふて腐れた調子で言い捨てるプロイセンに、ザクセンは何のてらいもなく首を横に振った。
「いやあ、俺はおまえと同じ職場でよかったと思うよ。だっておまえ、文句言いつついい感じに仕事してくれるもん。俺ひとりだったら書類に埋もれて泣いてるだろうなあ。うう、あの上司めっちゃ細かいんだもん、俺イヤになっちゃう」
ザクセンは嘆くような仕種で眉をしかめる。動作は演技じみているが、声音はとことんしみじみとしている。
「実感こもってんなー」
ザクセンひとり放っておくと書類の洪水が出来上がりかねないのを知っているプロイセンは、彼の弁が慰めでもフォローでもなく、事実なのだろうと感じた。
と、始業を告げるチャイムの代わりに、ぱっぽー、と鳩時計が鳴いた――そのとき。
耳障りな高い金属音が連続的に鳴り響いた。
内線電話だ。
プロイセンはコール開始から二秒で受話器を取った。
「はい。……はい、ええ、俺っすよ」
口調が変わった。上司からか、とザクセンは見当をつけた。
「ああ、はい、制服のことは知ってます。え?……俺が?……まじっすか? あ、はい、了解っす。はい、いますぐに馳せ参じてもいいくらいです……ああ、まだ先の話っすか、そうですか……」
事務連絡の受理にしては、受け答えの声に感情の起伏が強く感じられた。途中でちょっと興奮気味になり、最後は尻すぼみ気味に下降していった。いったい何を言われたのか。ザクセンは、受話器を電話機に戻すプロイセンを不思議そうに見た。
かしゃん、と受話器を戻したところで、プロイセンは机に片手をつき、うつむいたまま、
「ふ、ふふ、ふふふふふ……」
不気味な笑い声を立てはじめた。その挙動不審さに、ザクセンは動揺せずにはいられない。
「ど、どうしたプロイセン? 笑い方が違うぞ? おまえはふふふじゃないだろ、はははだろ?」
真面目にそんな指摘をするザクセンだったが、やがてプロイセンは空いているほうの手で自分の額から目元を覆い、天井を仰いだ。そして、ふるふると肩を震わせながら、
「ははははははははは!」
狂ったように笑い出した。これは相当興奮している。かなり怪しい行動だ。しかし彼の高笑いを聞いたザクセンは、
「おお! 戻った!」
それでこそおまえだ、と安堵の息をついた。
しかし、とりあえずほっとしたのはいいが、プロイセンが引き続き壊れたように笑い続けているので、ちょっと心配になってくる。
「な、なあ、どうしたんだいったい? 上からの連絡ってことはなんか命令出たか叱責受けたかだよな? それでおまえが喜ぶなんて……と、とうとうおまえ、抑圧とストレスで頭がイカレちゃったのか? 大丈夫?」
本気であたふたと案じはじめたザクセン。プロイセンは彼の肩をぽんと触り、ようやく笑いを収束させた。
「ははははは……安心しろザクセン、俺は冷静だ」
しかし目は据わっている。
「いや、全然冷静じゃないじゃん。冷静なひとは高笑いなんてしない。あ、でも、高笑いしないおまえはおまえじゃないような気がするなあ。でもおまえそんなんでも冷静なとこあるし……ううん、なんて表現したらいいのかわかんなくなってきたけど、とにかく、いまのおまえは冷静じゃないと思う」
自分でも自分が何を言っているのかわからなくなってきたようで、ザクセンはおろおろと意味のない手振りを交えつつ、結局最初と同じ結論に行き着いた。プロイセンは忙しなく動くザクセンの手を下げさせる。
「落ち着け。おまえのが冷静じゃなくなってるぞ」
「だって! おまえがおかしくなっちゃったら俺が困るもん! 俺ひとりじゃとてもじゃないけどこの国でやっていけない! 仕事なんてできない!」
両の拳を上下に振り必死にそう訴えるザクセンの肩をぽんぽんと叩きながら、プロイセンは面倒くさそうに呟いた。嫌そうではなかったが。
「おまえ見てると、何が何でもここにいなきゃいかんって気がしてくるよなー……」
プロイセンが正気らしいことがわかると、ザクセンはけろっとして顔を上げた。
「で、何があったんだ?」
「ああ、軍のほうから命令が出てな、俺に軍パレの演習指導してほしいんだそうだ」
「パレードの? ああ、そっか、おまえそういうの得意だもんな」
「まったく、散々ひとのこと否定しておいて、こういうときだけ俺を頼るんだから、腹が立つぜ」
「でも嬉しいんだろ?」
「……そりゃまあ」
顔を近づけていたずらっぽく微笑むザクセンに、プロイセンもまたつられるように口角をつり上げた。
と、彼はおもむろにデスクの前で直立不動の姿勢を取ったあと、足を肩幅に開き、びしっと拳を前に突き出した。
「ははははは、待ってろ若造ども! プロイセン式行進教練の真髄、徹底的に叩き込んでやる! 一糸乱れぬ行進を身につけるまで、帰れると思うなよ! 足の上げ方、地面の蹴り方、首の角度、つま先の向き、全部俺が直々に、鍛えて、鍛えて、鍛えてやる! この俺の直伝を受けられることを光栄に思え! なんせ元祖も元祖だからな!! はははははははは!」
「出たよ! 鬼教官!」
ひぇぇ、とザクセンは戦いた。この手の教練でプロイセンの右に出るものはそうはいない。少なくともザクセンは確実にかなわない。パレードには練習であっても参加したくないな。もし上司から要請があった場合、なんといって辞退しようか。ザクセンは頭を悩ませはじめた。
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