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何十年か前のプロイセンとザクセンの話 6−1


 週のど真ん中、水曜日の昼下がり、昼食から戻ってきたプロイセンが事務室のドアの前に立ったとき。
「……うわぁぁぁぁぁ!! まじでぇぇぇぇ!?」
 扉一枚隔てた先から、ザクセンの絶叫が聞こえてきた。なかなか凄まじい音圧で、重いはずのドアがびりびりと細かく振動したような気さえする。
 プロイセンは思わず一歩退いて両手で耳を塞ぐ。あまりの大音量にぎゅっと目も瞑りたくなる。
 悲壮感漂う断末魔の悲鳴が途切れたのを見計らい、彼はドアを開けた。
「うるせーな。どうした?」
 プロイセンが話しかけると、背を向けていたザクセンが、ギギギギ、と廉価なビスク・ドールのような不自然な動きでこちらに顔を向けた。その顔色といったら蒼白の一言で、コメディ映画の一幕のようにだらだらとわかりやすく冷や汗を掻いている。
 ザクセンは一枚の便箋――上からの指示書だろう――を両手で掴み、胸の前に掲げた状態で、
「ど、どどど、ど、どうしよ……」
 ひどくどもりながらぼそりと言った。プロイセンは首を傾げる。いきなり疑問詞だけを投げかけられても、答えようがない。
「何が?」
 問いに対して問いで返すが、ザクセンは同じ言葉を反復するばかりだ。
「ど、どうしよう……どうしよう……!」
「だから、何がだよ。どうしようばっか繰り返されたって、おまえが何か焦っているということ以外、何もわからん」
 呆れながらプロイセンは狭い部屋の中を数歩移動し、自分の席に着いた。ザクセンは彼の一連の動きを凝視してきた。彼はちょっと居心地悪そうに首をすくめると、もう一度、だからどうしたんだよ、と尋ねた。
 ザクセンは唇を戦慄かせながらぼそっと呟く。
「書類……」
「書類?」
「この書類……提出期限、今日だった……忘れてた……」
 ザクセンは抑揚のない調子で事態を端的に説明する。この書類、というのは持っている便箋そのものではなく、そこに書かれている文書作成の指示内容のことを指しているのだろう。
 プロイセンは額を押さえた。
「おまえ……提出期限にはあれほど気をつけろと言ってるのに。ウチの上司の厳しさを忘れたのか」
「いろいろ溜め込んじゃって、すっかり失念してた……。ど、どうしよう……手付かずってわけじゃないけど、まだ全部書いてない……どうすれば……」
 おろおろとその場で体を左右にせわしなく向けるザクセンの前で、プロイセンは落ち着いた様子で電信機を手に取った。
「まあ、上司に連絡して提出期限延ばしてもらうかねえだろ。俺が伝えとくから、おまえはいまから可及的速やかに書類を仕上げろ」
 業務連絡用の番号及び所定の暗号を確認しながら指示を出す。ザクセンはまだ狼狽しているようで、指示書を掴んだ手をわたわたと動かしている。まったくもって無意味な動作だ。
「だ、大丈夫かな」
「おまえ、そこまで重要な仕事してたっけ?」
 少しばかり失礼な質問をするプロイセン。期日厳守は鉄則だし、上司がうるさいのも重々承知しているが、それにしたったザクセンの焦燥は尋常でない。
「重要かどうかはわかんないけど……これ、モスクワからの間接指示でつくってた書類だからさ。お咎めとか……」
 ザクセンは口元に片手を当て、不安そうに呟く。と、急に場の空気がぴしりと冷え固まった。
 あからさまな雰囲気の変化は、ザクセンもまた一緒に硬直させた。
 というのも、眼前の人物が殺気にも似たオーラを放ってくるからだ。
「……おい、いまなんつった?」
 底冷えのする低い声で聞きながら、プロイセンはゆらりと立ち上がった。
「う、うわ、プロイセン! その顔すっげ怖ぇ!」
 がたん! と派手な音とともに、プロイセンの座っていた椅子が後ろに倒れ床を叩いた。ザクセンは片腕を前に出して体をかばうようにしながら後退する。プロイセンはそんな彼を追い詰めるように、デスクから離れて一歩一歩近づいていく。
「いまなんかすっげー聞き捨てならないこと耳にしちまったような気がするんだけどよぉ……どういうこった、ザクセン?」
 ザクセンの肩を掴み、思い切り顔を近づけて尋ねる。据わりきった目に、ザクセンはサーッと血の気を引かせる。
「ご、ごごごご、ごめん! ごめんなさい!」
「ごめんで済むか、ごめんで! モスクワだとぉ!? いちばんどやされたくないとこじゃねえか! 上司よりよっぽど厄介だ! 連中の恐ろしさを知らねえのか!?」
 プロイセンが怒鳴るのももっともだ。ザクセンは平謝りするしかない。
「ごめん! ごめんって! まじでほんとにごめん! で、でも、あの人たちけっこういい加減だからさ、書類の遅延とか割と普通にありそうじゃない……?」
 宥めるように恐る恐る問う。するとプロイセンは一瞬はたりと止まったかと思うと、しみじみとうなずきながら、
「確かにそうだが――」
「認めちゃったよ!」
「――だからといってこっちが遅れて許されると限らん! 仮に大目に見てもらえたとしても、連中に借りをつくる羽目になるだろ! 俺はイヤだぞ、そんなの!」
 同意したものの、再び怒り心頭で声を荒げる。
「ご、ごめん! ほんとごめんよ! 俺が悪かった! 全部俺のミスです、すんません!」
 詫びの言葉をひたすら紡ぐザクセンだったが、ふと、すでにプロイセンの手から解放されていることに気づいた。
「プロイセン……?」
 訝しく思って呼んでみると、プロイセンは部屋の角に置かれた棚の最下段の箱を漁っていた。振り返ることもせず、彼は命じる。
「謝ってる暇があったらとっとと支度しろ」
「へ?」
 ザクセンはきょとんとする。いったい何を命令されているのだろうか。
 しかしプロイセンは一方的に話を進める。
「行くぞ」
「行くって……どこに?」
「本部だ。その文書、締め切りはいつだ?」
「え……だから、今日だってば」
 相手についていけず、ザクセンはしどろもどろで返答する。プロイセンは箱から取り出した古めかしい機械を小脇に抱えて立ち上がった。
「日付はわかってる。何時かって聞いてんだ」
「あ、時間? ええと……十六時って書いてある」
 プロイセンは壁に掛けられた鳩時計を見上げる。針が示す時刻は、二時二十分。もちろん午後だ。
 彼は険しい表情で時計をにらんだあと、
「間に合うかどうか微妙な線だが……努力は見せておきたいところだ。だから行くぞ。封筒とか紙とか、用意しろ」
 とザクセンの手首を取って引っ張る。
「いまから出しに行けってのか!? まだ書けてもないのに」
「だったら書け! 手動のタイプライターがあったからこれ使え。俺が車回してやるから、移動時間使って書け」
 プロイセンはザクセンの胸に、棚から発掘した手動式タイプライターを押し付けた。ザクセンは流されるように受け取りつつ、
「本気か?」
 信じられないというように尋ねた。プロイセンは大真面目に首を縦に振る。
「本気だ。それはもう、必死なくらいな」
「で、でも、俺のミスなんだから、俺がなんとかしないと。おまえまでつき合うことないよ」
「なにトンチンカンなこと言ってんだ。ここの主任は――なんでなのかよくわからんが――俺だぞ? どのみち俺の責任になるんだ。おまえのポカにはつき合う義務がある。それに間に合わなかった場合でも、いまから行けば即刻その場で謝り倒せるしな! おまえの首根っこ掴んで!」
 プロイセンは宣言どおり完全に本気のようだ。かなり無茶な計画だが、本当に不可能だと判断すれば彼はこんなことは言い出さないだろう。ならばザクセンとしても、ここは応えないわけにはいかない。
「わ、わかった、準備する!」
「急げよ!」
 それだけ言うと、プロイセンは足早に事務室を出て、車庫に向かって駆け出した。

*****

 ベルリン市内にある本部へ向けて、薄い水色のトラバントが公道を渾身の力で滑走している。運転席にはプロイセン、助手席にはザクセンの姿があった。
 プロイセンはアクセルを思い切り踏みつけながら、苛立ちを爆発させる。
「あー、ちくしょう、この車スピード出ねぇぇぇぇ! おらっ、もっと気合入れろ!! ガッツが足りん! そんなことで使命を果たせると思っているのか! このピ――ッ野郎が! 貴様は――」
 彼は自身が運転するトラバントに向けて、数々の罵詈雑言を浴びせた。もちろんすべて教育上不適切な、それはもう汚い言葉である。オーストリアあたりが聞いたら怒りに震えそうだ。
 そんな彼を横目で眺めるザクセンは、
「新兵鍛えてるときみたいだ……」
 ぽつりと感想を漏らした。プロイセンが軍隊で兵卒たちをしごきにしごいていたときのことを思い出さずにはいられない。まあ、実際の訓練場面においてはより一層過激な発言が次から次へと飛び出すのだが。
 しかし、かつてと同じように罵りを連発しているものの、その様子が以前とは異なることにザクセンは気づいた。こういうときのプロイセンはもっと生き生きとしているはずだが……。
「大丈夫? 顔色悪いけど……」
 激昂しているにもかかわらず白っぽい彼の横顔をちらりと見やりながら、ザクセンが尋ねる。彼はハンドルをぎゅっと握り締めて前を見つめたまま答える。
「余分な観察してる暇があったらとっとと打て」
「あ、うん、あとちょっと」
「そうか。ならあとは時間との勝負だな。このポンコツがどこまで根性見せるか……。くそ、遅ぇんだよ」
 いらいらとハンドルを指先で叩きはじめる。そこそこの速度は出るものの、彼が求めるほどにはこのトラバントは応じてくれない。性能上、仕方がないのだが。
 ザクセンは言われたとおりタイプライターを打つ手は休めず、小さく苦笑した。
「よっぽどモスクワが嫌なんだ」
「当たり前だろ。うっかりミスでご招待されて嬉しいもんか。出張だけで十分だ。ルビャンカ召喚とかマジ勘弁だぜ……」
 ぶるっ、とプロイセンは誇張でなく背を震わせて肩をちぢこめた。詳しくは知らないが、ろくな思い出がないらしい。先刻からかなり焦っているのが露骨にうかがえた。
 ザクセンは、頼むから事故は起こさないでくれと願った。この車の強度については、考え出すと不安で仕方がなくなるので、あえて意識から締め出す。フロイトで言うところの抑圧である。
「いや、いくらなんでもそれはないだろ。上司だってさすがにおまえを向こうに売ったりはしないと思うけど」
「簡単に言うな! そりゃおまえは平気かもしれないが、俺はロシアに体の一部押さえられてんだぞ! それもいちばん大事なとこ! 下手なことやらかしてみろ、何されるかわからんっ……!」
「ああ、うん……なんていうか、ほんとにごめん……」
 あれこれ悪い方向に想像を巡らしてはびびっているのか、プロイセンはヒステリー気味に叫ぶ。ザクセンはもう何度目になるのかわからない謝罪を述べるだけだった。
 五分ほど、やかましいエンジン音とタイプライターを叩く音だけがふたりを包んだ。やがて、膝に乗せたタイプライターから印字されたばかりの紙を引き出すと、ザクセンが歓喜の悲鳴を上げた。
「やった! 書けたぁ! あとはサイン入れるだけだ!」
 胸ポケットからペンを取り出す彼を見て、プロイセンがぱっと表情を明るくした。
「よし! よくやったザクセン!」
 が、そのとき。
 突如、どどどどどど……と低いうなりと振動が彼らを襲う。
 驚いたのも束の間、車体は嫌な音を上げながら急速にスピードを落とし、やがてぴたりと止まってしまった。道路のど真ん中で。
 沈黙したトラバントの中で、プロイセンはハンドルを離さないまま、乾いた声音で言った。冷たい汗が背中を流れる。
「なあ、これって……」
 事実を認めたくないのか、ザクセンはちょっと黙り込んでから、
「エンスト……?」
 とわかりきった答えを呟いた。
 十秒ほど、気味の悪い静寂がふたりの間に影を落とした。
 そして、
「嘘だろぉぉぉぉ!?」
「タイミング悪―――っ!」
 彼らは同時に叫んだ。
 今日はやたらと声帯を酷使する機会が多い。



お節介だと思いますが、一応用語解説。
・ルビャンカ:KGB本部のこと。KGBが管轄していた刑務所を指すことも。
・トラバント:東ドイツの国産車。愛称はトラビ。見た目はかわいいがスペックは驚くほど悲しい。

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