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ちょっと妙な方向に過激かもしれない発言があります。ご注意ください。





何十年か前のプロイセンとザクセンの話 6−2


 プロイセンはドアを開けて下車し、速やかにボンネットを開ける。続いてザクセンも降りた。
 がんばり屋のトラバントだったが、いい加減主人に容赦なく酷使されるのに耐えかねたのか、沈黙の抗議を絶賛展開中だ。プロイセンは、熱を発したままうんともすんとも言わない2ストロークエンジンに向かって怒鳴りつける。
「おい! なんでこんなときにストライキ起こすんだ! こういうときにこそ愛国心を見せろよおらぁ! なんだよ、普段こき使われてるのが気に入らないのかよ! 言っとくけど俺だって気に入らないさ、気に入らないぜ畜生! けど俺も我慢してんだから、おまえだってがんばれよ!」
 怒りというよりは不測の事態に対する混乱のためにすっかり頭に血が上っているプロイセンは、衝動のままに裸のエンジンを平手で殴った。ザクセンが慌てて彼の手を掴んで制止する。
「落ち着け、車に話しかけてもどうにもならないって。あと、殴るな。トラビがかわいそうだろ、おまえの力で殴ったら。こいつか弱いんだからさあ」
 なんとか沈静させようと、ザクセンはプロイセンの上半身を両腕を使って必死に押さえる。が、プロイセンが苛つきに任せてその場で何度も足踏みするので、ザクセンの体も一緒に揺れる。気を抜くと舌を噛みそうだった。
 プロイセンはザクセンに巻きつかれるようなかっこうのまま、人差し指を車に向かって突き出した。
「もー、俺がシュタージだったらおまえを体制への不穏分子として取り締まってるところだぞ!?」
 うがぁぁぁぁっ、と頭を掻き毟りながらプロイセンは叫んだ。彼の主観では、生産国の尊いお勤めに貢献しようとしない自動車は、反体制的な思想の持ち主であるらしい。トラビからしたら言いがかり以外の何ものでもないだろうが、生憎物体なので反論はしてこない。
「いや、おまえも職員だけどな?」
 それともこれは彼なりの皮肉なのだろうか、と考えつつ、ザクセンはプロイセンを鎮めるための努力を継続中である。
 プロイセンは、ぶら下がるように引っ付いているザクセンの存在などお構いなしに、トラバントに対して語りかける。
「くっそ……おい、トラビ、こんなところで拗ねたってかわいくないぞ! なんでそんな不機嫌なんだよ! 俺の愛が足りないって言いたいのか!? おまえは十分かわいいぞトラビ!!」
「かわいそうなひとみたいだからやめようよ、そういうの……」
 沈黙を守る自動車を宥めすかそうと考えたのか、プロイセンは文句に続いて褒め言葉を放ち出した。ただし、怒り口調のままなので、迫力は変わらない。彼は部品を素手でいじって調子を確かめるが、性能に対して無理させすぎたのか、どこもかしこも悲鳴すら上げないようなくたばりっぷりである。ザクセンは、プロイセンの馬鹿みたいな握力を鑑みて、いつ部品が破損どころか木っ端微塵に粉砕されないかと、ハラハラしていた。
「いつまでも機嫌直さないようだったら俺にだって考えがあるぞ! よぉし、そこになおれ! 俺がおまえのその根性を叩き直してやる! 文字通り、な!」
 剣呑な発言とともに、プロイセンは左の拳を右の手の平に数回打ち付けて、攻撃の構えに入った。ザクセンは彼の前に腕を差し出して説得を試みる。
「やめろ! 叩いて直すとか、いつの時代の教育方針だ!?」
「ははははは! ふがいないやつは俺がこの手で矯正してやる! 物理的にな! 性格だろーが根性だろうが、力学的修正で直してやる! 科学の力を舐めるなよ!」
 プロイセンは左腕をぐっと引き、いよいよ拳打のモーションに移る。ザクセンは彼の手をはしっと掴んだ。ザクセンの筋力でプロイセンに対抗することは無謀でしかないのだが、職場の備品である自動車を痛めつけられてはかなわない。実力勝負になる前に、言葉による制止で望むことにする。
「故障に対して物理的手段を講じるのは正しいが、方向性が間違っている! おまえ大丈夫か!? さっきから壊れてるっつーか時代逆向気味だぞ!? なんかいろいろフラストレーション噴出してない!?」
 頼むからトラビにひどいことしないであげて! とザクセンが悲痛な叫びを上げる。先ほどから何台もの車が通りかかっているが、彼らが異様な騒ぎ方をしているためか、関わろうとするものはいなかった。
 腕力だけではどうにもならないと判断したザクセンは、自分の脚をプロイセンのそれに巻きつけた。ユーカリの木にしがみつくコアラのごとき体勢を取られ、さすがのプロイセンもよろめく。
「くぉら、ザクセン! 何しやがんだ!!」
「全体重掛けるくらいしないと、おまえの力に負けちゃうじゃん!」
「邪魔だ、離せ!」
「うわ! ちょっ、落ちる落ちる! 危ないって! っていうか、こけるぅ!?」
「うぉぉ!?」
 ザクセンの予告の一秒後、プロイセンがバランスを崩し、ふたりは揃って地面に倒れ込んだ。
「ご、ごめん、大丈夫?」
 横向きで肘を突いてザクセンが尋ねたときには、プロイセンはすでに膝を立てて体勢を立て直しつつあった。が、地面との衝突で少しばかり頭が冷えたのか、彼はザクセンに向き直ると、
「ああ、もうっ、くそぉ、埒が明かん! おい、ザクセン、書類寄越せ!」
 腕を突き出して要求した。ザクセンは目をしばたたかせる。
「え? え? い、いいけど、どうするんだ?」
「もう大分近づいてんだ、ここまで来て諦められるか。……俺が届ける!」
 本部までの正確な距離はわからないが、残りおよそ二十キロといったところだろう。
「届けるって、どうやって?」
「決まってるだろ――走る!」
 プロイセンはすでに決意のみなぎる瞳でそう言い切った。ザクセンは相手に気圧されながらも、代替案の突拍子のなさに口を何度かぱくぱくさせた。
「は、走る!? なにその原始的な手段!?」
 しかしプロイセンは自分のアイデアを実行する気満々のようで、すばやく立ち上がったかと思うと、車内に上半身を突っ込んで、シート下を探りはじめた。
「ここで立ち往生してるよりなんぼか建設的な方策だ。幸い、スニーカーは積んである。問題はこのカッコで本部にすんなり入れてもらえるかどうかだが……なぁに、そのときは強行突破してやるさ!」
 革靴からスニーカーに履き替えると、彼はその場で何度か飛び跳ねて、履き心地を確かめた。疾走する気合は十分だ。
「ちょっ……あんま無茶なことすんなよ! それに、いくらおまえの脚だって相当きついもんがあるだろ! ハーフマラソン並の距離だぞ!?」
「おまえよりはよっぽど早い。締め切り時間オーバーしても、今日中に届ければモスクワへの対応には十分間に合うはずだ。ああ、もうっ、しゃべってる暇はない。いますぐ行く! ザクセン、おまえは車なんとかしてろ! おら、とっとと書類渡せって!」
 屈伸、伸脚、ストレッチと、着々と準備体操を進めていくプロイセン。ザクセンはなかば迫力負けするようなかたちで、書き上げたばかりの書類を封筒に入れて差し出した。プロイセンはそれを丸めてバトンのようにしてがっしり左手に掴むと、
「んじゃ、ちょっくら行ってくらぁ!」
 と挨拶を残して颯爽と駆け出した。スプリントのようなスタートダッシュで、あっという間に彼の背中は小さくなり、やがて見えなくなった。
「ほ、ほんとに行っちゃったよ……」
 取り残されたザクセンは、放心状態で道路に立ち尽くした。
 相棒のトラバントは、相変わらず沈黙のまま佇んでいた。

*****

 約十八時間後――すなわち翌朝の事務室で、ザクセンはひとりでせっせと掃除をしていた。プロイセンより先に出勤することは少ないのだが、この日は意識的に早めに部屋に入った。なんとなく、彼より遅く来るのは気まずいように感じたためだが、早く来たら来たで手持ち無沙汰で落ち着かず、結局当たり障りのない作業として清掃をはじめたのだった。
 廊下の掃除用具入れから持ち出したモップで床を乾拭きしていると、ノックなしで突然扉が開かれた。
 一歩足を踏み入れたプロイセンは、先客がいることに驚いたのか、立ち止まってまばたきをした。
「お、おはよう、プロイセン」
 ザクセンもまたモップを斜めに構えたままその場に固まると、ぎくしゃくとした口調で挨拶をした。プロイセンは、彼にしては低めのテンションで軽く手を上げて挨拶を返した。
「なんだおまえ、今日は早ぇじゃねえか」
「うん、まあ、たまには。……えと、書類、間に合った? 昨日から連絡なんもないしさ、俺、気が気じゃなかったんだけど」
 ザクセンの問いに、プロイセンは横髪をさっと払うような気障な仕種をした。もっとも、頭髪が短いので単に側頭部に触っただけのように見えたが。彼は鼻で笑いながら答える。
「ふっ、俺を見くびるなよ。きっちり仕事はこなしてきた。締め切りぎりぎりにスライディングで飛び込んでやったぜ。まあ、その前に守衛と一悶着起こして、結局その件で上司に注意されちまったが。けど服装に気をつけろとか言われてもよぉ、制服でそのへん爆走してたら怪しまれるっての」
 プロイセンは席に座ると、さっそく愚痴をはじめた。姿勢が少し崩れているところを見ると、疲れているようだ。それもそのはずで、あの時刻から走り、締め切りに間に合わせたということは、彼は陸上の長距離でワールドレコードも夢じゃないほどの速度を出したということだ。ザクセンはモップを部屋の角に立てかけながら、感嘆のため息をついた。
「いやもうほんと、お疲れ様としか言えない……あ、それと、ありがとう。まじで。心の底から感謝だよ」
「正直ものすごくいい迷惑だったが……ま、これも仕事の範疇だ。仕方がない。届けなかったらおまえを急かして書類仕上げさせた意味なくなるしな。けど、同じ失敗はするなよ」
 プロイセンが釘を刺す。ザクセンは胸の前で手を組んでお祈りのようなポーズをすると、ちょっぴり目をうるうるさせながら、
「プロイセン……俺いまちょっとおまえに惚れそうだった。いい男だなあ」
 と感動とともに告げた。
「はははははは……言われなくても知ってるぜ」
 プロイセンは生意気そうに笑って見せたが、いつもより明らかにパワーがない。ザクセンは苦笑した。
「さすがのおまえも疲れてるみたいだな。笑いに力がない」
「そりゃあな……しかし恐ろしいことに、まだどこも痛くねえんだ。だるいだけで。いかに俺といえども、あれだけの運動したら筋肉痛のひとつも起こしそうなもんなんだが……」
 椅子にだらりと体重を預けて、プロイセンが少し深刻そうな面持ちで言った。
「若いってことじゃない? うらやましいよ」
「ばーか。逆だ、逆。若いほど回復が早いから、体痛くなるのも早いんだよ。くそー、俺も寄る年波には勝てないのか? 昔はその日のうちに筋肉痛来たってのに。あー……半日後が怖いぜ……」
「帰り、送ろうか?……って、トラビまだ直ってないんだった。一台しかないもんなあ」
「余計な世話はいらん。いざとなったら泊まり込めばいいだけだ。その代わり……」
 と、プロイセンはスーツのポケットからキーホルダーを出すと、ザクセンに投げ渡した。ザクセンは両手でキャッチすると、
「なんだ? 鍵?……ロッカーのじゃん」
 目の前に、キーホルダーの先についた鍵を掲げた。
「俺のロッカーのだ。昨日着てたスーツがぶち込んである。走るわ揉み合うわスライディングかますわで、すっかり汚れた。おまえのせいなんだから、洗濯してこい。今週中だ」
 そう命令すると、プロイセンはのろのろと始業の準備をはじめた。動きがわかりやすく緩慢だ。
「了解」
 ザクセンは崩れた敬礼とともに答えた。
 この種の動作にうるさいはずのプロイセンは、何も注意してこない。
 ああ、これは相当疲れているな、とザクセンは思い、胸中でもう一度彼に礼を言った。




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