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会える日を信じて



 空は完全に夜の支配する色に染まっていた。
 光源といったら空高くからちらちらと降る星明りだけ。路地裏はひどく暗く、互いの髪や瞳や服の色はもうわからない。プロイセンは、夜闇に慣れた目で相手の輪郭をとらえた。
「うし、落ち着いたな」
 うなだれて、彼の肩にもたれかかっていたドイツが顔を上げる。視界は悪いが、不思議と表情は読み取れた。その頬を片手で触れるように撫でてから、プロイセンは彼の腕を引っ張って木箱から立たせた。
「もう大丈夫だな?」
 念押しのように尋ねられ、ドイツは恥じ入るようにそっぽを向いた。プロイセンは彼の気が済むまでしたいようにさせてくれた。おかげで気分は落ち着いたのだが、冷静さが戻るに従い、自分はなにかとんでもない醜態をさらしていたような気がしてくる。もっとも、まだ頭痛が残っているために幾分ぼんやりとしていたので、赤面するほど恥ずかしいとは感じなかったのだが――この時点では。
「ああ……その、すまなかった。みっともない姿をさらした」
「いまさら後悔しても遅いぜ。ばっちり見ちまったからなあ、おまえの泣いてるとこ。いやあ、珍しいもん見れたぜ」
「ひとを珍獣のように言うな」
「ははは、もう眉間に皺が戻ってらぁ」
 むっと口をへの字に曲げるドイツに安心したように、プロイセンが彼の額を指先でつんと押さえた。少し空気が緩んだのを肌に感じる。と、プロイセンが一歩後退した。
「じゃあ、もう行けよ」
 そう言うと彼はドイツの背を押した。表通りのほうへ向けて。
「そろそろ監視の連中も『あいつら何やってんだ?』って怪しんでる頃合だろうし、あんまベタベタしてると、上にどやされそうだしさあ」
 プロイセンの言い分は理解できた。が、なんとなく足が進まず、ドイツはその場で肩越しに振り返った。
「うまく行きそうにないか、上司とは」
「そりゃあな、なんせ相手はモスクワ帰りなんだぜ。俺のこと、嫌いに決まってるだろ」
「大丈夫なのか」
 ドイツは体を反転させると、プロイセンの肩に手を乗せた。プロイセンは首をすくめると、曖昧に頭を振った。
「さすがに潰されねえとは思うけど……先のことはわかんねえや。ま、そんなん当たり前っちゃ当たり前か」
 プロイセンはドイツの前に進み出ると、手を引いて路地から抜けた。メインストリートから外れた灯のない夜道だったが、それでも細い路地裏に比べれば月と星の恩恵を多少は受けられた。
「ここらは暗いと迷いやすいからな。大きい通りまで送ってってやるよ」
 彼はドイツの手を握ったまま、夕刻に走ってきた道を逆に辿った。意識して歩調を遅くした。多分相手も気づいただろう。しかし何も言われなかったので、そのままゆっくりと大通りを目指して歩いた。わざと遠回りしてやろうかとも思ったが、自由の身ではないので、諦めた。
 まだ人気の残る通りに差し掛かったところで、プロイセンは立ち止まった。お別れだ、と言外に告げる一方で、つないでいた手を放そうとするのに指がすぐには開かない。彼は自分にやれやれと言うように肩をすくめた。
「ここまで来ればあとは迷ったりしねえだろ」
「ああ、あとは自力で帰れる」
 その答えにうなずいたプロイセンだったが、手指は未練がましいというか正直というか、ドイツの手を放そうとしなかった。彼はごまかすように腕を引き寄せると、顔を近づけてハグをした。
「……とりあえずここでさよならだ。挨拶くらい、できるだろ?」
 ドイツはこくんと顎を下げると、彼の耳元でささやいた。
「無事でいろ。……必ずだ」
「それは神に祈っておけ。おまえこそ、気をつけろよ」
「いなく……ならないだろう?」
 顔を離したドイツは、少し不安のにじむ声音で言った。プロイセンは通りのほうに顔を傾けた。
「確約はできねえな」
「………………」
「だーかーらぁ! 先のことはわかんねえって言ってんじゃん」
 景気づけるようにボリュームを大きくしたプロイセンは、それを機にぱっと手を放した。そして、ドイツの背をばしばしと叩き、再び足を進めるよう促す。
「ほら、ほんと、もう帰れって。すっかり日ぃ暮れちまっただろうが」
 ドイツは彼に押されるままに数歩歩いた。と、プロイセンの手が背から外れたところで振り返る。
「プロイセン……」
「ん」
 呼ばれたプロイセンは、満足げにかすかな笑みをたたえた。
「おまえこそ、多忙にかまけて俺のこと忘れるなよ。んじゃ、おまえもいろいろ大変だと思うけど、元気でな」
 数歩後退しながらプロイセンは腕を振った。ドイツは少しためらったが、すぐに前を向くと、メインストリートに向かって歩き出した。自分の姿が見えなくなるまで、彼は見送りをやめないだろう。
 角を曲がり、何十歩か進んだところで、ドイツはふいに立ち止まった。集合住宅の窓から漏れてくる光がまぶしくて、細めた目をこする。と、目の周りがかさついているのを感じた。
 改めて、自分がプロイセンの前でどんな醜態を演じたのか思い起こされる。ドイツは口元を手で覆った。
「しまった、あいつに弱みを握られた気がする……」
 彼はとてつもなく恥ずかしくなって、力の限りうつむいた。が、その場に立ち尽くしていられるだけの落ち着きもなかったので、足早に歩き出した。
 自分はいまどんな顔をしているのだろうか。多分、目も当てられない。このまま帰ってフランスあたりに出くわしたら、どんな反応が返ってくるかわかったものでもない。からかわれるのも嫌だが、深刻に受け取られるのもまた気まずい。とりあえず彼は前髪を上げると、ポケットに無造作に突っ込んでいた帽子を取り出し、目深にかぶった。せめて服装だけでも取り繕おうと考えて。
 ――そういえば、あいつの服を汚してしまったな。ちゃんと洗濯できるだろうか。
 帰途を進んでいると、ふいにそんなことが気になった。どうでもいいと言ってしまえばそれまでの瑣末事だが、そんな些細なことさえ、気に掛けようがないのがいまの彼らの状況だった。

*****

 プロイセンが所属する組織の詰め所に戻ったとき、職員はすでに夜勤組に交代していた。すでに人のない事務室はすっかり冷えており、明かりを点ければ、白い息が顔の前に霧散するのがはっきりと見えた。
 彼は壁際のクローゼットの引き出しを開けると、中からファイルと所定様式の枠が印刷された白紙の文書、それから取り急ぎつくられた感のあるマニュアル冊子を掴んだ。まだ自分のデスクが用意されていないため、勝手に同僚の席に書類を投げ、椅子を引いてどかりと座る。だらしなく背もたれに体重を預け、目をつぶって天井を仰ぎながら、疲労のにじむ息を深々と吐いたあと、彼は気を取り直したように報告用紙に手を伸ばした。
「さて、仕事仕事……」
 とっとと済ませて帰るか、と自分への目標を立て、彼は冊子として簡易に閉じられているマニュアルを開いた。そこには、報告書の書き方とが事細かに指示されていた。それはもう、強迫的なまでに几帳面に。提出時のファイルの色の選択基準まで設けられている。しかし彼はその執拗に細かいマニュアルに、ある種の安堵と懐かしさを覚えるのだった。実にドイツ人らしいやり方じゃないか。
 様式に則り、プロイセンはレポートを書き始めた。先日渡されたばかりのマニュアルを参照しながら、ペンを用紙の上で滑らせていく。

『195X年XX月XX日
 16時12分
 対象者ナンバー21XX
 民主共和国首都△△通りにて21XX(以下ルートヴィヒと記載)が監視者(私)と接触する。このときより監視対象とする。
 服装は……………………
 行動について……………………
 …………………………………………
 16時28分 ○○通り4ブロック目の路地に移動
 …………………………………………
 …………………………………………
 以上の理由より、この接触は先方の偶発的で衝動的行為と考えられる。
 ………………………………………………』

 作成者氏名と筆記体のサインを記入したところで、彼は手を止めた。誤字脱字をチェックすべく、自分の書いた文字列を追いながら、彼はため息をついた。
「あーあ、ほんと、ヤな仕事……」
 だからあの時、逃げたというのに。
 監視目的のつもりじゃなかったんだぜ――とこの場にはいない相手に胸中で言い訳をする。もっとも、どこからどう見ても仕事中な服装だったので、公私混同だと怒られそうだ。あいつ、生真面目だからなあ、とペンの尻で下顎を突付きながらプロイセンが苦笑する。
「服の染みについては……書かなくてもいいよな。どうでもいいことだし。うん、あいつの名誉のためにも、書かないでおいてやろう。はははは、俺って結構甘いよな」
 文章を読み返しつつ、彼は制服の胸元に手をやった。自分のものではない涙の跡が、塩分の結晶としてかすかに浮かんでいる。思い出すと、それを残していった相手の熱がいまだくすぶっているように感じた。
 服を握る指が震える。
 やはりあのときのことを文章にするのは、無理そうだった。




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