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耐えてこそ


 何時間経っただろうか。日付はとっくに変わっていることだろう。
 深夜の冷え切った空気の中、唯一暖かい寝台のブランケットの下で、プロイセンはまんじりともせずじっと闇を見つめていた。潜ってしまっているので隣で寝ている相手の顔は見えないが、呼吸のパターンからして、おそらく眠っている。熟睡していないまでも、休息はしているだろう。
 こっちは眠れたもんじゃないってのに。
 額をロシアの胸につけたまま、プロイセンは感心と不満にため息をつく。やはり眠れない。体は濃い疲労を訴えているが、目は冴えていた。頭はクリアーとまでは行かないが、嗜眠とはほど遠いくらいには、覚醒している。
 ロシアのもとに下ってから彼が心安らかだったことはない。こうして本土に戻ったいまも、ここが彼にとって安息を得られる地ではないことをありありと実感させられる。
 しかし同時に、寝る前にロシアが引用した言葉の正しさも身に染みた。睡眠を得られないまでも、こうして彼の横でおとなしくしていられる程度には、自分はこの異常な環境に慣れたようだ。それでも相変わらず体は意思ならぬところで緊張しているのか、睡魔は一向にやって来ない。
 眠りの訪れない夜は、さまざまな思考や記憶や感情が浮かんでは消えていく。プロイセンはここに至るまでの長いような短いような道のりを振り返った。時系列ではなく、ただ心に去来するまま、断片的に。
 ふいに、半日ほど前の街角での光景が鮮やかによみがえった。細部の色彩はモノクロだったが、彼の目がフォーカスを当てていたらしいところは鮮明に再現される。
 自分を見つけたときのドイツの顔。
 必死に追いかけてきたときの、ちょっとひとさまにはお見せできないような形相。
 自分を捕まえたときの、不安と安堵がない交ぜになったアンビバレンスな表情。
 そして、柄にもない涙。
 もっとも強烈に脳裏に焼きついているのは、無表情のまま静かに涙を流している姿だった。透明な泣き顔。あれがいちばん堪えた。あんな泣き方をするなんて。
 実際はプロイセンが騒いだためにすぐに消えてしまったが、あのときのドイツの顔は忘れられない。
 壊れた映写機のように、そのシーンばかりが何度も何度も再生される。そのたびにちくりと胸に痛みを感じ、彼は逃げるようにぎゅっと目を閉じた。映像を見せているのはほかならぬ彼の記憶なのだから、意味はなかったけれど。
 ああ、くそ。泣きたいのはこっちだって同じだったのに。おまえが先に泣いちまったから、俺はタイミングを逸したじゃないか。
 胸の中で八つ当たりを呟きながら、それでも彼は、夕刻の一連の出来事を反芻し続けた。あの一時間にも満たない邂逅が、際限なく繰り返される。束の間の安息だった。再会に興奮していたけれど、もし彼と一緒だったら、路地裏でだって安眠できたかもしれない。
 次によぎったのは、西ベルリンへと去っていく彼の後ろ姿だった。彼が角に消えてもなおしばらく、プロイセンはその場に立ち尽くしていた。ドイツの背が小さくなっていくのを見送ったときの心境が思い出される。
 ふいに、目の周りにひりひりとした違和感を覚えてプロイセンは目を開けた。すると、重力にしたがって目から雫が流れ出した。顔の隆起を伝い、皮膚を伝って下方へと降りてゆく。
 プロイセンは極力小さな動作で右手の指を目元に触れさせた。
 泣いている。
 彼は濡れた自分の指先を不思議そうに見た。真っ暗闇の中で水滴を確認することなどできなかったけれど、触覚はそれを伝えてきた。
 いましがた泣きはじめたというわけではなさそうだ。まつげはすっかり濡れているし、涙の筋も一本ではない感触だ。
 自覚すると、途端に息が苦しくなった。泣けば、涙だけでなく鼻水も出てくるし、呼吸も乱れる。まだ嗚咽はこぼしていないようだが、それも時間の問題かもしれない。彼は両手で口を覆うと、感情の反乱に支配された体を抑制した。こんなところで泣いてたまるか。いまさら遅いとわかっているが、それでも彼は最後の砦として、声は上げまいとした。
 と、体にかぶさっているブランケットが波打つ。プロイセンはそこまで大きく動いていないのに。
 ロシアが寝返りでも打とうとしたのか――それとも、起こしてしまったのか。
 プロイセンはぎくりとした。と、背中に軽い圧を感じる。そういえば、ロシアの腕が回されたままだった。いつの間にか体温が等しくなりなじんでしまったため、そこに他人の体が触れていることを忘れていた。……覚えていたら、涙腺も緩まなかっただろうに。
 ロシアの手は、わずかにプロイセンの背を抱き寄せただけだった。相手が眠っているのか起きているのか、ブランケットに潜り込んでいるプロイセンには確認のしようがなかった。
 プロイセンはしばらく縮こまっていたが、やがて再び、眼球の表面を水の膜が覆い出した。流れる水がひどく熱い。
 とん、とん、と遅いリズムで一定に背中を叩かれるのを遠く感じる。プロイセンは抗わなかった。
 この街に戻ってもなおこんなことをしている自分は、とんだ大馬鹿野郎に違いない。いまだって、ドイツの顔が頭から離れないのに。
 ……おまえ、俺のこんな情けないとこ見たらどうするよ。見せる気はねえけどな。
 そう思いながらも、体は無意識のうちに、密着した相手の腕に触れていた。
 ……ああ、こんなやつでも、体温は人並みに暖かいじゃないか。
 今夜はひどく冷えるからだ。
 すべてをベルリンの冬に押し付けて、プロイセンは再び目を閉じた。
 この街の別の場所にいるはずの彼が、同じ冬の空気の中で、安らかな睡眠を取れていることを願いながら。




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