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バスルームの闘い


 脱衣所でTシャツを首から抜いたところで、プロイセンは入り口のドアのほうを振り返った。綿のシャツは汗をたっぷり吸った挙句体温で乾いたらしく、塩でも振り落ちてきそうだった。
「……で、なんでおまえまでここに来てるんだよ?」
 ドアの内側、つまり脱衣所の中にはもうひとりいた。扉の前でしかつめらしい顔をして立っているその人物は、言うまでもなくドイツだ。彼は質問に対し、実直に答えた。
「風呂場で倒れられたらかなわない」
「なに真顔でひとの入浴に同伴しようとしてるんだ!」
 シャツを持ったままプロイセンが叫ぶと、ドイツは真剣な口調で説明した。
「入浴中の事故で命を落とす高齢者は少なからずいるんだぞ。危険だ」
「誰が高齢者だ!」
「似たようなものだろう、最近まで寝たきりに近かったくせに」
「く……」
 事実なのでこれに対しては言い返しようがない。寝込んでいる間、ずっと看護されていたというならなおさらだ。プロイセンが言葉に困っていると、ドイツが続けた。
「だいたい、おまえは前科が多いんだ。トイレの帰りに力尽きて倒れたおまえを、何度ベッドまで戻したことか。しかも抱えようとすると抵抗するわ這ってでも自力で移動しようとするわで、大変だったんだぞ」
「そ、そのへんのことはもう言うな!」
 廊下で動けなくなったところをドイツに見つけられ、担がれたり抱き上げられたりしてベッドに運ばれたことは、なんとなく覚えている。そのたびに自尊心がちくちくつつかれ、抵抗を試みたことも。……結局すべて徒労に終わったわけだが。
 自分の無様な姿が思い出され、プロイセンは大分泣きたい気持ちになった。しかもそのような体たらくのすべてを目の前の人物に晒してしまったとあっては、自己嫌悪もひとしおだった。
 もっとも、ドイツは本気で気にしていない――というより歯牙にもかけていないようだった。
「いまさらだと思うがな。おまえのいちばん情けない姿も見ているわけなのだし」
「だーかーら! 言うなって! 散々醜態さらしたのはわかったが、それでもなけなしのプライドってもんがだな……」
「ああ、服はそっちの籠に入れておけ」
 脱いだシャツを振り回すプロイセンに、ドイツはそう指示した。プロイセンはがっくりと脱力した。
「聞いてねえし……」
 この期に及んで脱衣をためらうのはかえって羞恥を覚えるような気がして、プロイセンはさっさと裸になった。浴室のドアを開けたところで振り返ると、ドイツが一歩前に進んでいた。
「おい、本気で入ってくる気かよ」
「倒れないとも限らないだろう。昨日までベッドの上でうなる元気もなかったんだぞ。さっきも階段下りるときに転びかけたじゃないか。入浴は体力を消耗するしな、手早くすませてもらいたいんだ」
「手早く……って、まさか入浴介助までするとか言い出さないだろうな!? いらねえぞ、俺は! 別に手足麻痺してるわけじゃねえんだ、自分でできる」
「……では、うっかり滑って転んだり、浴槽で溺れたりすることがないよう、見守っている」
「いらねえっつってんだろ!――お、おぉっ!?」
 ひとりで平気だ、と啖呵を切って単身浴室に一歩入ったところで、タイルに足をとられて重心を崩し、後方によろめく。
 転倒する、と覚悟したが、来るはずの衝撃は訪れなかった。代わりにアンバランスな体勢で止まっている。見上げれば、ドイツが肩を支えていた。彼は嘆息しながらプロイセンを見下ろした。
「言ったそばからこれではな……危なっかしいというものだ」
 ドイツの主張の正当性を裏付けるような行動を自ら起こしてしまったプロイセンは、体勢を立て直しながら仕方なしに首を縦に振った。
「わかった……同伴は認めよう。ただし、ほんとに見てるだけだぞ、監視だけだぞ!? 触るなよ、絶対俺に触るなよ。おまえはそこにいるだけだぞ」
 プロイセンは浴槽に入ると、シャワーコックをひねりながらバスルームの一角を指差した。
「ああ、わかった、危険がない限り手は出さない」
 ドイツはあっさりと了解し、指定された狭い角に長身を収めた。

*****

 ドイツに指摘されたとおり、一回目のシャンプーでは頭髪にまったく泡が立たなかった。髪をすすいで排水溝に流れていく湯が灰色に染まっているのを見たときには、自分でもぞっとするくらいだった。プロイセンは、ソープの泡がちゃんと純白になるまでしつこく洗い続けようと、半身浴の状態で髪と体を泡まみれにした。ナイロンタオルで二の腕をこすりつつ、彼は苛ついていた。
 浴室の壁の隅にでかい男が直立不動でこちらを凝視している状況でリラックスしたバスタイムを送れるような神経は持ち合わせていない。持ちたいとも思わないが。ドイツは、さながら国境警備隊の隊員のような緊張感でもって目を光らせている。どんな異状にも即座に対応できるようにと。彼曰く、「俺のことは壁の模様だとでも思え」ということだったが、とてもじゃないがそのように考えて無視できるようなサイズではない。仮に公衆浴場の置物のようなものだとみなしても、存在感がありすぎる。なんでそんなに威圧感を醸し出すんだ。
 おかげでまるで集中できない。その証拠に、プロイセンはさっきから左腕にタオルを何度も往復させるばかりだった。彼はため息をつくと、壁際を見た。
「なあ、おまえやっぱり出てってくれないか。なんかひとと一緒だと集中できねえ。ひとりのほうがはかどりそうだ。そのほうが早く出られていいだろ。これじゃいつまで経っても終わらねえよ」
 鼻の頭に泡を乗せたプロイセンがそう言うとドイツは首を盾にも横にも振らず、無言で浴室を出て行った。
「あれ、意外にあっさり引き下がったな……。まあいいか、助かった」
 と、プロイセンが息をついたのも束の間。
 三十秒もしないうちに再び浴室のドアが開かれた。戻ってきたドイツの手には、装備がひとつ増えていた。
 長い柄の先にけばけばしたものがついているそれは――デッキブラシだった。
「なんだ? ついでに掃除でもするのか?」
 目をしばたたかせるプロイセンに、ドイツは首を振った。どういうわけか、彼のほうにデッキブラシの毛先を向けてくる。嫌な予感がして、プロイセンは浴槽の中で身じろいだ。
「いや、おまえの作業があまりにも遅いのでな、俺がやってしまおうかと」
「それでなんでデッキブラシが必要なんだよ!」
「触るなと言っただろう、おまえが」
 ドイツは実に真面目な顔で答えた。
「アホかぁぁぁ! 手伝うなって意味で言ったに決まってるだろ―――!? 真剣な顔してっけど、おま、言ってること変態と変わりないぞ!?」
「しかし、あまり時間をかけるのは体によくない。疲労する」
「だからってデッキブラシはないだろ、デッキブラシは! おまえ、どこまでドSなんだよ!?」
「安心しろ、見た目はデッキブラシだが、ブラシの部分は豚の毛を使用している。人間をこすっても問題のない素材だ。じっとしていればすぐ終わるぞ」
 ドイツはデッキブラシの柄を握り締め、構えに入った。
 プロイセンは泡に包まれながら、浴槽の底に座ったままじりじりと後ずさりした。後退できる距離など、ないに等しいが。
「ちょ、本気で言ってんのか!? だいたいどこからそんなもの入手したんだよ!? っつーかその商品の使用目的ってなんなんだ!? どこのメーカーが何のために出したんだよいったい!?……え、おい、ちょ……ちょっと待て、おい、ほんと待て、やめろって、ちょっと……っ! わひゃ!? く、くすぐったい、ま、まじでやめろってば……っ!」
 宣言どおり、ドイツは迅速かつ正確に仕事をしたのだが。
 終わった頃にはプロイセンは動く気力もないほど疲労困憊になっていた。

*****

 のぼせたわけでもないのにリビングのソファでぐったりと仰向けになっているプロイセン(結局またしても服を着せられた)に、ドイツが言う。
「だから言っただろうが、入浴は体力を消耗させると。最初から俺に任せておけばよかったんだ」
「それはおまえが言っていい台詞じゃない!」
 精神的に疲れきったプロイセンは、それだけ叫ぶと目を閉じてしまった。
 このあと勝手に寝室まで運ばれるかもしれないが、知ったことか、ここまで来たらもうどうでもいい、と思いながら。




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