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帰路


 バス停から駅までは数十歩の距離のはずだ。しかし、この日は実際の距離よりも長く感じられた。というのも、道のりは変わらなくても、時間が延びたからだ。同じ距離あたりにかかる時間が長くなるということはすなわち、移動速度の低下を意味する。速さ=距離/時間。小学校の算数だ。
 ドイツはそんなどうでもいいことを考えながら、数歩先をちょこちょこ行くプロイセンから目を離さないようにして歩いた。まだ大人サイズに戻らない彼は、短いコンパスを精一杯広げてターミナルへと向かっていく。子供の足なので当然ながら歩行ペースは落ちる。本人は気にしていないかもしれないが、一足先に元に戻ったドイツからすると、プロイセンの歩くスピードは遅く感じられた。普段子供の足に合わせて歩くことなどないため、ドイツの歩幅は不安定だ。うっかり置いてけぼりにしないよう後ろを歩いているのだが、一定の距離を保つのはなかなかどうして、難しい作業だった。世の親たちは大変だな、と思わず感嘆したくなる。
「おーい、なにちんたら歩いてんだよ。遅いぞ」
 ドイツの苦労を知ってか知らずか、プロイセンは歩きながら振り返って文句を垂れる。
「ああ。ちゃんとついて行くし目的地もわかっているから大丈夫だ」
 自分に合わせてドイツが遅いペースで歩いているとわかったらふてくされそうなので、余分なことは言わないでおいた。いつもの彼相手なら遠慮なく主張しただろうが、いまの彼相手にそんなことをぶつくさと述べるのは、なんとなく大人気ないような気がした。いや、中身は変わっていないと理解しているのだが、どうにも見た目の印象という大きいらしく、ここは自分が大人の対応をしてしかるべきだと思えてくる。……まあ、結局のところいつもとあまり代わり映えのしない関係なのだが。
 駅の通路を歩きながら、ドイツはやっと帰途へつけることに安堵しながら言った。
「昨日から散々なことばかりだったが、これでようやく帰れるな」
「ああ、やっとあいつんちからおさらばできて嬉しいぜ。けどオーストリアの野郎から金借りるなんてよぉ……」
 プロイセンは、着ている服の胸元を両手で摘んだ。ドイツはオーストリアから衣類を借りればそれで済んだのだが(少しきつそうだが)、プロイセンは子供の姿のままなのでそういうわけにもいかず、近くの安い衣料品店で適当に子供服を調達したのだった。買いに行ったのはオーストリアとイタリアだった。若い男ふたり連れで子供服を物色する姿はさぞや異様だっただろうが、当人たちは気にしたふうでもなかった。出かける前にオーストリアの手によって採寸されたプロイセンは屈辱に震えていたが、買ってきた服は主にイタリアが選んだものだと知ると、途端に機嫌がよくなった。さすがにイタリアの眼を通しただけあって、センスのいいコーディネーションになっている。
 が、オーストリアに立て替えてもらったという事実が引っかかるらしく、プロイセンはやはりちょっと不服そうに頬を膨らませている。
「別に困窮して借金したわけじゃないんだ、帰宅したらすぐ返せばいいだけの話だろう。俺も昨日は焦っていたからな、手持ちがあまりないんだ」
 ドイツが宥めるが、プロイセンは肩を怒らせてぐちぐちと文句を並べるのをやめない。
「くそぉ。だいたい昨日、おまえがオーストリアんとこなんかに行かなきゃこんなことにはならなかったんだ。おまえが素直に自宅待機してりゃ俺がここに来る必要なんてなかったのに。おまえんちで待ってたって日本は解決案持って来ただろ。……ん? むしろそのほうが早く解決策がわかったんじゃねえか? 先におまえんち訪ねたってことは――」
 そうだよ、最初からおまえんちにいればよかったってことじゃん、と気づいたプロイセンが怒りモードで振り向く。
 が、そこには予想した人物はいなかった。
 雑踏というほどではないが、それなりに人の行き交う駅の中をぐるりと見回す。しかし、ドイツの姿はない。
「え……うそ、はぐれた? まじで……?」
 プロイセンは顎を上げて周囲を眺めた。最初はゆっくりと、そして徐々に忙しなく。低い背では、視界も必然的にいつもの慣れたものとは違ってくる。道行く人々が妙に大きく感じられた。顔を確認するだけでも普段より労力を要する。
 きょろきょろとしきりに首と眼球を動かすが、目標は見つからない。冷たい汗が背中に流れるのを感じた。沈黙を保つことができず、彼は焦りに駆られて口を開いた。
「ちょ、ちょっと……どこだよ、なあ、」
「おい」
「うわぁ!?」
 背後から急に肩をつかまれ、プロイセンは全身をびくりとさせた。弾かれたように体ごと後ろを向くと、ドイツのちょっと驚いた顔があった。彼としても、こんな激しい反応が返って来るとは思っていなかったのだろう。
「よかった、はぐれたかと思ったぞ。見失ったときはひやっとした。あまりフラフラするな、迷子になりたいのか」
「い、いた……」
 プロイセンは数秒呆けたあと、じっとドイツを見上げて長々と息を吐いた。そして、キッと眉を吊り上げて、
「こ、この馬鹿!」
 両の拳でぽかぽかとドイツの腹を叩いた。
「おい?」
 痛いというほどではないが、プロイセンの馬鹿力はこのころから結構なものだったようで、それなりに衝撃はある。ドイツはやめさせようと彼の手首を軽く押さえた。すると、今度は体当たりをしてきた。
「ちょ……何をしたいんだ」
 なんなく受け止めたドイツの腰にしがみついて、プロイセンはくぐもった声で答えた。
「おまえが目ぇ離したからだろ! こっちは目線が低くて不便なんだよ。どこ行ってたんだよ。心配したじゃん、お、おまえが迷子になったんじゃないかってさ!」
 さらにぎゅうっと抱きつき、ドイツの腹に顔をくっつける。ドイツはしばらく待ってから軽く肩に触れて離れるよう合図をした。そろそろと顔を上げたプロイセンの眼前に、小さな紙片を二枚示す。
「悪かった。乗車券を購入していたんだ」
 ほら、と親指で前に出したのは、子供用の乗車券だった。
「子供用でいいのか大人用にすべきなのか、少々悩んでしまってな」
「どんだけ生真面目なんだよ……」
 プロイセンは呆れた目を向けつつ、乗車券を受け取った。しかし、その顔はちょっとむっとしている。
「券くらい自分で買えるっての。だいたい、電車くらいひとりで乗れるぜ」
 つい一分前の自分の行動をごまかすように、プロイセンはそそくさとドイツから距離を取った。
「しかし、年端のいかない児童を単独で長距離移動させるのは危険だ」
「誰が児童だ! おまえは俺の保護者か!」
「元に戻るのを見届けるまでは安心できない。俺が責任を持っておまえを連れ帰る」
 そう宣言すると、ドイツはプロイセンの左手を握った。プロイセンは一瞬ぽかんとしていたが、ドイツがそのままプラットホームの入り口へと進もうと腕を引っ張るのにはっとして声を高くした。
「ちょ、わざわざ手ぇつなぐ必要あるのかよ!?」
「はぐれたら面倒だ。我慢しろ」
「大丈夫だって。いい年して駅で手ぇつなぐとかまじ恥ずかしいじゃん! いいって、ひとりで大丈夫だ!」
 プロイセンは手を引き抜こうと体ごと動かしたが、この体格差ではびくともしない。
「さっきさっそくはぐれかけたやつが言っても説得力がない。それに、いまのおまえなら大人と手をつないでいても恥ではない」
「よせって、誘拐犯にさらわれそうですって叫ぶぞ!」
「やってみろ。事後処理をオーストリアに頼む羽目になるぞ。なにしろ、ここはまだあいつのうちだからな」
「う……」
「わかったら観念しておとなしくしていろ」
「……わかったよ」
 プロイセンはわかりやすく頬を膨らませながらも、ドイツの言いつけにしぶしぶ従った。
 結局手をつないだままふたりは構内を歩いた。機嫌を損ねたプロイセンはそっぽを向いている。
 プラットホームの乗車位置につき、とりあえずはぐれる心配がなくなったところで、プロイセンはちらりとつながれた手を見た。その視線に気づいたドイツが、ああ、と一度うなずいてから手を開こうとした。が、プロイセンが彼の手掌をぐっと握った。ドイツは不思議そうに相手を見下ろした。
「なんだ?」
「……離すなよ。言いだしっぺはそっちなんだからな」
 プロイセンは列車が来るであろう方向に視線を向けたまま、ぼそりと言った。ドイツは前を見つめたまま、彼の手を握り返してやった。
「ああ、離さない」
「うん……」
 列車の到着を告げるアナウンスが流れたのは、数分後のことだった。

*****

 客室に乗り込むと、シートはそこそこ空いていた。選ぶ余地は十分ある。
 プロイセンは座席の品定めをしながら通路をゆっくりと進む。
「なあ、どこがいいと思う? 進行方向逆のほうが事故ったときの衝撃に強いよな。あと、窓際か通路際か。なんかあったとき非難しやすいのは通路際だよな。窓際だと狙撃に対してより脆弱だし。それから、シートの裏はちゃんと確認な。何が仕掛けられてるかわかったもんじゃねえ」
「そういえばおまえはそういうのにこだわるやつだったな……。まあ、危険予測を怠らないのはいい心掛けだとは思うが」
 プロイセンは特殊部隊員よろしく警戒しながらシートをすばやく観察していった。目線が低いので床に近い場所にはよく注意が行き届く。しかし、反対に上方への注意は制限されやすく――
「わっ?」
 通行人の大人にぶつかった。不意のことだったのでバランスを崩してよろけたが、ドイツが腕を掴んで転倒を防いだ。
「あ、ごめんなさい」
 接触したのは初老の女性だった。後ろには夫だろうか、同じ年代と思われる男性が立っている。ドイツはプロイセンに代わって軽く謝罪する。
「失礼」
「いえ、私は大丈夫よ」
 と、彼女はちょっと屈んでプロイセンを見ると、
「……あら、かわいい息子さん」
 と微笑ましそうに言ってきた。
「え゛……」
 女性の何気ないコメントを聞いたドイツとプロイセンは、その場でぴしりと固まった。彼女はそんな彼らに構わず、若いお父さんねえ、とのんびり言いながら、連れの男性とともに四シート分奥の席に座った。
 発車を告げる車内アナウンスを聞きながら、ドイツとプロイセンは手近な席に向かい合わせで座った。もはや安全確認について考えている余裕はなかった。
 動き出した客車は揺れが少なく静かで、ともすれば移動中なのを忘れそうだ。
 ドイツとプロイセンは、膝に肘をついて手を組み、口元を押さえるという、そっくりなポーズで対面して座っていた。ふたりとも、ちょっぴり落ち込んだ様子で床をうつろに見つめている。
「俺はこんなでかい子供がいるような年齢に見えるのか……?」
「なんで親子なんだよ、せめて兄弟だろ。くそ、俺はいまそんなに小さく見えるのか……?」
 彼らは納得がいかないといった調子で呟いた。目的地まではまだずいぶん時間があるが、それまでに疑問の答えが見つかるかはわからなかった。




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