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道のりは遠く、冷たく、そして寒く 3


 二時間ほど、どことなくぎこちなさの消えない調子で当たり障りのない会話を交わしていると、外は大分薄暗くなっていた。緯度の高い欧州の冬は、夜の訪れが早い。プロイセンは腕時計を確認し、椅子から立ち上がった。
「じゃ、もう帰るわ。やっぱこっちっていいもん使ってんのなー。コーヒーと菓子、うまかったぜ」
 すっかり乾いた防寒具を身につけていくプロイセンに、ドイツは聞いても仕方ないだろうと思いつつ、やはり気になったので尋ねてみた。
「どうやって帰る気だ」
「あー……フライパンで殴られるの覚悟しとく」
 マフラーを巻きつけながら、彼はちょっと気まずそうに答えた。ドイツは、彼女がプロイセンに文句を並べ立てながら殴りかかる図が容易に想像され、ああ、と納得したようにうなずいた。もっとも、奨励できる方法でないのは言うまでもないが。
 見送りに玄関までついていくと、プロイセンがふいに振り返った。
「なあ」
 彼はこれまで見られなかった神妙な面持ちでドイツに呼びかけた。
「なんだ」
「ウチんとこの連中、よろしくな。大分世話になってるだろ」
 国としては誇れるようなことではないだろうが、それでも真摯に彼は言った。ドイツはもちろんだ、とうなずいた。
「構わん。彼らもまた同胞だ」
「そうか」
 プロイセンは頼むともすまないとも言わなかったが、少しだけ安心したように目を閉じた。そのとき、ドイツが一言付け加えた。
「おまえもな」
 はっと目を見開いたプロイセンの視線の先には、ドイツのいつもどおりの生真面目な顔があった。
「……。おまえこそ、軽率だ」
 そう呟くと、プロイセンは別れの挨拶をした。その抱擁は再会のときよりもずっと、長く、強く、そして暖かかった。
 互いの頬にキスを落としてから体を離すと、扉を開けて外へ出た。雪はまだ降り続いている。
「そんじゃ、邪魔したな。……今日は、会えてよかった」
 ついでにようにささやかれたプロイセンの声は、しかし相手にはちゃんと届いたようだった。
「ああ……俺もだ。会えてよかった、本当に。では、気をつけろよ」
 くるりと体を反転させたプロイセンの背に、ドイツが言った。帰り道について、彼がかけてやれる言葉はない。引き止める言葉も。
 プロイセンはマフラーに口元を埋めて、ちょっと振り返った。
「言われるまでもない」
 それだけ言うと、彼は雪道をゆっくりと歩いていった。舞い散る雪が髪の毛に絡んでいくのを見て、追いかけて帽子を渡そうかとドイツは思ったが、西側の製品を渡しても彼の道中を危険にするだけか、とすぐに思い直した。
 薄闇の中、プロイセンの姿はじきに見えなくなった。けれどもドイツは体が冷えるのも忘れて、しばらく外を眺めていた。
 遠く、冷たく、そして寒い道のりが、少しでも優しいものにならないものかと、やまない雪の空に祈りながら。





 後日、ドイツは東側からの亡命者の証言を聞く機会をもった。その中に、数日前に物資輸送車に潜んで壁を越えたという、喘息もちの四十代の女性がいた。病的に青い顔で、しかし強い意志と希望に目を燃えさせ、女性は西側に住む妹のところへ行きたいと願った。妹の下へ預けたままの子供に会いたい、と。
 よくある話だ。もう幾度となく聞いた種類の話。引き離された家族の悲劇に、慣れるのは嫌だったけれど。それをもたらしたのが、分断された国家だというなら、余計に。

 その女性の証言には、ひとつ、不可解な点が残った。
 体の悪い彼女は、こちらの当局に保護されたとき、ひとりの青年に付き添われていた。彼女の話では、近所のアパートで時折見かける青年で、名前は知らず、彼女が亡命寸前に発作を起こしかけたのを見かねて、同行を申し出てきたのだという。彼女は彼を警察のものかと疑ったが、結局無事に西へたどり着いたところからすると、どうやら違ったらしいと話した。

 ドイツは、女性から預かった男物の黒い帽子を持って当局の管理名簿を当たった。帽子は、付き添った名も知らぬ青年が貸してくれたもので、もし彼が見つかるようなことがあれば、お礼と疑ったことへの侘びと一緒にこれを返してほしい、との言伝を受けたのだった。
 同じ日に保護された亡命者の記録には、一名、行方のわからなくなった者がいた。彼の素性も消息もついぞ知れず、ただ保護されたときに名乗ったギルベルトという名前だけが、名簿に残っていた。
「いつ、返せるのだろうな」
 リストの名前に触れながら、ドイツは黒い帽子を見下ろした。




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