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冷戦絡みの話です。
地名の誤りは故意です。ご了承ください。





時を駆けた手紙


ケーニヒスベルク 19XX年XX月XX日


親愛なるヴェスト

 この手紙がおまえに届くかどうかはわからない。こちらは検閲が厳しいし、第一この街は閉鎖されている。西側へのアクセスは困難だ。実はいままでに何通もおまえ宛ての手紙を出している。これからも可能な限り出すだろう。そしてそのたびに、俺はこの冒頭の文面を繰り返し書き続けると思う。これまで出した手紙も、出だしは毎回これだ。もし俺の書くすべての手紙、あるいは多くの手紙がおまえの手元に届いているとしたら、おまえは何度もこの断りの文を読んでいることだろう。そのときは……まあ、笑ってくれ。

 多分届いていないだろうと思いつつ、毎回少しずつこの最初の文面を変える手間を掛けている自分が少しおかしい。一応、全部届いていると想定して書いているんだ。……我ながら、感傷的でなんだか気持ち悪いが。

 そちらの復興は進んでいるか? おまえのことだからきっとうまくやっていると思う。そう思いたい。街並はもう元に戻っただろうか。国民は苦境から希望を見出せただろうか。俺がこの街から見送った人々は、新しい土地に馴染めているだろうか。気になることだらけだ。こちらは情報統制されていて、おまえたちの正確な姿が見えてこない。もちろん、人間の営みの中で情報の流れを完全に操作することも止めることもできないから、聞き及ぶこともけっこうあるのだが(俺がおまえのことをそれほど心配していないのがその証拠だと思ってくれ)。しかし、やはり直接確認できないというのはそれなりに不安なものだ。

 こちらのことはあまり書けない。秘密都市だからな、これでも気を遣っている。仕事は楽しくない。理由は察してくれ。

 あの廃墟から、街は立ち直りつつある。だが、新しい建物が増え街が息を吹き返していくのを見るたびに、ここが本当に自分の生地なのか、自分は本当に故郷にいるのか、ひどく心許なくなってくる。この街の空気を肺に取り込み、何千回何万回と見上げた空を仰いでも、なんの懐かしさも感じない。ここはもう、俺の故郷ではなくなってしまったのかもしれない。それとも、俺の感情が鈍くなっているのか。もし俺がこの地を離れて、郷愁を胸に覚えるときが来たとしても、それはずっと過去のこの街の姿を思い描いてのことだろう。

 多分、俺の故郷は永劫に消えるのだろう。手の平に掬った浜辺の砂が指の間からすり抜けていくように、俺の手には何も残らないに違いない。いまもこの街で暮らしているが、自分の足跡をどこにも感じない。真新しいはずの足跡すら、見下ろしてこの目に映しても自分のものではないようだ。俺はいったいどこにいるのだろうか。俺はいまどんな姿をしているのだろうか。

 ……弱音は見苦しいな。書いてから後悔した。だが、便箋がもったいないから書き直すのはよそう。どうせ、宛てた相手には読まれない可能性のほうが高いんだ。

 おまえから切り離された土地はどうなっているだろうか。分断が進んでいるのは知っている。いずれ俺もそこへ身を寄せることになるかもしれない。相変わらずやつの支配下だが、ここよりはましだろう。同じ側の国へは出入りできるだろうし(ハンガリーの家とかな。あいつのとこも大変なようだが……)、何より、そこはドイツだ。ここはもう、俺の家ではなくなった。生まれ故郷ではあるが、それはもう、記憶の中の存在だ。まあ、俺たちにとっては別に珍しいことじゃないか。いいさ、俺は覚えている。帰る場所はまだあるのだし。

 話題があちこちに飛んではまた戻っているな。パラグラフごとの切り出しが唐突だ(いま読み返してそう思った。が、重ねて言うが、便箋を無駄にしたくないから書き直さない)。論文でもなければ正式文書でもない、ただの個人的な手紙だから許せ。

 文面が若干固いというか、不自然なところがあるかもしれない。最近あまりドイツ語を使っていないんだ。話す相手もいないし、いたとしても、おおっぴらには話せない。何百年も使っている言葉だというのに、何年か日常的に使用していないだけで錆び付いてしまった気がする。こうして手紙を書いている間も、何度か単語のスペルがすぐに出てこないことがあったくらいだ。そういうときは愕然とする。自分を自分たらしめているものが、消えていくのを感じずにはいられない。反対にロシア語は話すのも読み書きも上達したが(会ったらおまえきっと驚くぞ)、正直嬉しくない。そのうちキリル文字を書くほうが楽になったら嫌だな。俺がおまえ宛ての手紙を書く理由のひとつは、俺たちの言葉を忘れないためだ。だから、届かなくてもいいと思っているんだ。こうして手紙を書けているうちは、俺はまだ俺を失っていないということだ。

 いかん、また感傷的になってるな。らしくないからそろそろ結んでしまおうと思う。

 返事は期待していない。だが、俺はまたおまえに手紙を出すだろう。


 元気にしていろ。また会う日まで。

幾千の抱擁を
プロイセン
Preußen









 古ぼけた便箋にびっしりと綴られた、崩れたブロック体の文字を追っているうちに、すっかり夜の帳が下りていた。最後の筆記体のサインまで辿り着き、その先は空白の行しかなかったが、ドイツは最後の便箋に目を落としたまま、机の前から動かない。
 手紙の日付は半世紀も昔のものだった。受け取ったのは今日の午後のことだ。配達してきた郵便局員が言うには、保管期限の切れた受取人不在郵便物の倉庫から出てきたという話だった。まるでタイムスリップでもしてきたかのような手紙だったが、古くなった紙につく独特のにおいと、封筒の汚れ、便箋のくたびれ方が、この郵便物が確かな時間を刻んでいたことを告げている。
 この手紙がどのようなルートを通っていつこの国へ着き、どういったいきさつで今日まで届かなかったのか、なぜいまになって届けられたのか、理由はわからない。ドイツの与り知らないところで何かの、誰かの思惑があったのか。それともただの郵便事故か。推測はいくらでも立つが、確かな事情は謎のままだ。遡って調べても、おそらく行き詰るだろう。それに、何もかもがいまさらだ。いまとなっては、もう――
「おーい、ヴェストー」
 急に聞こえてきた、耳に慣れた音声に、ドイツははっと顔を上げた。声の位置は探るまでもなく、窓の外からだ。ガラスをノックする音が付随している。
「またか……」
 ドイツは便箋を封筒にしまうと、机の引き出しを開けないまま隙間に差し込むようにして中に入れた。立ち上がって窓まで歩くと、
「開けてくれ」
 いきなり要求の言葉を放ってきたのは、言うまでもなく、プロイセンだ。ドイツはため息をつきながらもカーテンを左右に引き、開錠してやる。そこには屋内の照明を反射して白っぽく光る金髪がある。
「よっと」
 プロイセンは嬉々として桟に足を掛けた。
「……なぜおまえは窓から入りたがる。ここは二階だぞ。わざわざよじ登るとは、不審者以外の何ものでもないだろうが」
「おまえが玄関まで降りる手間を省いてやってんじゃねえか。俺の心遣いに感謝しろよ」
「なんかもう聞くのも馬鹿らしいが、一応ルーティン的な手続きとして聞いてやる。何の用だ」
 プロイセンの珍行動に呆れつつドイツが尋ねる。プロイセンはにかっと笑うと、尊大な口調で言ってきた。
「泊めろ」
「いいぞ。入れ」
「へ……?」
 ドイツの承諾の言葉を聞いたプロイセンは、呆気に取られてぽかんと口を開いた。と、まだ窓に足を掛けた状態だったので、バランスを崩しかける。
「お、うわ……っ!?」
「何をしている。危ない」
 危うく落下するところだったが、ドイツは冷静に腕を引っ張って留めた。
「だから窓はやめろと言っているんだ」
 ドイツの腕に抱きとめられるかっこうになったプロイセンは、その体勢を自覚するや否や、ピンと腕を伸ばし慌てて距離を取った。
「お、お、おまえが変なこと言うからじゃんっ」
 どもりながら目を逸らすプロイセンに、ドイツは不思議そうに首を傾げた。
「変なこと? 特に変わった発言はしていないと思うが」
「や、その……泊まってっていいって」
「……? いつものことだろう」
「いや、なんか違うだろ。おまえ、いつもはこう、なんでわざわざ泊まりに来るんだとか、自分ちで寝ろとか、文句言うじゃん」
「文句言われている自覚がある上で、行動を自重していないわけか。……しょうのないやつだ。とっくに知っているが」
 説教に発展するかと思いきや、ドイツは苦笑するだけだった。
「ヴェスト?」
 なんかおまえまじでいつもと違うぞ、どっか悪いのか、とプロイセンが本気で心配そうな表情で覗き込んでくる。ドイツはその不安げな顔を視界にとらえると、部屋の隅に人差し指を向けた。
「寝袋ならあそこだ。好きに用意しろ」
「え、え、ええぇぇぇぇぇぇぇ……」
 あまりに物わかりのよいドイツにプロイセンは驚き固まった。ドイツは、そんな彼の横髪に軽く指先で触れたあと、机の照明を消した。そして引き出しを開け、隙間から少し飛び出ていた封筒を改めて中にしまい込んだ。
 普段は目敏いプロイセンだが、予測していなかった事態への動揺のためか、ドイツの行動には気づかなかった。




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