text


ウェブ拍手のおまけ話「何十年か前のプロイセンとザクセンの話 5」に関連した話ですが、これ単体でも読めると思います。
微妙な時期の微妙な国々の話なので、苦手な方はご注意を。






思い出を語るとき


 その頃、ブラウン管の走査線はまだずっと粗かった。
 オーストリアは優雅な動作でソーサーから音もなくカップを離し、口に運んだ。リビングのテレビからはニュースの映像と音が流れてくる。こういう時間は本来ならラジオの音楽番組でもかけておくほうが趣味に合うのだが、この日は少しばかり事情が違った。彼個人としても報道番組のほうに気が引かれていたのだが、それ以上に、彼の座るソファの後ろで先刻からうろうろと歩き回っている男の存在が理由だった。
 ドイツはオーストリアの背後でかれこれ十五分ほども、無目的に部屋の隅から隅へと行ったり来たりしていた。さながら、子供が生まれるのをひたすら待っている父親のようである。
 身のこなしが鍛えられているため、足音はほとんど聞こえないが、気配までは消してくれないので、やはり気になる。オーストリアはコーヒーの味がよくわからないことに嘆息した。
 やがてニュースの切り替わりを伝える短いメロディーが流れたとき、ぴたりと背後の動きが止まった。オーストリアは音もなくカップをソーサーに戻すと、テレビのほうへ視線を向けた。
「あ、はじまったんですね、建国記念式典」
 やたらと既視感を駆り立てるデザインの礼装姿の軍人たちが、ブラウン管の中でぴしりと背筋を伸ばしているのが不思議な印象だった。ドイツはオーストリアに背を向けたまま、ぶっきらぼうに答えた。
「そのようだな」
「嫌なら見なくていいんですよ」
 オーストリアが冷静に返すと、ドイツがわずかに眉根を寄せた。
「テレビを点けたのはおまえだろう」
「あなたが気にしているからじゃないですか。うちに来てからずーっとそわそわしてるくせに。今日自宅にひとりでいるのが嫌だから、私のところまで来たんでしょう」
「………………」
 オーストリアの指摘に沈黙してしまったのは、要するに図星だということだろう。なに子供っぽいことをしているんだ、とドイツは自嘲する。自覚がある分、余計に苛つく。
 オーストリアはわざとらしく、はあ、と呆れたため息をつくと、肩越しに振り返ってドイツを見た。
「イタリアのところに行かないのは、あなたがそんな仏頂面をしていると怯えさせてしまうからですか? すごく険しい顔してますよ、眉間の皺が五割増しです」
 このやり取りもなかば恒例行事と化している気がしますけど、とオーストリアは肩をすくめながら付け加えた。
 いつもとたいして変わらないが、慣れた者が見れば一目瞭然と思える程度には、ドイツは不機嫌な顔をしている。彼は、気の知れた相手しかいないためだろう、隠そうとも取り繕おうともしない。
「まあ……イタリアはともかく、あいつの兄貴がな」
「またロマーノ怖がらせたんですね……」
「以前立ち寄ったら、顔を合わすや否や、泣きながらスペインのところまで逃げていった。挨拶をしただけだというのに」
 むぅ、と気難しそうにさらに皺を深めるドイツに、オーストリアはやれやれと軽く頭を振った。
「挨拶で威圧するあなたもあなたですが……まあ、それについてはさすがあの子の兄、としか言えませんね。もっとも、スペインは頼られて悪い気はしないでしょうけど。彼も彼で上司厳しくて大変みたいですが」
 と、そこで、軽やかな旋律とリズムが彼らの間に割って入った。
「この曲、悪くはないですが、少々お上品ではありませんね」
 私の趣味ではないですね。のんびりとコメントするオーストリアの後ろで、ドイツは体を斜めに向けながらも、横目でちらちらとテレビをうかがっている。
 気になって仕方ないらしい。まあ、それはそうだろう。すぐ隣の国で盛大なパレードが行われているのだから。
 オーストリアは、画面に映し出されるガチョウ足の群れが一定の速度で進んでいくのをじっと見た。
「……こう言うのは不謹慎だと思いますが、いつものことながらうっかり見つめてしまうくらい見事ですね、この行進は。まあ、やりたいとは思いませんが」
 一糸乱れぬ、とはまさにこのことだ。彼はちょっと複雑そうな表情を浮かべたが、それ以上のコメントは控えた。
 と、視界の端でソファの背がたわんだ。
 ドイツが背もたれに両手をつき、身を乗り出すようにしてテレビを凝視している。
「これは……」
「どうしました?」
「そうか、あいつが教官を務めたのか……」
 ドイツは独り言のように呟いた。声量に反し、納得と確信の色がうかがえる声音だった。オーストリアは、ドイツの視線の先を追うように画面に顔を向けた。
「……プロイセンのことですか? まさかどこかに映ってるんですか?」
「いや、姿はないが……隊の足並みを見れば一目瞭然だ。錬度が違う。ここまで鍛えるのは各個人の努力はもちろんのこと、指揮する教官にも相当な技量が必要だ。これが可能なやつはそうそういない」
 当然のように語るドイツの傍らで、オーストリアは眉を寄せてさらに身を乗り出した。眼鏡の位置も直してみたが――
「私には前回との違いがよくわからないんですが……」
 首を傾げるしかなかった。すると、ドイツがソファを乗り越えて(たいした距離ではないのに迂回しなかった)テレビの横に立った。そして、サイドボードのペン差しからボールペンを手に取ると、
「いや、わかるだろう。全然違うじゃないか。ほら、この隊列の足元に注目しろ、地面を蹴るタイミングがだな――」
 移り変わっていく行進の列をつぶさにとらえ、ひとつひとつ解説した。オーストリアは一分ほど、彼の語りたいようにさせておいたが、やがて呆れ気味に首を振った。
「わかりませんよ、そんな細部まで力説されたって。私はあなたほど彼とわかり合っている仲ではないのですから」
「いや、別に俺も好きでわかるわけじゃないんだが……何分、この身でもってあいつの訓練のすさまじさを体験しているからな、よくわかるんだ。もともと軍事教練の一環だったから、行進訓練では嫌というほどしごかれたな。……ああ、この行進の精度、紛れもなくあいつの教育の賜物だ」
 ドイツは過去の苦労を思い出したのか、異様なまでに統制されたパレードの模様を視聴しながら、ちょっぴりげっそりした面持ちで言った。そのまなざしには、どこか懐かしさが含まれているようにも感じられたけれど。
「まあ、彼ですからねえ……確か、吐血するまでやめてもらえなかったんでしたっけ?」
「ああ。まさに鬼だった。あのときはさすがの俺も半泣きになったな」
「なんで行進だけで血を吐かせられるんですかね……。そう思うと、あなたは教官としては優しいほうなんですよね、彼に比べれば」
「反面教師というやつだ。あいつのようにだけはなるまいと思ったんだ。訓練で血反吐を吐くつらさは身をもって経験済みだ」
 ドイツは深刻そうに胃のあたりを手で押さえた。はあ、と一度大きく息を吐く。
「まあ、あのときはさすがのあいつもやりすぎたと思ったのか、あとで見舞いにやって来たが。詫びだと言って食い物を寄越してきたんだが……それがまたこともあろうにミリメシでな」
 また別の思い出がよみがえったらしい。ドイツは額に手を当てた。今度もまた、ろくな記憶ではないのだろう。
「ミリメシ……?」
「軍用の携帯食だ。新開発したから食えと強制してきた。手作りだと言ってな」
「お味のほうは?」
 オーストリアの問いに、ドイツはたっぷりと沈黙したあと、呼気とともに大仰な動作で肩を下げ、
「……入院期間が長引いた」
 わずかに蒼白になって答えた。
「まあ、そんなオチだと思ってましたが……期待を裏切らないひとですね、ほんとに」
 ふたり同時に、長いため息をついた。その間も、ブラウン管の中でパレードは続いている。
 彼らはおもむろに顔を見合わせると、再度テレビへと注目を向けた。
「それにしてもあの馬鹿……いいように使われるとは。感心せんな」
「私はノーコメントということで」
 ドイツがおもしろくなさそうにぼやく一方、オーストリアはすました顔で言う。
 しばらくそのままニュースを流していると、いつの頃からかドイツがテレビの前でもぞもぞと動き出した。何をしているのだろう、と一瞬訝しく思ったオーストリアだったが、すぐに彼の行動の理由を察し、苦笑した。
「ドイツ、そんなに見つめたって、彼は映らないと思いますよ。あと、角度を変えたり斜め上から覗き込んでも意味はありません。映像は所詮平面です。落ち着きなさい」
「俺は冷静だが」
「椅子に座ってられないひとが何を言いますか」
 若干瞳孔が開き気味のドイツに、オーストリアは再度苦い笑いを浮かべた。
 少し間を置いてから、静かな声で尋ねる。
「……やっぱり、思い出しますか」
「……ああ」
「懐かしいですか」
「記憶とは……思い出とは、そういうものだろう」
「そうですね」
 ドイツの答えに相槌を打つと、オーストリアはすっかり冷めてしまったコーヒーの残りを傾けた。

*****

 数十年後、あらゆる状況が変化しひとまず落ち着いた頃、このときの彼らのエピソードを聞いたプロイセンが「ひとが忙しく働いてる日にしんみり景気の悪い回想話してんじゃねぇぇぇ! 追悼式典かよ!!」とけたたましく吼えることになるのだが――
 それはまた、別のお話。




top