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遠距離恋愛


 畢竟、俺は自分の中から彼を消すのが嫌なのだろう。
 昏迷の続く彼とのつき合いは、いくつもの苦悩と葛藤を現在進行で続けながらも、十数年に及んでいる。いまは大分扱いや接し方にも慣れたので、以前ほど苦しくはなくなった。何も語らず、聞かず、見ない彼とともに休日を過ごせる程度には。
 睡眠を半永久的に持続するというある種の安定した状態にある彼は、それほど厳しい医学的管理を必要としなかった。現在は病院付属の療養施設に収容されている。月に一度か二度、俺は週末になると彼を迎えに行って自宅に連れてくる。そして、ここで休日を過ごしたあと、週明けに施設に帰す。
 自宅に連れてきて、何をするわけでもない。彼は眠る以外は何もできないのだ。ただ、それゆえいくらか体の世話が必要なので、俺の仕事は少し増える。しかし、たまの週末に面倒を見るくらいなので、たいした負担には感じなかった。
 意識のない彼は――当たり前だが――おとなしい。だから、いまの彼を家に招いても、一人暮らしと同じだけの静けさがあった。ただ寝かせておくだけでは、彼がそこにいるという気配さえ感じられない。そのためか、俺は以前に比べて彼と接触することを好むようになった。彼に触れて体温を感じることが、彼の存在を意識する術なのかもしれない。
 ………………………………。
 ふと鼓膜を打つ感覚に気づいてまぶたを持ち上げた。
 どうやら転寝をしていたようだ。彼を後ろから抱いたまま。
 俺を起こしたのは携帯電話の着信音だった。胸ポケットに入れてあったそれを引っ張り出し、ディスプレイを見る。
「……ハンガリーか。いけない、忘れていた」
 今日はハンガリーが見舞いにくることになっていた。電話は彼女からだった。あと三十分くらいでそちらに着くから、という事前連絡だった。すっかり約束を忘れていたので、彼女の気遣いは非常に助かった。
 電話を切ると、来客の対応をする準備をしなければと俺は彼の体ごと起き上がった。そして彼をソファに座らせると、背もたれに浅い角度で体重を預けさせ、腰の下の空いたスペースにクッションを置いてやった。これでずり落ちることはないだろう。
 茶請けの用意をするために台所へ行く前、俺は彼の耳元で言った。
「ハンガリーがおまえの顔を見に来るぞ。……少しは嬉しそうな顔をしたらどうだ」
 彼はやはり無反応だった。彼女でさえ、彼の際限なき沈黙を破ることはできないのだった。
 ほどなくハンガリーの来訪を告げるベルが鳴った。
 玄関に応対に出ると、クッキーの箱と一輪の花を携えたハンガリーがにこやかに立っていた。
「こんにちは。しばらくぶりね。元気にしてた?」
「ああ、息災だ。そちらは?」
「元気よ」
 挨拶を交わしながら彼女を家の中に招き入れる。リビングへ向かう途中、彼女が俺に尋ねてきた。
「あいつ、まだ目覚まさないの?」
「相変わらずだ」
「もう……眠り姫なんてガラじゃないでしょうに」
 彼にひどく不似合いな単語を引き合いに出した彼女に、思わず笑いそうになる。
「それは全面的に同意する」
 と言ったものの、俺はふと思いついて彼女に言ってみた。
「もののためしに口づけてやってはくれないか? 感激して起きるかもしれない」
「えー? 私が王子様? なんかやだなあ……」
 彼女は気乗りしなさそうに肩をすくめた。もちろん、俺とて本気でそんな大それた頼みをしたわけではないが。
「それよりドイツがしてあげなさいよ。びっくりして起きるかも」
 彼女の提案に一瞬きょとんとしたが、すぐに苦笑が漏れた。
「起きた瞬間頭突きで殺されそうだな」
「んー? 案外照れるだけで終わっちゃうかもよ?」
 などと他愛のない会話を交わしながら、彼の待つリビングへ案内した。
「ハンガリーが来たぞ」
 彼は居眠りでもしているような崩れた姿勢でソファに身をもたせかけている。事情を知らない人間がこの光景を見たのなら、まさしく居眠り中だと思うだろう。
「はい、プロイセン、元気みたいね」
 彼女は眠りっぱなしの彼に臆することなく、平生と変わらない調子で話しかける。この異常な状況下で普段どおり振る舞える彼女の度量には敬服するばかりだ。彼女は自分の近況報告を、まるでそこに話し相手がいるかのような自然な流れで話した。もっとも、仮に彼の意識が清明で、彼女と問題なく口が聞けるのであれば、彼女からこれほど友好的な態度は引き出せなかったかもしれないが。
 俺がキッチンで三人分のコーヒーを用意して(彼は経口摂取できないが、必ず彼の分も淹れるようにしている)リビングに戻ると、彼女が難しい顔をして彼の顔をにらんでいた。
「ねえ、少し髪、伸びたんじゃない?」
 彼女は彼の前髪を片手で押さえながら指摘した。俺は全然気にならなかったのだが、彼女にとっては注目すべき点だったようだ。女性の視点というやつだろうか。
「そうかもしれない。あまり髪型には気を払ってないから、わからないのだが」
「伸びてるよ。毛先が眉の下まで来てる。そろそろ切らなきゃ」
 彼女の提案で、彼の髪を切ることになった。美容師は彼女で、俺はアシスタントだった。
 ビニールをポンチョ代わりにして彼の首に通し、床には新聞紙。ダイニングの一人掛けの椅子に彼を座らせるが、背もたれが低いので支えのない頭がふらふらと動いてしまう。なので俺が彼の頚部を固定した。
 長い髪を後ろでひとつにまとめたハンガリーが、真剣なまなざしで散髪用の梳きばさみを彼の髪に入れていった。素人ながら、なかなか器用でセンスがよかった。
「よし、すっきりした」
 一仕事終えた彼女は満足そうに彼の顔を眺めた。正直俺にはあまり違いがわからなかったのだが、彼女がいいと思うのなら、きっといいのだろう。
 道具を片付けた彼女は、手や服に付着した彼の金髪をガムテープで取りながら、
「ドイツ、あなたも袖に髪の毛ついちゃってる。これ使って」
「ああ、すまない」
 俺にもテープを一片渡してきた。
 一歩横に移動してそれを受け取ろうとしたそのとき、ふいに腰のあたりに軽い引っ掛かりを覚えた。
 見下ろすと、彼の指が腰周りの服の皺に引っかかっているのが見えた。
「いつの間に……」
 首を支えるため密着している間に絡んだのだろう。
「そういえば、一応自分で動くんだっけ?」
「ああ。頻度は若干少ないが、自力で寝返りをしてくれるからずいぶん助かる」
 彼はまったく動かないわけではなく、姿勢がつらいときなどは自力で調整してしまうときがある。それこそ無意識のうちに。いま俺の服に彼の指が引っかかっていたのも、無理に首を固定されるのが苦しくて身じろいだのかもしれない。推測に過ぎないのだが。
 彼の手を外させ、服に付いた髪をテープで取っていると、彼女が彼の顔を覗き込みながらぽつりと言った。
「ほんと、ただ眠ってるだけみたいよね」
「俺もつくづくそう思う」
 事実彼は眠っているだけなのだ。医学的見地からは、睡眠中であるとしか言えないらしい。問題は、眠りの終わりがいつになっても訪れないことだ。
「ほら、ソファに戻るぞ」
 話し掛けてから、俺は彼の脇に腕を入れて抱き上げた。肩に彼の頭が乗るようなかたちにして。
「まったく……ドイツに甘えちゃって。……安心しきってるって顔ね」
 切ったばかりの彼の頭髪を撫でながら、ハンガリーが呆れ気味の、けれども優しい声音で言った。

*****

 夕方、彼女はまたねと挨拶をして帰って行った。
 台所で食器を洗ってからリビングへ戻り、彼の横に座る。西日に照らされた顔が少しだけ幼く見えた。髪を切ったためだろうか。
 俺はしばらく何も言わず、窓から差し込む夕日のオレンジが徐々に長く伸びるのをじっと見つめていた。
 ふいに肩に重さを感じた。重心が崩れたらしく、彼がこちらに寄りかかってきた。俺は彼の顔を横から見下ろした。彼はいつもどおり、軽く目を閉じている。
「なあ……おまえはいつ目を覚ます? このまま永遠に目覚めないつもりか?」
 彼の肩を押して背もたれに体を沈めさせると、彼に顔を近づけて質問めいた独白をした。もはや自分の心が彼の応答を期待していないことはわかっていた。十数年にわたる空虚なコミュニケーションは、相手からの反応を諦めるには十分な時間だったから。
 彼の頬に手をそえ、こつんと額を当てる。
「俺はときどき考えるんだ。おまえの心の居場所がなくなってしまったのは、俺のせいではないかと……」
 そっと目を閉じる。彼と同じように。
「もしも目覚めたら、おまえはどう思うんだろうな。おまえだった国がいまや完全になくなってしまったことを。プロイセンはすでになく、DDRももはや過去の名前だ。おまえだったものは、いまは俺の一部になっている。そのことを……おまえは知らない。何も知らないまま、眠り続けている。そうして存在の拠り所をなくしたがゆえに、おまえはもう戻って来られないのか?」
 彼はどこに行ってしまったのだろう。
 体は確かにここにある。けれども彼を彼たらしめるもうひとつの要素が欠けている。それは意識とか魂とか精神といった、物理的には確認できない存在だ。
 彼の心はどこにあるのか。もうこの世にはないのか。歴史の一部として封印され、凍結した時間の中に閉じ込められているのか。あるいは、彼の肉体の奥深くに囚われているのか。だとしたら、体はさしずめ魂の牢獄だ。そこには、比類なき真の孤独が潜んでいるに違いない。
 俺は、力の入らない彼の体を自分のほうへ引き寄せると、背に腕を回して抱き締めた。
「俺は結局おまえをこの手に取り戻したのだろうか。それとも、永久に喪失したのだろうか」
 触れ合うことで彼の存在を意識するが、同時にそれは、彼と俺との間には断絶にも似た無限の距離があることを思い知らせてきた。どこまでもどこまでも、彼は遠いのだ。
 すっと体を離し、再び彼の顔を見つめる。引き寄せられるように、薄く開いた彼の唇に軽く自分のそれを触れさせてみた。おとぎ話のような奇跡がたやすく起こるはずもなかったけれど。
 彼の寝顔は穏やかなままだった。何事にも動じない、真の無感動がそこにはあった。まるで凍った湖に波紋を立てようとしているようで、俺はひどく虚ろな気持ちになった。
「近くにいるのに、こんなに遠い……」
 分かたれ対立の道を余儀なくされた四十年余りの月日より、それらが終わりを告げ、こうして腕の中に彼を抱くいまのほうが、彼をずっと遠くに感じる。いまの彼は誰よりも何よりも独りだった。
 彼の顔を抱き寄せて、俺はもう一度、今度はきつく目を閉じた。肖像画に閉じ込められたかのような彼の寝顔は、ときどき俺をどうしようもなく遣る瀬無い気持ちにした。あまりにも静かで、平和で、そして凍りついたその顔が。
 彼がたゆたう孤独な眠りの海はそれほど心地よいものなのだろうか。
 彼はいまだ、目覚めない。




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