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真剣すぎるトレーニング


 ドイツの奇妙な依頼を受けてから十日ほど経った頃、フランスは愛する花の都を離れ、ひとり夜のボンに降り立った。悪くはないけど小さな街だねえ、などと思いながら公共交通機関を乗り継いで目的地の一軒家へと辿り着く。ドイツの現在の本宅だが、実際はベルリンにある別宅扱いの屋敷のほうがずっと大きい。いまの家は仮住まいだし、一人暮らしなのだから集合住宅の一室を借りるという手もあったらしいが、犬たちとの生活を考えた結果、一軒家を借りることにしたとドイツは語っていた。それを聞いたフランスは、なるほどドイツらしいと感じると同時に、部屋数が足りないと掃除のし甲斐がなくて物足りないんじゃないか、と穿ってしまった。まあそちらについては懸念するまでもなく、休日にちょくちょくベルリンの屋敷を訪れてはせっせと掃除に励んでいるらしいが。
 ベルリンへは一週間前に行ったらしいので(そのときはそちらの家の番号に電話を掛けた)、さすがに今日は自宅にいるだろう。そうあたりをつけてアポもなしにやって来たフランスは、インターホンを鳴らしてしばし待った。ほどなく足音が近づいてきたと思うと、誰だと確認される前に、「おまえか」という声とともに扉が開かれた。ドイツはフランスの突然の訪問に驚いた様子もなく、用件を問うこともなくあっさりとドアの内側に招き入れた。
「なんだよ、俺が来るのわかってたのかよ。どっかで見てたのか?」
 どこかに覗き穴でもあるのかと、玄関の周辺をじろじろと観察するフランス。ドイツは、そんなことはしていないというように緩くを片手を振った。
「気配でわかった」
「おお! 俺のフェロモンを感じ取れるようになるとはおまえも進歩したな〜」
「おまえの発言は相変わらず理解に苦しむ……」
 ドイツは眉間に皺を刻みつつも、中に入るようフランスを促した。
「ところで、何か用があったのか? わざわざ来るなんて、電話では話しにくいことでも?」
 今夜も電話でレッスンを受ける予定だったドイツは不思議そうに首を傾げた。
「ん? いや、別にどうってことはないけど、ちょっとした抜き打ちチェックってとこ」
「は?」
「おまえがちゃんと練習できてるかなー、って」
「ああ、そのことか。まったく問題ない。順調だ」
 よどむことなくはっきりと答えるドイツに、その自信はどこから来るんだ、とフランスは眉根を寄せた。問題ない、なんてことがないから、こうして自ら乗り込んでやったというのに。
 短い廊下を経てリビングにたどり着くと、そこはこの家の主におよそ不似合いな散らかり具合だった。といっても、たとえばそこらじゅうにスナックの空き袋が落ちているとか脱いだ衣類が散乱しているとか、そういった生活のだらしなさをうかがわせる乱雑さはなかった。床には目立ったごみは落ちておらず、足の踏み場はきっちりと確保されているが、問題はリビングの中央に置かれたテーブルだった。透明な素材でしつらえられたモダンなデザインのローテーブルのど真ん中には、電話が一台鎮座していた。そしてその周囲にはおびただしい量のメモやノート、そして物々しい雰囲気を放つ録音機器が所狭しと並んでいた。
「散らかっていてすまない。ここのところ勉強漬けだったから、片付ける暇がなかった」
 ドイツはローテーブルを挟むようにして配置されたソファの片方に寄ると、隅に追いやられたクッションを手にとって適当にはたいた。
「勉強って……まさか」
 フランスはテーブルの上のメモの一片を手に取った。走り書きされた文字をよくよく見ると、ドイツ語ではなくフランス語であることがわかった。メモの下辺には、訳だと思われるドイツ語の単語がいくつか並んでいた。
 紙面に踊るフランス語の文章は覚えがあるものだった。というのも――
「おま……俺が電話で教えたこと、逐一メモってたのか?」
「いや、電話中のディクテーションはさすがに無理だからしていない。後日録音テープを使って書き起こしているんだ。復習するとき、メモがないと不便だからな」
 ドイツの言葉を聞いたフランスは、あんぐりと口を開いてテーブルの上に散らばる紙を見やった。大学生のレポート半年分くらいの分量はありそうだ。先日トイレで話したときには消極的だった盗聴に関しても、自制心を軽々と飛び越えてしまっている(用いているのは盗聴器ではなく普通の録音機器なのだろうが)。なんという無駄な熱意と学習意欲。ドイツのあまりにも真摯すぎる態度に、フランスは呆れも感心も通り越し、軽い戦慄を覚えた。ドイツの頼みを軽い気持ちで引き受けたフランスは、まさか相手がここまで真剣だとは予想していなかった。自分がパリから電話を掛けているとき、この部屋がいったいどんな空気に包まれていたのか、想像すると空恐ろしい気持ちになる。
 もしかして俺、やばい件に関わっちゃった?
 背中に冷たい汗が流れるのを感じたフランスは、このまま回れ右をして家に帰りたい気持ちになった。今日ドイツ宅を訪れた理由は、彼の電話での学習がいまいちはかどっていない(というか、フランスが教えたとおりに学んでくれない)ので、膝を交えてじっくりと教鞭を振るってやろうかと考えてのことだったが、この部屋のありさまを見るに、事態はもはやフランスの予想をはるかに超えたところをひた走っているようだった。
 だらだらと静かに嫌な汗をかくフランスをよそに、ドイツは両の拳を握り締めると、自身の学習の軌跡を満足げに眺めた。
「おまえとの事前練習で要領はばっちり得た。これでいつ兄貴からいたずら電話が掛かってきても大丈夫だ。感謝するぞフランス」
 こいつはいったい俺から何を学んだ気でいるんだ――フランスは頭を抱えたい気分だった。
「全然ばっちりじゃないと思うんだが……。下手にもほどがあっただろ。ってか、そもそもなんで軍隊ノリじゃねえと学習できねえんだよ。プロイセンの教育の後遺症か? ここまで来ると呪いだよな……」
 実際のところ、ドイツの学習状況は悲惨なものだった。フランスが指示を下せば、新兵のような大声で返事をし、命令を実行したあとの自分の状況を、まるで上官に戦況を報告する兵士のようなはきはきとした口調で告げてくる始末である。実戦さながらの緊迫感をもって行われるそれに、フランスは苦い記憶を突付かれると同時に、ドイツの中に確実に流れるプロイセンと同じ血を感じずにはいられなかった。
 フランスのげっそりとした表情を見たドイツは、
「おまえの目から見て、いまの俺はまだ習熟不足ということか?」
 やはり真剣そのものといったまなざしで尋ねてきた。フランスは乾ききった平坦な声で答えた。
「不足以前の問題だと思うぞ」
「そう言われると不安になってくる……」
「俺はもっと不安だっつーの」
 呆れの境地に達したフランスは、ため息をついて首をゆるゆると左右に振った。
「やっぱりおまえには荷が重いかったか。諦めろ、おまえにこういうのは向かん。おとなしく相手を無視する方向に戦略を変えろ」
「しかし……」
 努力が無駄になるのが嫌なのか、プロイセンを無視することを無意識に避けたがっているのか、ドイツはフランスのアドバイスを素直に受け入れなかった。フランスはやれやれと指先で顎を掻きつつ、
「ま、究極の裏技として、俺が後ろで待機して随時状況に応じておまえに指示を出してやってもいいけどな。おまえ、命令遂行能力は無駄に高いから、有能な指揮官さえいればプロイセンの野郎に一泡吹かせるのもたやすいだろ」
 もうどうにもでもなれと、フランスが投げやりな調子でろくでもない代替案を提示すると、ドイツはぱっと顔を上げた。
「頼めるのか?」
 青い双眸が小さな希望の光で照らされているのを見たフランスは、
「え、おい、ちょ、おまえ……乗り気なのか!?」
 慌てた調子で声を荒げた。まさか乗ってくるとは思わなかった。
 うろたえるフランスとは対照的に、ドイツは士気を高揚させた顔で力強く言った。
「ここ二ヶ月の電話の頻度と内容を分析したところ、今夜あたり兄貴からテレフォンセックスの誘いが来る可能性が高い。いいタイミングだ、よく来てくれた、フランス。この件に関しては、おまえが後方支援とは心強い限りだ」
 ドイツの手がフランスの両肩をぐっと握る。どうしよう逃げられない。フランスは胸中で悲鳴を上げた。
「い、いや〜……もっと空気読んで訪ねるべきだったと、いま心底反省してますよ?」
 後悔の嵐に襲われるフランスは、それとなく帰りたいという意思をほのめかす。が、ドイツはお構いなしに自分の話を続ける。ひとつのことに集中すると、ほかのことに気が回らなくなるようだ。
「それから、ひとつ頼みがあるのだが」
「な、なんだよ」
 思わず尋ねてしまってから、さらに深入りしてどうするんだと、フランスは心中で頭を抱えた。ドイツは少しためらってから口を開いた。
「こんなことをしたら負けを認めるのも同然だと思うのだが……俺がどうにも兄貴に負けそうになったときには、交代してほしい」
「はあ!? おまっ……何言ってんだ!?」
 フランスは驚きのあまり素っ頓狂な声を上げた。が、ドイツは大真面目に語ってくる。
「ここまで恥を重ねてきた挙句負けるのは悔しい。どうしても兄貴に一発食らわせてやりたいんだ。おまえなら兄貴など粉砕できるだろう? 味方を有効に配備し活用するのもまた戦術のうちだと俺は学んだ」
 期待に満ち溢れたまなざしを向けてくるドイツに、フランスの喉からひぇ〜と引き攣った悲鳴が上がる。
「や、そりゃまあ……テクで負けない自信はあるけどさ。でもよ、こういうのって本来勝ち負け競うもんじゃないんだぜ? ってか、途中で電話の相手がおまえから俺に代わったら、その瞬間、プロイセンのやつ別の意味で粉々に砕け散ると思うぞ? 一発お見舞いするどころか、一撃必殺になるぜ?」
 そしてその場合、プロイセンの怒りの矛先が向けられるのはフランスだろう。殺気立って迫ってくるプロイセンの姿を思い浮かべ、フランスは背筋を震わせた。一方でドイツは、
「声だけで圧倒できるのか? すごいな……」
 何を感心したのか、きらきらと目を輝かせていた。
「俺もう、何を言ったらいいのかわかんない……もうやだこの子、行き着くとこまで暴走しなきゃ止まりそうにないんだもん……」
 もはや何を言ってもいまのドイツには通じそうにない。フランスはがっくりと肩を落とすと、なるようになれとやけくそ気味に思った。
 ドイツはソファの中央に座ると、並々ならぬ威圧感をもって電話をにらみつけた。
「待ってろ兄貴……度重なる安眠妨害の報い、いまこそ受けるがいい! はは、ははははは……!」
 妙にテンションの高い笑い声を放つドイツに、フランスは既視感を覚えた。
「あー……なんかいますっげえ血を感じたわ。やっぱおまえ、あいつと血ぃつながってんだな……」
 疲れきった声でそうぼやくと、フランスは恐る恐るテーブルの上の電話を見下ろした。この電話が鳴り響くとき、混沌の夜が幕を開ける。そんな予感が胸に押し寄せてならなかった。


これ以上続けるとやばいことになりそうなので、この話はこれで終わりです。すみません。

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