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年のせいか目が覚めるのが早くていけない。休日だというのに家族もあきれるような時刻に起き出し、暇を持て余すがままに家の掃除に没頭していたのはいい のだが、昼下がりになって眠気に襲われた。この家屋は住人の性格を反映して基本的に整理整頓が行き届いているため、掃除といってもあまり片付け作業はな く、しつこい床の染みをこすり落とすとかタイルの隙間を磨くという単調作業になってしまうことも睡魔に見舞われやすい原因のひとつだろう。 昼飯を食っていよいよ眠くなってきた俺は、弟の忠告を素直に聞き、自室に戻ってベッドの上でうとうとしていた。 別に頼まれたわけでもないが、今日はうんと早起きして家事(主に掃除だが)に勤しんだのだから、一日分の労働はすでに済ませただろうと考え、俺は残りの 時間をごろごろと自堕落に過ごすことに決めた。現役の繁忙から解放された――あるいは諸々の多忙を失った――ためか、ここ何十年かは以前よりもよく昔のこ とを思い出すようになった。年寄りくさいことこの上ないが、現実として若くはないということは認めざるを得ない。今日思い出したのは、自分がずっと若いこ ろのなんとも形容しがたい味の記憶だった。ハンガリーにまつわる一件は、俺に世の中には知らないほうが幸せなことがあるといういいならわしが真実であるこ と、他人の秘密なんて共有するものではないという教訓を否応なく学ばせた出来事だった。 ついでに、起きてしまったことはもう元には戻せないということも。 平時の私的な経験の中では間違いなく「俺様思い出したくない記憶」ランキングのトップ5に入るであろう思い出を、なぜ脈絡もなく呼び覚ましてしまったの か。 根拠もなく嫌な予感がしたが、俺はそれを無視して不貞寝を決め込むことにした。頼むから、夢の中でまで再現されないでくれよ。 しかし、眠り込んでろくでもない記憶をシャットアウトしてやろうという俺の目論見は、儚く破れた。 まどろみかけていた俺の耳に、ふいにノック音が響く。 「ヴェスト? なんだよ、人に休んでろっつっといて……」 眠気に負けた不明瞭な発音でもごもごと答えると、扉の向こうから予想よりもずっと高い声がした。 「プロイセン? いるわよね?」 明らかに女の声。あのムキムキが出す音声のはずがない。 嫌な予感が胸に訪れるよりも先に、部屋のドアが開かれた。 「こんにちは。一応ノックはしたから、開けてよかったわよね」 無視したいと思いつつ、そうしきれずに目を開けてしまう。回想の中よりも成長し、より一層女性的な外見になったあいつの姿が映った。現代的な機能性とデ ザイン性を考慮したロングスカートが、扉の内側で柔らかくひらめいた。 「うげ、ハンガリー」 「うげ、とは何よ、うげ、とは。何よ、せっかく訪ねて来てあげたのに」 「おまえなんかうげで十分だ」 と言いつつ、体を起こしつつハンガリーのほうに視線をやる。あれ、これって歓迎モード? いやいや、冗談じゃねえよ。招かざる客だっての。 手の甲を相手に向け、しっしっと追い払う仕草をするが、あいつは気にも留めず、足音もなく軽やかに部屋に踏み入った。 「じゃ、改めてお邪魔しまーす」 体重を感じさせない足取りと、スカートが描く曲線が手伝って、やつの身のこなしはひどくたおやかに感じられた。それが詐欺だということはわかりきってい るわけだが。 俺はわざとらしくそっぽを向くと、露骨な舌打ちをした。 「ちっ、ヴェストの野郎、こんなやつホイホイ家に上げるんじゃねえよ」 「そのドイツが、あんたのこと好きに構ってくれていいって許可出したの。いくら退職状態とはいえ、あんまぐーたらしてるとボケちゃうからね」 「現役引退したから立場わきまえてるだけだっつーの。その気になればバリバリ働けるぜ俺は。なんせ超デキる男だからよ」 「そうねえ。ま、現役の頃がそうだったってのは認めるわよ。癪だけど」 過去形じゃないいまもだ、と言い返そうとしたが、唐突に距離を詰められ俺は思わず言葉を呑んだ。 それなりに年季の入ったベッドのスプリングを少しも軋ませることなく、ハンガリーが俺の真横に座っていた。 十センチほどの距離を置いて俺の隣に腰かけたハンガリーからは、甘い香水がほのかに香ってきた。 この香りを俺は知っている。いつだったか、自分で調合したと言っていた―― まだ睡魔が残っているのか、俺はぼんやりとそんなことを考えた。そしてその瞬間、そんな思考が立ち上った自分の頭のいかれっぷりに失望した。 「あー……ヴェストは? 会ったんだろ?」 逸らした視線をそのまま壁へ、そして窓辺へと移動させる。ハンガリーの突然の訪問に気を取られていたが、そういえばいつの頃から屋外から騒音が響いてい る。庭から音がするということは敷地内にヴェストがいることを意味するが、同時にこのけたたましさは何事かと首をひねる。 「ガーデニング中」 「チェーンソーの音立てながら?」 「本人はガーデニングだって言ってたけど、庭に並んでたのは大工道具ばっかだったわ。柵でも作りたいんじゃない? あれは大仕事になるわね。夕方までかか りそうな雰囲気だったわ」 ぺらぺらと解説すると最後に、まあ彼らしい話じゃない、と付け加えて肩をすくめるハンガリー。俺はやぶにらみのように目を細めて低く息を漏らした。 「ふぅん……」 「何よ?」 意味ありげな俺の相槌が気に障ったのか、ハンガリーがむっと眉をひそめた。俺はひと思いに言ってやった。 「おまえよぉ、そのしゃべり方やめろ。カマ臭くてかなわねえんだよ」 ハンガリーのお手本のような女言葉は、現実的ではなく不自然だ。というのも、実際の女の言葉遣いというのは――文法的な要素は別として――文字上の女言 葉とはそれほど似ていないからだ。 もっとも、俺がやつの話し方にいちゃもんをつけたのは、そのような不自然さが原因ではない。もっと単純明快に、野郎には似合わない、というだけのこと だった。 「気持ち悪いっての」 自分の膝に肘を立てて頬杖をつきぼやく俺の顔は、自分が思うよりも不機嫌だったかもしれない。ハンガリーは一瞬きょとんとしたあと、 「そうだな、俺も気持ち悪い」 ふっとため息のような笑みを漏らした。 その瞬間、おそらくほかの誰も知らないハンガリーの姿が俺の前に現れた。服装も髪型も顔立ちと数秒前と何も変わりはしない。しかし顔つきが違う。ほかの やつがどう感じるかは不明だが、俺にはわかる。こいつが女の仮面をはぎ取ったことが。 ハンガリーの右手の人差し指が、俺の顎のラインを下から上へ撫でた。滑らかさに欠けるのは、休日を理由に今朝髭を剃るのを怠ったからだ。指の腹にわずか に引っかかるであろう感触に、ハンガリーがにやりと口角をつり上げる。 「でもおまえ、俺がスカート穿いてるほうが興奮するんだよな。別にいまさらなんとも思わないが、冷静に考えるとおまえのほうが気持ち悪いんじゃないか?」 空いている方の手でハンガリーは自分のスカートの裾を摘まみ上げ、ひらひらと軽く揺らめかせた。黒いハイソックスと、その先にある膝の白さが対照的だっ た。 いま唾を飲んだら確実の喉が大きく鳴る自信がある。 「そりゃーおまえ、そこは男の性でありロマンだっての。おまえも男なら理解しろや」 「んー、男だけどそのへんの理解は無理。だって俺、ゲイだもん」 いい笑顔で答えたハンガリーは、おもむろにベッドに乗り上げ膝立ちになると、そのまま前方へ、つまり俺のほうへ体重を掛けてきた。俺は重力に逆らわな かった。結果として、やつに押し倒されるかたちになる。 胴に乗り上げてくるハンガリーに一瞥をくれながら、俺はため息まじりにぼやく。 「おまえはいいよな、自分のセクシャルアイデンティティが確立してて。こっちはおまえのせいでいろいろ狂わされたっつーの」 この状況が異常であることは判断できるが、異常だと知った上で受け入れているのは、確実に頭のネジがとんでいると思う。 「冷静に考えれば、俺のこの衣装もなかなか狂ってるけど。常に女装だもんなあ。慣れ過ぎて何にも感じなくなってるけど」 脱げとばかりにTシャツの裾を引っ張ってまくり上げてくるハンガリーに、俺は素直に腕を頭のほうへ持ち上げた。腕からシャツが引き抜かれると、俺はお返 しにやつの頭をくるむスカーフを引いた。長い栗色の髪の毛が裸の胸をくすぐる感触が心地よい。わざわざ口には出さないが。 「確かにおまえ、なんだかんだで平気で女の格好してるよな。女装だ女装だとからかっちゃいたが、ここまで板に付くともはやからかう気も起きねえ。逆に尊敬 だ」 「普段女装姿で周囲の人間の目を欺いて生活しているみたいで、これはこれでスリリングなんだ」 「欺く、ねえ……」 こいつちゃんと鍵は掛けただろうな、といまさらながら気になってちらりとドアを見やりながら考える(鍵はちゃんと掛けてあった)。 見た目は完全に女なんだから、騙していることにはならないんじゃないか。周囲の人間にしたって、こいつが頭の中が女装男子なゲイなんて、思いもよらない だろうし。だからといって事情を知っている俺の目に奇異に映るかと言うと、別にそんなことはない。これに関してはこいつの身体的な性別がどうのこうのとい う以前に、完全な慣れに相違ない。 自分の服を脱ぐのも相手の服を引っぺがすのもたいして差がないのではないだろうか、と思えるような爛れきった手つきで、衣類が体から落ち、ベッドや床に 放られていく。 こいつが接近してきたときには微塵も鳴らなかったスプリングが、いまはやけに耳に付く。窓の底から聞こえてくるチェーンソーの音にほっとする。 「あー……出るとこ出てない自分の体が本当に口惜しくてならない……」 実際に悔しいのだろう、ハンガリーの面に自嘲めいた影がよぎる。 俺は目の前、というか顔の上で、ハンガリーの胸がゆらゆらと不規則に波打つ。出るとこは……出てるだろ。上か下かが異なるだけで大違いだが。 「はぁっ……んっ……贅沢言うもんじゃないぜ。十分だろ」 「えー? おまえこんなんで満足できんの? 安上がりだなあ」 ハンガリーが白くて細い指を俺の口に突っ込んだ。乱暴ではないが、爪の先が少し粘膜をかすったので顔をしかめた。 「うぇっ……ぅ、や、安いとか言うな。おまえに合わせてやってんだろーが」 「解釈のしようによっちゃエロいよな、いまの発言」 「はあ?」 「わかんないならいい。おまえ馬鹿だもんな」 他人の唾液で濡れた手を見下ろしながら、ハンガリーがくすりと笑った。俺は口の中にたまった唾を飲み込むのが不快で、洗濯の手間を承知でぺっと枕に吐い た。 「俺の頭脳を知らないおまえじゃないだろ」 「知ってるよ。著しく方面によりけりってことも」 「ぅあっ……! ちょ、ちょっ……急に……すんの、よせって……」 「了解。じゃあ今日はゆーっくり、たっぷり時間を掛けてやるよ」 「いやいやいや、そういうのを所望してるわけじゃなくてですね……って聞けよ!……うぁ!?」 「聞いてるから、もっと聞かせろよ。その声」 「う~……」 色気もへったくれもなく、普段とあまり変わらない調子の会話を変わらないペースで投げ合う。体も頭も熱いのに、どういうわけかこの温度は変わらない。 もしかしなくてもあれだ、俺らって馬鹿だろ。 なんで俺、こんなわけのわからない生き物に興奮できるんだろう。いっそ枯れていてくれたならよかったのに。 チェーンソーの音が止んだかわりに、いつからか金槌で釘を打つ音が断続的に響くようになっていた。ヴェストがガーデニングだか日曜大工だかを続けている ことに安堵する。階下まで届くような音を立てたつもりはないが、軍人的な意味で耳のいいあいつは一応警戒対象だ。堅物で晩生なくせに――だからこそ?―― 変な想像力があるから、刺激して疑惑を持たれるのは面倒くさい。いや、疑惑なら別にいいんだけどな。事実だから悪いんだ。 脱ぎ散らかした服をめいめいに身につけながら、またやってしまった、というもはや後悔にもならない自分への呆れの念にため息をつく。 「はあ……俺ら、何百年こんなことしてるんだろうな」 「意外と飽きないもんだよなあ」 「なんて言うんだろうな、俺らみたいな関係」 ハンガリーの恐るべき秘密の告白を聞いて、なんだかよくわからないうちにはじまった、こいつと俺を結ぶ関係。極秘にしているわけでもないが、わざわざ触 れ回るようなことでもないので、誰かに言ったことはない。こいつの頭の中の秘密も含めて。 何世紀も続くこの馬鹿馬鹿しい関係に名前を付けるとしたら―― 「セフレだろ」 ハンガリーがこともなげに答える。 「……だよな」 多分それが正解だ。 まったくもって爛れている。
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