text


預け物、預かり物


 もう一晩を彼の自宅で過ごしたあと、ドイツは帰り支度をはじめた。名残惜しさがないわけではないが、去ることに不安感はなかった。またそのうち会えるし、連絡も取れる――少し前まではその自信をもてなかったが、いまはもう心配いらないと思えた。元通りにならなくても、離れたままでも、別のかたちでつき合っていくことはできるのだから。
 ベッドの上でごろごろとだらしなく寝転がっているプロイセンは、マットレスの端に座り荷詰めをしているドイツを見やった。ドイツはきっちりと畳んだ衣類を規則正しく無駄なくバッグに詰めている。
「おまえは明日からまた仕事だな。俺はここんとこ仕事なさすぎて泣きそうだけど」
 仰向けになり、嘆かわしそうに大仰なため息をついて見せるプロイセン。ドイツは苦笑とともに振り返った。
「早く状況が改善するといいな」
「ほんとにな。おまえも助けろよ? 期待してるんだぜ?」
 半回転して今度はうつ伏せになると、プロイセンは肘を立てて頬杖をつき、曲げた脚をぶらぶらと宙で動かした。
「そうしたいと思っている。ほかのメンバーや上司と話し合ってからになるが」
 ドイツが答えると、プロイセンはおもむろに起き上がり、這って相手のほうへ近づいていった。
「んじゃ、そのためにもそろそろおまえを帰さなきゃな」
 と、プロイセンはまだバッグに収納されていない細々とした旅行用アイテムに視線を落とした。
「どうした?」
「手伝ってやろうと思ってよ、荷詰め」
 プロイセンは断りなく黒のビニールポーチを手に取った。感触からして歯ブラシが入っているようだ。
 どこに詰めればいい? と無言で尋ねてくるプロイセンに、ドイツは困ったように片手を上げると、ポーチを返すよう求めた。
「いや、自分でできるから大丈夫だ」
「遠慮するなよ」
「遠慮はしていない。これは俺の荷物だから、俺が自分でやったほうが効率がいいんだ。ひとにやらせると変な詰め方されそうだし」
 プロイセンにやらせると帰国後荷物を出すときにいろいろと後悔する羽目になりかねない。声には出さないものの、ドイツは胸中でそんなことを思った。
「かーっ! 相変わらず几帳面だなおまえは。まあおまえらしいけどよぉ」
 プロイセンは片手でがしがしと自分の側頭部を掻いた。が、しつこく食い下がることはせず、差し出されたドイツの手に素直にポーチを返した。
 丁寧に荷物を詰めるドイツの手元を見ながら、プロイセンは彼の肩をぽんと叩いた。
「またそっち行くから、うまいビール用意して待ってろよ」
「ああ。ぜひとも」
 ドイツは、わかりやすく笑いはしなかったが、わずかに表情を緩ませてうなずいた。また行く、とプロイセンのほうから言ってきたことが嬉しいのだろう。プロイセンは髪のセットを乱さない程度の力でドイツの頭を撫でてやった。ドイツは荷造りの手を止めると、軽く目を閉じて彼の手の感触を味わった。その姿に、プロイセンはふいに子供の頃の彼を思い出す。褒めて頭を撫でてやると、少年の彼は静かに嬉しそうな顔をしてじっとおとなしくしていたものだった。懐かしい気持ちでドイツを見つめていたプロイセンは、ふいに彼の首元で光るものに気づいた。何のことはない、彼がいつも身につけているペンダントのチェーンだが、プロイセンはその反射光に記憶を刺激され、手を止めた。
「……そうだ」
 プロイセンは独り言のようにそう言うと、前触れもなく立ち上がり、壁際のクローゼットへと近づいていった。扉を開いてクローゼットの中に上半身を突っ込むと、なにやらごそごそと探しはじめる。ドイツは彼の後ろ姿を不思議そうに見つめた。
「あったあった」
 言いながら、プロイセンはクローゼットから抜け出ると、今度はデスクのほうへ移動した。引き出しに近づけた左手には、簡易なデザインの少しさびた鍵が握られていた。どうやらクローゼットのどこかに隠してあったようだ。
 さびのためにやや軋んだ音を立てながら、引き出しは開錠された。プロイセンはそれをそっと開くと、奥のほうに手を差し込んで中をまさぐった。ほどなく、彼は目的のものを見つけたらしく、満足そうににやりと笑った。そして、くるりとドイツのほうを振り返ると、
「これ」
 自分の指先に引っかかるものを見せた。それを目にしたドイツは、数秒ぽかんとする。その間に、プロイセンは再びベッドへと戻っていった。
 ドイツの正面に立つと、プロイセンは改めてドイツの目の前に、引き出しから取り出したものを垂らして見せた。彼の指に絡むのは、まだ新しそうな銀色の鎖。そしてその先には、鎖の質感とは対照的な古ぼけた印象を与える黒いペンダントヘッド。年季のうかがえる傷がいくつも刻まれたそれに、ドイツは恐る恐る手を伸ばした。
「鉄十字……これ、おまえのじゃないか?」
 壊れ物を扱うような慎重な手つきでそっと触れるドイツ。
「ああ。チェーンはさすがに駄目になっちまったから、取り替えてあるけどな」
 プロイセンはチェーンをぴんと張ると、新しく丈夫であることを示した。ドイツはまだ信じられないといった面持ちで、しげしげと十字を観察した。傷や磨耗の具合から見て、少なからぬ時間がこの物体に流れていることがうかがえた。
「よく持っていられたな。所持は危険だったろうに」
 心配そうに呟くドイツに、プロイセンは曖昧に答えた。
「んー……まあ、俺の手腕ってとこ」
 これが現在自身の手の中にある経緯については、あまり語りたいものではなかった。罪悪感というより、単純にそのときの状況の気まずさや恥ずかしさが思い出されてならない。
 プロイセンは小さく頭を振って記憶を振り払い、気を取り直した。唐突で不自然な動作だったが、熱心にペンダントヘッドを見つめるドイツに気づかれることはなかった。
 と、プロイセンはチェーンの留め具を外すと、左右の手の指先でそれを摘んだまま、ドイツの首へと近づけた。そして首の後ろで再び留め具を掛けた。数秒して、彼の行動を理解したドイツは、自分の首からぶら下がるもうひとつのペンダントに指先を触れさせた。
「なぜ俺に掛ける?」
「預かってろ」
「預かる?」
 尋ね返すドイツに、プロイセンは大きくうなずいた。彼はドイツに掛けた自分のペンダントを指の腹で撫でながら言った。
「ああ。いろいろと思い出深い品だが、持っててもいまの立場じゃ堂々と首に下げるわけにゃいかんし。でも、だからといってどっかに仕舞いっぱなしじゃこいつがかわいそうだ。それに、おまえのがしっかり管理してくれそうだしな。だからおまえが預かってろ。シャツの下なら、ダブルで掛けてたって目立たねえだろ」
「いいのか」
 彼が自らの十字を手放そうとしていることに不安を煽られるのか、ドイツはいくらか落ち着かない声音で聞いてきた。すると、プロイセンは人差し指をぴしりとペンダントヘッドに突きつけて、念押しのような調子で告げた。
「なくすなよ? いいか、譲渡ってわけじゃないからな。おまえには、あくまで預けただけだ。所有権は俺にあるんだからな? 返せっつったらいつでも返せるようにしとくんだぞ。そいつは俺のもんだ。俺のなんだから、大事にするんだぞ? 油断してると抜き打ちでチェックしてやるからな」
 プロイセンのしっかりとした声と言葉に安心したのか、ドイツは表情を明るくすると、こくりとうなずいた。
「わかった。そういうことなら、責任をもって預かろう」
「おう。頼んだぜ」
 プロイセンは腰に両手を当て、彼らしい横柄な口調でそう言うと、自分のペンダントをつけたドイツを満足そうに見下ろした。おまえが預かってくれれば安心だ、と笑いながら。




top