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彼我のあいだ


 飲みさしのコーヒーはすっかり冷めてしまっていた。フランスは味も香りも落ちたそれをひと思いにぐっと喉に流し込むと、マグカップをソーサーに置いた。向かいのソファでは、少しばかり機嫌を損ねたプロイセンが、ぶーたれるという表現がぴったりな顔つきで唇を尖らせながらドイツに突っかかっている。そして彼の肩を軽く押さえ、毛を逆立てた小動物を相手にするようにどうどうと宥めるドイツ。フランスはコーヒーに入れる砂糖の量を盛大に間違えたような気分になった。
「さて、邪魔者はそろそろ退散しますかね」
 優雅な動作で立ち上がると、フランスは服の皺を簡単に伸ばした。彼のことなどそっちのけでふたりの世界にいたドイツとプロイセンが、いまさらその存在を思い出したように振り向いてきた。フランスはふたりに苦笑を向けると、
「これ以上はほんとにお邪魔虫みてぇだからな」
 腕を軽く曲げて手を肩の高さまで持ち上げ、緩く首を左右に振った。プロイセンはまだドイツの胸倉を片手で掴んだまま、せいせいするといった表情でフランスを見た。
「おう、とっとと帰れ」
「お、素直だねえ。目障りなやつはさっさと追っ払って、早くふたりっきりになりたいってか」
 にやりとした笑みを浮かべるフランス。
「何言って――」
 プロイセンが眉根を寄せて口を開きかけたが、ドイツの声がそれに被さった。
「そういえば、いったい何の用だったんだ? 用もないのにうちまで来ないだろう?」
 ドイツは、プロイセンが突っかかっていかないよう二の腕を掴みながら尋ねた。その様子がなんだか言うことを聞かない子供に手を焼く親のようで、どっちが年上なんだか、といまさらではあるがフランスは呆れ気味に笑った。
「プロイセンからかいに来ただけさ。こいつ、いじり甲斐あるからさ」
「なんだと!」
 プロイセンはフランスの答えに見事なくらいぱっくんと食いついた。フランスは少し首を傾けると、
「ほら、な」
 気障ったらしいウインクをふたりに送った。
「てめえ、気持ち悪い仕種でごまかすんじゃねえよ!」
「そういうことするからフランスにからかわれるんだ。いい加減学習してくれ」
 息巻くプロイセンにドイツが冷静な注意を加える光景を横目に見ながら、フランスはソファとローテーブルの間を抜け、ドアへと歩いて行った。
「元気になったみてえじゃん、ふたりとも」
 扉に手を掛け、肩越しに彼らを見やる。
「そんじゃ、次の会議もよろしく頼むぜ、ドイツ〜」
 ひらひらと手の甲を振り、フランスは玄関に向かった。
 と思ったのだが。
 姿が見えなくなって三秒後、上半身を後方に倒したような体勢でひょっこりドアの隙間から顔を出してきた。
「あ、そうだ、プロイセン」
 さっきのいまでまたしてもフランスの顔とご対面となったプロイセンは、つっけんどんな態度で言った。
「あんだよ。とっとと帰れ」
 しっしっ、と追い払うジェスチャーもつける。
「ん、その前にちょっと」
 フランスは彼とは逆に、人差し指を自分のほうへ向けてちょいちょいと折り曲げ、来いと示す。プロイセンが不審そうに眉をゆがめた。
「あぁ?」
「久しぶりに会ったことだし、お兄さんからちょいとアドバイス。ドイツー、五分くらいそいつ貸してくれや。別に取って食やしねえからさ、妬くなよー?」
「構わないが」
 愉快そうなフランスの呼び掛けに対し、ドイツはあっさり首を縦に振った。そしてプロイセンの肩を軽く叩いて注意を引くと、
「話があるそうだ。行ってやったらどうだ」
 フランスの用に応じるよう促した。どこまでも実直な口調で。
「おまえってそういうとこかわいくねえんだよな……」
 フランスとプロイセンはめいめいに、しかし同時に呟いた。
 プロイセンはしぶしぶながら立ち上がると、ドアへと歩いて行った。敷居の手前で立ち止まるが、フランスがこっちへ来いと腕を引っ張ってきた。プロイセンはうっとうしげにその手を払いつつ、要求には応じて廊下に出た。
「何の用だ。あいつに聞かれたらまずいようなことなのか」
「俺は構わないけど……おまえが困るかなあって。俺の気遣い、感謝しろよ」
「なんだよ」
 胡散臭そうに半眼になるプロイセン。フランスはわずかにボリュームを下げた。
「おまえさ、着替えるとき、気をつけろよ」
「はあ? 何をだよ」
「首んとこ、赤い跡ついてるぜ。ま、よっぽど見えないだろうけどさ」
 指摘しつつ、フランスは自身の首筋の右側を人差し指でとんとんと叩いて見せた。プロイセンは鏡対象に、すなわち自分の頚部の左側を大慌てで手の平で押さえた。
「うへぇ!? い、いや、そんなはずは……」
 見えるはずもないのに確認しようとしているらしく、あたふたと左を向く彼を、フランスはにやつきながら観察した。
「へぇ〜〜〜……やっぱ身に覚えがあるんだぁ?」
 実にいやらしい笑顔だ。プロイセンはしまったと目を見開いたあと、ぐっと奥歯を噛み締めた。
「て、てめえ……! 謀ったな!」
「そりゃまあ、おまえをからかいに来たんだしぃ?」
 フランスは癇に障る笑いを立てながら口元を手の平でちょっと隠した。
「……けど、どうだろね? 潔白の自信があるならドイツに確認してもらったらどうだ? 首筋違えたとかなんとか言ってさ」
 フランスの提案に、プロイセンはまたしても焦り出した。あまり自信がないようだ。
「うっ……あ、い、いや、大丈夫なはずだ。やつはそーいうくだらねえことはしないはず……」
 自分に言い聞かせるようにぼそぼそと独り言を呟くプロイセンを、フランスがさらに追い込む。
「なあ、ますます墓穴掘ってるぞ。気づいてるか?」
「う、うわぁぁぁぁ……」
 プロイセンは情けない声を上げながらへなへなとその場にしゃがみ込み、頭を抱えた。自ら掘った穴に埋まり、手ずから土を被りたい気分だった。
 フランスはそんな彼を軽蔑するでもなく、静かに見下ろすと、
「なかなか深い関係みたいだな」
 はあ、と長く息を吐いた。プロイセンに問いたださずとも、会議でのあの様子を見ていれば彼らの普通とは言えないであろう仲は十二分に推察できたので、驚いたりはしなかったが。
 自身のヘマにすっかり落ち込んでいるプロイセンの前で片膝をつくと、フランスは励ますように上腕をパンパンと叩いた。
「だーから。いまさらなんだから焦ってもしょうがないって」
「うー……」
 意味不明のうめきを立てながら、プロイセンは首をひねって後ろを向いた。どうやら、ドイツに聞こえていないか心配らしい。それこそいまさら遅いというのに。
 そう思いつつ、とりあえずフランスは大丈夫だからとプロイセンを正面に向かせた。そして彼なりのフォローを入れる。
「まあ、いかに朴訥で勘の悪いドイツと言えども、さすがにおまえんとこの事情を察しないではないだろうし、お互い大人なんだ、そのへんまで干渉してこねえとは思うけど……気は遣ってやれよ? 身内のそっち方面って、あんま想像したいもんじゃねえだろうからな。おまえだってあいつが誰かとやってるとこ想像すんのキツイだろ」
 フランスに言われるがままに、プロイセンはうっかり想像してしまった。身内の《そういう》ところを。
「う、うわぁっ……お、俺の馬鹿っ……!」
 しかもなぜか相手は目の前の男だった。よりにもよってフランスなんて!
 プロイセンは自分の想像力にショックを受け、ごんごんと額を廊下の壁に打ち付けた。余程ショッキングな映像が脳内に流れたようだとフランスは察した。まさか自分がその登場人物のひとりだとは思わなかったけれど。
 彼はプロイセンの耳を引っ張って、罪のない壁に被害を与える自傷行為をやめさせた。そして、苦笑しながらもうひとつアドバイス。
「でも、気の遣いすぎもよくねえぞ。不信を招く元だ。おまえは嫌かもしれねえけどさ、ある程度事情は伝えておいたほうがいいぜ? こっちじゃ情報公開制度が進んでることだし、あいつだっていい年なんだから、そうそうびびらないって。おまえの大事な弟分は、おまえの事情に理解を示さないほど狭量なのか?」
「いや……」
 別離を決意したあの日、ホテルの部屋の扉を一枚挟んでドイツが言ったこと、そして本当の意味で再会を果たした日、やはり彼がくれた言葉が耳によみがえり、プロイセンは小さく頭を振った。
 フランスは彼の金髪をくしゃくしゃと掻くと、
「なら、ちっとは信じてやれ」
 苦い笑みを絶やさないまま言った。
 プロイセンは反射的にうなずこうとして――やはり顎が下がらなかった。言えないこと、知られたくないことを抱え込んでいる自分の心中を振り返ると、簡単に首を縦に振ることはできなかった。
 プロイセンの苦しそうな表情を前にしたフランスは、それ以上踏み込むのはやめた。代わりに別の質問をする。
「ひとつ、聞いておきたいんだけどさ」
 その前置きに、プロイセンがびくっと肩を跳ねさせた。
「何を、聞く気だ」
 唇がわずかに戦慄いているのがうかがえた。フランスはすっと立ち上がると、明後日のほうに視線をくれながら、世間話のようにさらりと尋ねた。
「その様子だと、おまえ、ロシアが嫌いなわけじゃないんだよな?」
 プロイセンは壁に手をつきながらふらりと体を起こすと、数秒の沈黙ののち、
「……好きだの嫌いだのって次元の問題じゃねえ」
 その場に立ち尽くしたまま、うつむき加減に答えた。
「愛憎か?」
 フランスの問いにプロイセンはふるりと頭を左右に小さく振った。
「違う。おまえの手足はいちいちおまえのことを好きだの嫌いだの言いながら働いてんのか?」
「いいや」
「そんなところさ」
「だって、俺はあらゆるものに愛されてるからな」
 プロイセンが喩えを用いたということを理解しつつも、フランスは茶化した。
「何言ってやがる。俺はおまえが嫌いだぜ」
「ああ、俺にドイツ取られたと思って妬いてんのね。それじゃ嫌われるのもしょーがないかなあ。たいがい喧嘩しまくったけど、いまじゃ俺たちそれなりの仲だしぃ?」
 この日何度目になるのかわからないフランスの挑発に、やはりあっさり乗るプロイセン。
「おまえにあいつはやってねえ!」
 いまのいままでしょげていたことを忘却の彼方へ追いやると、怒声を上げてフランスをにらんだ。フランスは彼を適当にいなしつつ、
「はいはい。ま、時間も限られてることだし、帰る前にせいぜい愛しの『ヴェスト』といちゃついてろ――ただし、節度はわきまえろよ? おまえら、いまでも血ぃつながってんだからな?」
 ついでとばかりにもうひとつ忠告を付け加えておいた。
「当たり前だろーが」
「そっか。忘れてないならいい。それじゃあな」
 フランスはズボンのポケットに手を突っ込むと、バイバイもせずに玄関に向かい、ドイツ宅をあとにした。プロイセンは去っていく彼の後ろ姿を苦い顔で見送った。フランスの助言を胸中で反芻しながら。

*****

 フランスが帰り、再びふたりきりになると、リビングは急に静寂に包まれた。プロイセンが部屋に戻った頃には、ドイツはすでに三人分のコーヒーと菓子の食器を片付けていた。
 先ほどと同じ位置に座って新聞を読むドイツの横に、ひとり分ほどのスペースを空けてプロイセンが腰掛ける。しばらく何も言葉を発せずに、アームレストに肘を置いて頬杖をついていたプロイセンだったが、やがてふと口を開いた。
「……なあ」
「なんだ?」
 呼べば、ドイツはすぐに新聞から目を離して応じた。まっすぐに注がれる視線にたじろぎ、プロイセンは数瞬ためらったあと、
「おまえさ、何も聞いてこないんだな」
 唐突に切り出した。ドイツが新聞を畳みながら怪訝な面持ちで問う。
「何のことだ」
「その……俺のあっちでのこと」
 伏し目がちにそう言うプロイセンに、ドイツはすっと目を閉じながら落ち着いた声音で答えた。
「追及しないと言った」
 プロイセンは目をぱちくりさせた。そして、ドイツがあのとき自分に言った言葉を再度思い出す。自分をひどく安堵させた言葉の数々が、胸のうちで鮮明に反響する。
「……おまえ、いい男になったなあ」
「どうかな……俺が聞きたくないだけかもしれない」
 ドイツが自嘲気味に呟く。プロイセンはほんの少し寂しそうに苦笑した。
「そっか……」
「おまえが話したいなら聞くが」
「いや……やめとく。言えないことが多すぎる」
「そうか」
「ごめんな」
「そういうのはやめてくれと言っただろう。つい最近まで閉鎖都市だったんだ、機密が多いのは仕方ない」
 そのフォローが的を射ていないということは、さすがのドイツも自覚していた。けれどもほかに掛けてやれる言葉が見つからなかった。プロイセンが触れられたくないと思っているであろう心の内を、あまり揺さぶりたくはなかった。
「うん……ありがとな」
 プロイセンはドイツとの間に空けていたスペースを詰めて身を寄せると、おもむろに体を傾斜させ、彼の肩に自分の頭をこてんと預けた。そしてそのまま目を閉じると、静かに深い呼吸を繰り返した。心を落ち着けるように。
 ドイツは、プロイセンの雰囲気の変化を強く感じずにはいられなかった。預けられた体重はほんの一部分で、しっかりとドイツの肩に頭をつけようとはしない。自分に対してこんなふうに遠慮をする彼ではなかったのに。
 こうして彼とともに過ごす時間が長くなればなるほど、以前の彼との相違を違和感として感じ取る自分がいることにドイツは気づいていた。彼の存在とともに自分の手から失われた時間の長さを否応なしに痛感し、ドイツは苦い気持ちになった。
 けれども。
 けれども、多くは望めない。いや、望むまい。彼がいまここにいる、それだけでいい。
「これで……十分だ」
 ドイツは手を伸ばしてプロイセンの側頭部に触れると、そっと自分のほうに寄せさせた。すると、プロイセンは少し緊張が解けたのか、先ほどよりもドイツに体重を預けてきた。
 それきり、ふたりは言葉も声も発せず、身を寄せ合ったまま、西日が差し込むのをずっと待っていた。




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