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思い出は忘れた頃に


 ドイツの語り口は淡々としたものだった。見たままの事実を報告する観察者のように時系列に沿って滔々と話す。自分自身の体験だというのに主観的な有機性が感じられず、まるで傍観者のような視点で彼は自分の行動を描写していった。けれども、回想の中の彼が寝室の扉を開いたあと、現在で語る彼の口調にもよどみが生じはじめた。
「本当に、自分で自分の行動がわからない……。なんでいまさらあんなことを……不思議で仕方ないくらいだ。いまになってなぜあいつのことをこんなかたちで思い出したのかわからない。あいつと最後に一緒に暮らしていたのは、もう三十年以上昔の話だ。おまえとも同居していた頃だからな」
 自分の奇妙な勘違いに心底不可解そうに、また神妙そうに首をかしげながら、ドイツは一度大きく息を吐いた。会議でもないのにこれだけ一気に、一方的に話をする機会は少ない。わずかな小休止を入れると急に口の渇きが意識され、彼は温くなったコーヒーを酒のように仰いだ。カップの取っ手に指を引っ掛けたまま、彼は先ほどから音ひとつ立てず静かに自分の話に耳を傾けているオーストリアを一瞥した。ドイツの話が続くことを見越してか、オーストリアはいまだ聞き手の姿勢を保っている。ドイツは胸中で彼に感謝しながら休息を引き上げ話を再開した。
「いや……思い出したのとは違うかもしれない。俺はあのとき、何の疑いもなく、あいつが二階で寝ていると思っていたんだ。あの頃とは、何もかもが違うのに……。いま本宅があるのはボンで、住宅は戦後に建設された新しいものだ。間取りも家具も違う。昔では考えられないくらい多様な電化製品に囲まれている。それなのに俺は間違えた。場所はもちろん、時代まで。理由はわからないが……昔、おまえとあいつと俺と、一緒に住んでいた時代と錯覚してしまったらしい。俺はあまりに自然にあいつを呼びに行った。それで――」
「扉を開けて、彼がいない部屋を見て現実に引き戻された。直前まで見事に勘違いしていたなら、衝撃も大きかったでしょうね」
 オーストリアもまた神妙な面持ちでドイツを見つめた。本人も不思議がっているとおり、ドイツの勘違いは突拍子も脈絡もないものだった。彼の消息が知れなくなってからすでに三十年以上経過している。直後の混乱期ならともかく、いまはもう復興と成長を遂げた。もちろんまだ大きな問題を抱えてはいるが、遠い昔に彼が期待し望んだ姿の幾許かは叶った。時の移り変わりとともに変化する生活や環境に適応し、過去の暮らしは思い出というラベルをつけられ記憶の中に保存される存在になっていく。過ぎ去った時間の中に置き去りにされた彼との思い出は、風化はせずとも、段々と遠いものとなっていった。そうしてドイツは彼がいない――どこにもいない――生活に慣れ、いつしかそれが当たり前のこととなった。……そう思っていた。
「……当たり前だが、部屋には誰もいなかった。そうだ、あいつがいるわけがないんだ。いまは西暦何年だ? あいつが姿を消してどれだけ経つ? わかってるんだ。わかってる……はずなんだ」
 苦悩に耐えるように、ドイツはきつくまぶたを閉じた。
「なのに、どういうわけか、あのとき俺は当たり前のように、あいつを呼びに行ったんだ。……昔みたいに」
 額に手を当て、アップした前髪に指を差し込みくしゃりとセットを崩す。指先がかすかに震えていた。数回浅い呼吸をしてから、ドイツは途切れがちに言った。
「あいつ……が、いなくなって……どれだけの、年月が、流れたことか。常にあいつのことを考えていたわけでもない。仕事は山とあった。復興と再建に駆け回り、新しい生活を築いて……忙しさの中で俺はもう痛みや喪失感に打ち勝ったつもりでいた。あいつがいなくても大丈夫だと、思っていた……のに……」
 なのに、どこまでも自然体に彼の名前を呼んだ。あの頃と変わらない調子で。
 それはつまり、彼の存在がいまでも息づいているということだ。記憶という過去の時間の結晶ではなく、いまを流れる感覚として。ドイツの心の奥底では、彼はまだ生きた存在としてとらえられているのだろう。彼がいないという現実をどれだけ噛み締めていようとも。
 そのことはドイツ自身にとっても意外なことだった。だから動揺した。自分がいまだに彼への精神的な依存から抜け出していないことに。その事実は、最愛の同胞を永久的に喪失したという悔やんでも悔やみきれない過去をドイツに知らしめた。
 ひどい後悔と喪失感に襲われ、ドイツはしばらくうなだれていた。コーヒーの静かな水面に映し出される彼の顔は、苦しみが深く刻まれていた。オーストリアは苦い表情で目を伏せた。相手に何を言ってやればいいのかわからなかった。
 と、珍しく自発的に沈黙の気まずさに思いが至ったらしいドイツが、はっと顔を上げた。
「あ……すまない、おまえの前でこんなことをぺらぺらと話して」
 オーストリアはやれやれと呆れ気味のため息をついた。呆れているのは、彼に言葉ひとつ掛けてやれない自分自身のことだけれど。
「こんなときにまで私に気を遣うのはおやめなさい。逆に不愉快です。あなたがあの時代のことや彼の話をしたところで、私は腹を立てたりしませんから。言論の自由は保障されているのですし、話したければ話してしまいなさい。何のために私のところへ来たんですか。聞くくらいはすると言ったでしょう。私はきっとあなたの慰めになるようなことは言えないでしょうし、あなたもそれを期待してはいないでしょうが、心に積もったものを散らすだけでも、多少は楽になるものですよ」
 オーストリアの言葉は謙虚で親切だった。ドイツは彼の厚意に甘えることにした。
「……俺は今日、改めて実感したように思う。あいつがもういないということを。時間を隔てたいまだからこそ、余計にそう感じるのだろう……」
「そうですね……彼が姿を消した直後ならその事実を感情的に否定することもできたでしょうが、彼がいない年月をこれだけ積み重ねたあととなっては、あなたの理性は冷静に現状を理解してしまうのでしょうね。彼がいないということを」
「あいつを失ったことを……どれだけ悔やんだか知れない。いや、それはいまでも終わっていないのだろう。俺は後悔や悲しみを乗り越えた気になっていただけで、その実、心に開いた風穴から目を逸らしていたに過ぎなかった。認めたくない事実を受け入れることはもとより、拒絶すらもできず、ただ覗き込まないよう蓋をしていただけだった。そうでもしなければ、あいつへの罪悪感で動けなくなっていたから。あいつはきっと、俺がこんな風に考えるのは好まないだろう。それでも俺は思わずにはいられないことがある――俺がいままで取ってきた選択肢が、結果的にあいつを消してしまったのではないかと。こんな尊大なことを言ったりしたら、『おまえにそこまでの力があるものか』とあいつは鼻で笑うかもしれない。でも、どうしても考えてしまうときがあるんだ――だってあいつが消えたことについてほかの何者も責められないのなら、自分自身を責めるしかないじゃないか!」
 積年の遣る瀬無い感情が一気に湧き上がり、ドイツは激しくテーブルに拳を打ちつけた。振動で食器が一瞬宙に浮いたが、大事には至らなかった。
「ドイツ……」
 突然の激昂に驚いたオーストリアが、呆然とドイツを呼ぶ。ドイツははっとして手を引っ込めた。握っていた拳は、自分が思った以上に力が入っていた。
「すまん……取り乱した」
 ドイツはばつが悪そうにゆるゆると首を振りながら、憔悴の色の混じるため息を大きく吐いた。
「でも、きっとあいつは俺を責めないのだろうな。あいつはそういうやつだった……。確かにすぐ調子に乗るしうるさいししつこいし、いろいろと煩わされたものだが……それでも俺は、そんなあいつのことが……好きだったんだ。そんなあいつだから、好きだったんだ。うっとうしく感じたということは、つまりはそれだけ、俺のことを気に掛けてくれていたということなんだ……わかっていた、あの当時だって、それを感じてはいたんだ。あいつに気に掛けてもらえるのが、かわいがってもらえるのが、嬉しかった。でも、そのことで感謝を示すことは、結局できなかった。できないまま……俺はあいつを見失ってしまった。大切だった、大好きだった……いなくなることがあるなんて、考えてもいなかった。あいつを失ったことを、俺はどれだけ悔やんだか知れない……」
 彼のいない生活に慣れても、彼がもういないという事実はどこか現実感がなかった。彼のことを思い出すにつけ、少年の頃の自分が低い視線から見た大人っぽく感じた彼の横顔や、成長してから見下ろす視線で眺めた彼の顔が、時系列を無視して次々と脳裏をよぎっていく。それは、もうその手に掴むことができない彼の姿だ。
 消沈したドイツを前に、オーストリアはなかば独り言のようにぽつりと漏らした。
「……あなたが彼を失ってそんなにつらいのは、それだけ彼を愛し、また彼に愛されたから……なんでしょうね」
 大切なものほど、喪失の痛みは深く激しい。後悔と悲嘆に暮れるドイツの姿は、そのまま彼が失った相手のことをどれだけ想っていたのかを表している。
「なんで……どうしていなくなったんだ……。いや、あいつに問うのはお門違いだ。どうして俺は、あいつの手を掴んでいてやれなかったんだ。なぜ失ってしまったんだ……あんなに大切だったのに。たいせつ、なのに……」
 かすかに咽ぶような湿った音が声に混じる。拳で額を押さえて瞠目するドイツをしばし見つめたあと、オーストリアは言葉を選びながら静かに話し出した。
「私は大きなことを言える立場ではありませんが……いまは存分に落ち込んで構わないと思います。痛手を受けたなら、相応の痛みや哀しみに浸る時間が必要でしょう。彼を失ったあと、あなたはあらゆることに必死だったから、十分に哀しむ時間をもてなかった。過去の時間の埋め合わせだと思って嘆きなさい。でなければ、過去のあなたがかわいそうです。それだけ大事に想い、想われていた相手なら、失ってつらいのは当たり前のことです。でも、彼があなたに愛情を注いだのは、あなたにつらい思いをさせるためではないでしょう。結果的にそうなってしまったのは必然なのかもしれませんが……そこは、わかっておあげなさいね」
 励ますでも窘めるでもなく、オーストリアは抑揚のない声音でそう言った。ドイツは何も答えず、うなだれたままじっとテーブルに視線をさまよわせている。落ち込むところまで落ち込ませてやるのがいいだろうと判断したオーストリアは、冷め切ったコーヒーを入れ替えようと音もなく席を立った。
 と。
「オーストリア……」
 かろうじて聞き取れるほどの小さな声で呼ばれるのを耳にし、オーストリアはトレイを持ったまま振り返った。見れば、ドイツがほんの少し面を上げて、ちょっと気まずそうな、恥ずかしそうなまなざしを向けている。
「はい」
「……ありがとう」
 礼を述べた彼の声は、やはり覇気がなく弱々しかったけれど、涙の気配はもうなかった。それがよいことなのかよくないことなのか、オーストリアははかりかねながら、心の内で誰にともなく、お馬鹿さん、と小さく罵った。その言葉を向けたいのは、目の前の青年か、無力な自分か、あるいは消えてしまった彼か――。




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