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エンパシー


 五分近くそうして抱き合っていただろうか。
 プロイセンはふいに服の背を引っ張られるのを感じた。姿勢を低くしろということだろうか。彼はそう察すると、腰を落としてソファに座り込んだ。と、ロシアの顔が唐突に近づいてきた。あまりに至近距離だったので、表情は窺えない。と、気づいたときには互いの鼻先が触れ合っていた。何事かと思う前に、唇に柔らかいものが触れるのを感じた。
 がむしゃらに、ただ押し付けてくるだけの接触。幼子のような懸命さだ。
 ――キスを求められている。
 プロイセンは薄く口を開くと、ロシアの求めに応じてやった。差し込まれた舌を迎え入れ、上下の歯で軽く挟む。耳の後ろに手が回されたので、プロイセンのほうも相手の頭髪に指を入れて絡ませ、弱い力で首を固定した。
 離れそうになると、追いかけるようについばむ。そんな子供じみたことを繰り返しながらも、唇の粘膜は舌のざらつきを感じていた。
 少しの間そうして口づけあっていたが、あるとき接触が完全に絶たれた。と同時に、ロシアがすっと首を退いた。呆気ない幕引きだった。
 彼は斜め下に視線を落としながら、意外なくらい冷静な声音で短く言った。
「ごめん。甘えた」
 他人の体温に縋ったことが気まずいのか、彼はプロイセンを見ようとはしなかった。プロイセンは両手で彼の頭部を挟むと、自分のほうへ接近させた。
「いい」
 プロイセンの短すぎる言葉に、ロシアがきょとんとする。彼の不思議そうな目線に、プロイセンはもう一度繰り返した。
「いいから」
 互いの呼吸を肌で感じるほどの距離でささやく。
「調子、悪いんだろ」
 そして、今度は自分から唇を寄せた。
「甘えとけ」
 その先に、言葉はなかった。双方ともに。

*****

 体をつなげることにいまさら抵抗はなかった。ただ、自分たちがこんなかたちで熱を重ねることがあるとは、思いも寄らなかった。
 大人ふたりが寝そべるには狭いソファの上で、プロイセンはロシアの頭を胸に抱いたまま、アームレストに肩をつけた姿勢で仰向けに転がっていた。裸の胸に触れる金髪がくすぐったかった。
「ふふ……情けないところ、見せちゃったね」
 特に恥じ入るような色合いもなく、ロシアが小声で言った。分け合う体温が心地よいのか、頬をぴったりと相手の胸につけたままだ。伝わってくる心音は、ゆっくりと一定のペースを保っている。
 プロイセンは、少し重いなと感じながらも、体の上にあるロシアの肩に触れて軽く撫でた。
「おまえは普段から割とドジで情けないだろうが」
「そうかな」
「そうさ」
 あっさり肯定するプロイセン。ロシアは納得したようにため息をこぼすと、腕をついて体を退けながら苦笑した。
「ありがとう。つき合ってくれて」
「別に。俺がこうしたかっただけだ」
 もともと甘やかな関係ではない。プロイセンは相手が完全に離れたのを見計らうと、座り直してさっさと衣服を整えはじめた。いまのいままで密着していたので、急に離れると外気が少し冷たく感じられた。暖房が止められてなくてよかったぜ、と場違いな感想を抱いた。
 ロシアもまた、シャツを留めながら呟く。
「そう。……じゃあきっと、僕もこうしたかったんだね」
「かもな。俺はおまえと共有するものが多くなりすぎた」
 プロイセンは自嘲気味に薄い笑みを浮かべた。まさかロシアとこんなことをしているなんて。半世紀前には想像もしていなかった。そしてその後半世紀も続いている関係に奇妙な感慨深さを覚えていると、視界の端に肌色が映った。
 反射的に見やると、ロシアが頬に手を伸ばしてきているのがわかった。
「きみも具合、よくないんでしょう」
 むしろプロイセンのほうが悪いかもしれない。普段なら互いの体温の差を感じることはあまりないのだが、今日の彼からは熱が移動してきた。つまり、彼のほうが体温が高い。
 しかし当の彼はそのことには言及しなかった。はぐらかすわけでもなく、ただ遠回しに肯定する。
「おまえがよろしくないんじゃ、そりゃ引きずられるわな。……早く何とかしろ、俺だってきついんだ」
 そう言うと、プロイセンは体を斜めに向かせ、ロシアの額に自分のそれを引っ付けた。体が帯びる熱を確認させるように。
「うん……」
 ロシアがまぶたを下ろすのが気配で察知された。プロイセンもまた、自らの視界を閉ざした。
 子供の体温を測るような体勢に、言い知れぬ懐かしさを覚えた。遠い昔、自分より小さい子供を相手にこんなことをした。いや、その子供に背を抜かれてからも、やはり同じことをしていたような気がする。実を言えば、こんな動作が熱を測る役に立つはずがないとはわかっていた。それでも時折こうしていたのは、接触に意味があったからだろう。誰しも、ひとの体温が恋しくなるときはある。不調に見舞われ不安定なときは、特に。
 たいていの大人は、自分が寂しさを感じていることを認めたがらないものだ。プロイセンは妙な実感とともにそう思った。絆されてるんじゃねえよ、と自分に忠告しながらも、彼はどうしても相手を放っておけなかった。何十年か前にロシアに警告されたとおりだ。自分はこの男に近くなりすぎた。
 自分が味わった幾多の苦悩を思えば、いまこの男に『ざまぁ』と嘲笑とともに吐き捨てても不実ではないかもしれない。けれどもプロイセンにはできなかった。彼を放っておけない。自分もまた喪失の痛みを知っているから。あるいは、彼に溶け込みすぎたあまり、もはや彼と自分との境界があやふやになっているのかもしれない。体調だけでなく、感情もまた、相手に引きずられてしまう。理性の及ばない部分で、苦しみや痛みが伝わってくる。だから、言葉を介さずともわかってしまうことがあった。どうしようもなく、わかってしまうのだ。……それは、かつては別の相手との間で感じたことだった。
 遠い日の、まだ少年くさかった頃の思い出が胸を内側からちくりと刺してきたが、いまはその痛みを無視することにした。
 ロシアの首に腕を回し、ぎゅっと抱き締めてやる。
 ――ああ、所詮は代替行為じゃないか。傷の舐め合いどころじゃない。俺は結局自分の傷を舐めているに過ぎない。
 きっとロシアも理解している。理解してなお、この体の熱を求めるのだ。
 つまるところは利害の一致。それだけだ。
 胸の靄は消えなかったが、プロイセンはそう思いながら、ロシアの頭を肩に寄せた。




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