ご注意!
引き続き、普と露の過去話です。
かなり問題のある内容なので、高校生以下の方は閲覧を控えていただいたほうがいいと思われます。
まったくえろくないですが、内容がひどいのでお気をつけください。
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きみのおわりとはじまりと
天井が遠い。床が硬い。肌に触れる空気が冷たい。背中の傷が痛む。
じわじわと、本能的な恐怖が湧き上がってくる。
腹に感じる他人の体温を払いのけたい。
いや、だめだ。いまの自分が、この男に攻撃性を示すのはまずい。仮にそのような行動に出たとして、その結果が跳ね返るのが自分ひとりであるとは限らない。
だが、頭の中の冷静な部分は徐々に小さくなっていく。恐怖に思考が蝕まれる。
理性と感情の内的な闘いに突き動かされるように、プロイセンはそれまで床に爪を立てていた手を離し、ロシアの肩に当てた。
「てめえっ、くそ、放しやがれ!」
ぐ、と腕を突っ張って押す。しかし動きは緩慢だ。どのくらい力を加えるべきか迷うように。それはそのまま、彼の心中での葛藤を反映していた。
胴体での接触がなくなったかと思うと、ふいに手首を掴まれた。プロイセンは反射的に手を離そうとするが、ロシアは彼の腕をその場に留めたまま言った。
「逃れようのない現実なら、早く受け入れたほうがいい。そのほうが楽だよ」
そしてやんわりと彼の左手を包み込むと、ゆっくり斜め上方へ持ち上げさせた。腕が緩く伸びるように引っ張り、手が頭頂を超えたところで床に縫い止める。彼の指先は、やはり惑うように開いたり閉じたりを繰り返していた。
「は……は……」
浅い呼吸に唇を戦慄かせながら、彼は揺れる瞳でロシアを見た。右手はまだ相手の肩に掛けたままだが、指は震え肘は曲がり、最初の意図はまったく達成されていなかった。
ロシアは右手で彼の片腕の自由を封じると、もう一方の手で彼の胸に触れた。頻回な呼吸に合わせ、胸が速いペースで上下している。肩から胸、そして背中の一部は幅の広い白い布で巻かれ、覆われていた。包帯よりは伸縮性の乏しい生地のざらりとした感触を経て、腹部の皮膚に直接手の平を当てる。接触を保ったまま手を移動させていくと、腹部がひくりとへこんだ。それと同時に、彼はわずかにロシアの肩を右手で押した。だがロシアは構わず、さらに手を下方へと這わせていく。
体の中心のくぼみを通過し、ウエストのラインを越えたところで、プロイセンが身じろいで頭部を浮かした。
「よ、よせ……」
思った以上に懇願するような声音になってしまったことに彼は後悔しながらも、ふるふると頭を左右に振って弱い拒絶の意志を示す。ロシアはそんな彼に小さく微笑んだ。嘲るわけでも憐れむわけでもない、純粋な微笑。その表情だけを切り出したのなら、見るものに安堵を与えることさえあるかもしれない。けれどもプロイセンにとっては、恐怖を掻き立てられるだけのものだった。
交わった視線に縫い付けられ、顔を逸らすことができない。プロイセンはことさら力を込めて閉眼した。けれども、視覚を閉ざしたがゆえに、相手の手の位置や触れ方、圧の掛け方などが触覚を通じてまざまざと伝わってくるのを知覚する。
「……っ! やだ、やめろ……いやだ、いやだっ!」
耐えかねて、彼は立てさせられていた膝を動かし、相手の背を蹴った。もっとも、体勢的にほとんど無力だったが。ロシアは彼の微力な抵抗など問題にもしなかった。
脚を掴まれると、腰と背が床からわずかに離れた。その瞬間的な浮遊感は、彼の不安と恐怖を増大させた。
「……ぁ」
喉の奥が引きつるような声が漏れる。それを引き金にして、抑え込んでいた衝動が溢れ出る。
「よせ、やめろ……!」
彼は防衛本能に突き動かされるがまま、突然暴れ出した。ロシアは一瞬身構えたが、すぐに状況を判断すると、彼の額に手を置き床に押さえつけた。重心の移動を奪われた彼は、崩れた姿勢のままもがいた。力任せにロシアに殴りつけるも、拳は簡単に受け止められた。宙に上げられた足は、蹴ろうにも支点が定まらず、ただ虚空に不規則な軌跡を描くだけだった。
ロシアはある程度動きを封じた状態でしばらく彼のしたいようにさせていたが、やがて、掴んだままの彼の左手首をぐっと自分のほうへ引き寄せた。肩から体幹にねじれが生まれ、彼は右半身を下にして横を向かされた。右の耳介が床と頭との間でそのかたちをゆがめた。ロシアは彼の左腕を解放してやる代わりに、左足を捕らえて宙に浮かせた。
姿勢の変化に戸惑いながらも横目でにらみつけてくる彼を、ロシアは憐れむような目で見つめた。
「大分体力が落ちているね……わかるだろう、衝動に任せてがむしゃらに抵抗したのに、どうにもならない。力が出ない。たとえ体重差があったり体勢が不利だったとしても、コンディションがいいときのきみならここまで簡単に自由を奪われたりしない。場合によっては僕を跳ね飛ばすことだって可能だろう。でも、いまはどうだい?……それだけ、弱っているということだよ。……このまま行けば、さらに弱るのは目に見えている」
その指摘は正しかった。プロイセン自身、言われなくとも理解している程度には。
そうだ。俺はおまえに抵抗できない。二重の意味で――状況的に。そして、身体的に。
「ちくしょう、ちくしょう!」
屈辱に喉を震わせて叫ぶと、彼は不自由な姿勢を少しでも解消しようと肩をひねろうとした。けれども、頭部を固定されているために回転が利かない。押さえつけてくるロシアの手を外そうと左手を伸ばすが、びくともしなかった。
「暴れるのは構わないよ。むしろそのほうが安心できるから」
「くっ……てめえ……!」
手負いの獣が威嚇するように歯を剥き出す彼を、ロシアはただ冷静に見下ろした。そして、静かに告げる。
「きみは亡国となっても生き延びる。僕が生かす」
「何の、何のために! 亡き国に利用価値なんざねえだろが!」
「あるよ、十二分に。案外自分のことはわからないのかもしれないけど、きみはいまでも存在価値を失ってはいない。きみは、この土地は、きみだけの故郷というわけではないから」
ロシアはそっと彼の頭から手を退くと、下腹部に移し、指の腹で皮膚を下へと辿っていった。
「うっ……あ、あ、あぁ……ゃ……やめ、ろ……」
じわり、じわり、と忍び寄る侵食の予兆。他人の手の先がいまどこにあるかなど、考えたくもなかった。
「く……ああ、あ……ぅ、んっ……」
歯を噛み締め、荒らされる感覚をやり過ごす。
と、ふいに圧迫感が消えた。
左肩を押され、正面を向かされる。背が再び床につく。
明け透けな意図。
プロイセンは戦慄した。
「う……や、やめろっ……!」
「きみには生き延びてもらう。どんな屈辱を浴びてでも」
その宣告は、彼にとってどれだけ残酷だっただろうか。どれだけ恐ろしいものだろうか。
彼はなりふり構わず手足を振り乱して暴れた。抵抗するにはあまりに無力な身だという現実も忘れて、ただひたすら。恐怖から逃れたい一心で。
「いや、だ……よせ、やめろ、い、いやだっ、いやだいやだいやだいやだいやだぁっ!……っ!……うあああああああああああ……!」
絶叫。
衝撃よりも痛覚よりも何よりも、体を内側から侵食されるという事実に彼は恐怖した。自分の輪郭が消えるかのような感覚。ロシアの宣告が脳裏にちらつき、それがまた、彼の恐れを煽った。
「――あああああああぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!!」
呼気の続く限り叫ぶ。目を見開き、喉を仰け反らせて。
指を床に立てめちゃくちゃに引っ掻く。跳ね回る爪の先が血痕が残していった。
息の途切れたところで彼はむせ返り、弱々しく咳を繰り返した。
ロシアはただ、彼を見つめている。
「あっ……う……っは、はあっ、はあっ……ぅ、あ、あぁ……ゃ……あ、ん……うあぁっ……」
緊張が頂点を極めた直後、彼は糸の切れた操り人形のようにくったりと脱力した。浅い呼吸に連動して、胸腹部が上下する。熱病に冒されたかのように、熱く弱々しい息。
苦しさに喘ぎながらぎゅっと目を閉じて、彼はいまなお続く感覚に耐えていた。
ロシアは彼の前髪を指で梳いていたが、ある程度彼の呼吸がリズムを取り戻すのを見計らってから尋ねた。
「……少しは落ち着いた?」
プロイセンはうっすらと目を開けると、何度か肩を上下させたあと、
「……はあ、はあ、はあ……ど、どの口が……んなこと、ききやが、る……」
枯れてはいるものの、存外しっかりした声で悪態をついた。
「よかった、ちゃんと応答できるみたいだね。絶叫すごかったから、狂っちゃったかと思った」
「そうなったら、んっ……どんなにか、楽……だった、こと、か……」
「……だろうね」
正気を失うことのできない存在。彼の心境が、想像できないではなかった。
「うあ!……あっ……」
プロイセンが短い悲鳴を上げる。急に上体を起こされたからだ。
ロシアは彼を座らせると、苦しげな息に合わせて動く背中をさすってやった。
相手に体重を預ける姿勢を嫌がり、彼は腕を突っ張って離れようとした。だが、やはり力はろくに入らなかった。
「くそっ……くそ! くそ、くそ! ちくしょう、ちくしょうが……っ! あっ、あっ、あ……は……」
我が身の無力感に苛まれ、プロイセンは声を絞り出して自身を罵る。
「大声出す体力が残ってるのはいいことだけど……あまり無茶すると酸欠になりかねないよ」
「てめえが、言うことか、よ……」
ロシアはほんの少しだけ涙のにじむ彼の目元を親指の腹で拭った。
「さすがにこれ以上暴れるだけの体力はもうない?」
「うる、せぇ……」
聞くまでもないことだろうが――そう続けることすら苦しい。腕は棒のように垂れ下がったままだ。
ロシアは、ぐったりしたプロイセンの頭を抱き寄せた。
「……ほんとに動けないんだ。ずいぶん無理をしてきたんだね。見た目より衰弱している」
「不可……抗力、だ……ほっと、け」
「そうはいかないな」
ロシアは彼の肩越しに背に視線を落とすと、彼の肩や胸を覆う白い布の縫い口を見やった。幅が広いため、端を結ぶのではなく糸で縫い止めてあるようだ。そして、彼の脇から腕を伸ばすと、指先を差し込んで糸をちぎった。布の端がはらりと落ちると、胸の圧迫が小さくなったことに気づいたプロイセンが少し頭を上げた。
「なんだ……」
不審そうなまなざしを向けてくる彼を無視し、ロシアは無言で布を引いた。二周分逆周りさせれば外れた。その下から現れたのは茶色と黄色の染みのついたガーゼだった。鎖骨から、その十五センチほど下までを広範に覆っている。
「ひどいね」
その範囲とガーゼの変色具合を見たロシアは、ぽつりと言った。そして、ガーゼの端を指で摘まむと、ゆっくりと剥がし出した。
「……っ! ぅあっ!……あ、あぁ……! ひ、ぁあ……よ、よせ……う、あっ……あああぁぁぁ……っ!」
皮膚の、いや、粘膜の引き攣れる痛みにプロイセンが悲鳴を上げる。
ガーゼの下には、開いたままの生々しい傷があった。どういった経緯で生じた傷なのかはわからない。手当てを怠った擦過傷か、あるいは火傷のようにも見える。おそらく戦いのさなかに負ったのであろうが、傷口がやけに新しいのが奇妙だった。というより、治癒の様相を呈していない。剥がれた皮膚がうまく再生しないようで、その下の組織が剥き出しになっている。幸いにも化膿は免れ、傷そのものはきれいだが、周囲の肌の白とコントラストを成して、ひどくグロテスクだ。背中にもガーゼがテープで留められている。おそらく同じような創傷があるのだろう。
ロシアは唐突に、彼の胸の傷に舌を這わせた。プロイセンが緊張に肩をすくめる。
「あっ……! うあ、あっ、あっ……ふ……あ……んっ……はっ、あ、ああぁぁぁ……」
傷をいじられる痛みと、創傷部の正常でない組織を舌先でねぶられる感触に、彼はたまらず首を振った。
「痛いだろうね。塞がっていないんだから。受傷してからどれだけ経っている? ずっと開いたままの傷……普通の人間なら、感染を起こしてとっくに死んでいるところだろうね」
かなりの時間が経過しているにもかかわらず癒えない傷。それは、彼がその身に受けたダメージの大きさの反映であり、同時に彼の衰弱を物語るものでもある。
「大丈夫。傷はそのうち消えるよ。僕が消す」
そう言って、ロシアは傷口に再度舌をつけた。胸から肩のほうへ舐め上げていくと、肩口に一本の別の傷痕を見つける。こちらはすでに治癒している。形状からすると、剣による切り傷だろうか。
「古傷かな。やっぱり多いね」
彼の体にはいくつもの薄い瘢痕があった。過去の時代に受け、もう治ってしまったものだろう。
「こういうのもね……いずれきれいになるよ」
ロシアは独り言のように呟いた。
プロイセンは他人に傷を触られていることに身を硬くし、息を乱している。
「はっ……はぁっ……ぅ……はぁっ、はぁっ……んっ……」
汗に濡れた前髪を掻き上げてやりながら、ロシアが言う。
「いまはまだ受け入れられないかもしれないけど、もはや決まってしまったことなんだ。いずれは諦める以外なくなる。その日は必ず来る。きみは僕の一部になるんだ。それしかない、それしかないんだ。それだけがきみが生きる道だ」
淀みのないロシアの声。だがプロイセンはなお首を横に振り続ける。
「いやだ……そこまでして生きる理由なんて、俺にはない……」
「もとより僕たちは、自分のために存在しているわけではないよ」
「ちくしょう、なんで……っ」
「いまのきみに届く言葉はないかな。……いいよ、いまはそれでも。いずれ理解する、いや、受容するときが来るから。時間という名の説得力に勝てる者はない」
相手にとって冷酷であろう言葉を紡ぐと、ロシアはもう一度彼を床に横たえた。
「う……ぁあ……っ、はっ……ん、ぅ……ゃ……いや、だ……いやだ、こんなのは……おれは、みとめない……」
いやだ。いやだ。
プロイセンはうわごとのように繰り返しながら、どうすることもできない己の非力さを呪った。
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ソファに座らされたプロイセンは、眼前に立つロシアの服の胸元をぼんやりと眺めていた。屈辱に打ちひしがれた心身が強い疲労を訴えている。もっとも、指摘されたとおり、体のほうはここへ来る前から相当消耗していたので、大きな違いはないかもしれない。思い出したくもないが、身体的にはさして手酷い扱いは受けなかったように感じる。いや、むしろ丁寧と言ってもよかったかもしれない。まるで怪我人か病人に接するような(事実自分は怪我人だが)。
だが、それがかえって不気味でもあった。そして、いまこうしてわざわざ制服を着せているのはどういう魂胆なのだろうか。さすがに着衣くらい自力でできる……と思う。
留め具ひとつまできっちり元通りにしたところで、ロシアが彼の襟元から手を離した。
「今後のことだけど」
突然切り出され、プロイセンははっとして顔を上げた。
「とりあえずあっちへ戻ってもらうよ。モスクワよりは慣れているでしょう、気候とか空気とか。実家のほうが養生しやすいだろうし」
「ケーニヒスベルクに送り帰されるってわけか」
「うん。カリーニングラードにね」
ロシアに確認を取ると、プロイセンはゆらりと立ち上がって返事をする。
「了解。……もう、退出させてもらうぞ。用は済んだんだろ」
これ以上ここにはいたくない。幼いときから親しんだ名を奪われたあの街は、もう帰りたいと思える場所ではなくなってしまったかもしれないが、それでもここよりはましだ。少なくとも、この男と顔を合わせずに済むだろうから。
プロイセンが不安定な足取りでソファから離れると、ロシアはあっさりと許可を出した。
「いいよ」
そのあまりのシンプルさに、プロイセンは目をしばたたかせた。
「単独で帰す気か? 何考えてんだ」
ここへ連れてこられたときと同様、帰り道だって拘束と見張りが必要だろうに、ロシアはそれらを用意する素振りを見せない。
不可解そうに眉をしかめるプロイセンに、ロシアが言った。
「看守なんて必要ないでしょう。きみはもう、敵でも異国でもなく、我が国の一員なんだから」
微笑みながらそう通告すると、ロシアは自ら執務室の扉を開けた。プロイセンは唇を噛み締めると、足早に廊下に出た。
「じゃあ、またね」
のんびりと手を振るロシアには振り返らず、プロイセンはひとり廊下を歩いていった。すれ違った職員が、当たり前のように彼に挨拶をしてきた。いまさらながら、ひどい喪失感が彼を襲った。
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