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消えたきずあと


 片手を上げてにこやかに挨拶をしてくるロシアに、プロイセンは形式ばった敬礼を返した。皮肉ではなく、場所と立場をわきまえての行動だった。
「そんな堅苦しいことしなくていいのに」
「勤務中ですから、同志」
 彼はまるでマニュアルの音読を録音されたレコーダーのようにそう答えた。ロシアはやれやれと肩をすくめると、滞在中の宿泊先に彼を招いた。
 基地内の宿泊所は整頓されて清潔ではあったが、どこか陰鬱だった。低い天井、高い位置にある小さな窓、暗い照明。空間的な狭さに加え、心理的な圧迫感が強い。
 中まで入るのがためらわれ、プロイセンは入り口で棒立ちになっていた。一足先に入室したロシアが、手招きとともに彼を呼ぶ。了解、と短く答えてから、彼は足を踏み入れた。
「報告は受けてるよ。もう監視はいらなくなったんだって?」
 椅子に座ったロシアが、書類に目を通しながら尋ねてくる。彼の正面に立つプロイセンは、軽く両腕を広げた。
「ああ……もう自分で傷開いたりなんかしねえよ。開ける傷なんざ、なくなっちまったんだから」
 左腕を折り曲げ、胸元に手の平を当てる。かつて傷のあったあたりだ。
「傷、よくなったの」
「ああ」
 彼は小さくうなずくと、ぱたりと腕を下ろして所在無さげに立ち尽くした。伏し目がちな彼の様子に、ロシアが眉をしかめる。
「その割に元気がないね。どうしたの」
 落ち込んでいるのとは違うが、活力が感じられない。姿勢は軍人然としているし、声量もそれに見合ったものだが、どこか声に力が感じられなかった。
 プロイセンは露骨に視線を逸らして部屋の角を見やったが、姿位十秒の沈黙ののち、目を閉じながら長く息を吐くと、ぼそりと答えた。
「……怖いんだ」
「何が?」
 プロイセンはすっとまぶたを上げると、自嘲が強く現れた暗い笑顔を向けた。
「こうして平気な顔しておまえの前に立てる自分が。……おまえを、もはや憎めなくなっていることが」
 はじめて体を奪われたとき、自身の肉体の境界線が消失するような恐怖に見舞われた。過去も記憶もアイデンティティも、すべてこの男に奪いつくされるような。
 だが、いまや自分はどうしている? 恐れもなく――これはけっしていい意味ではない――こいつの前に立っている。この男に存在を保障されながら。敵だった相手は、現在では己の上に君臨する支配者だ。いや、支配されるだけではない、自分はこいつに依存しなければ生き永らえない立場なのだ。そしてまた、自己の存在を放棄するという選択も許されない。強制的に生かされている。
 落ちぶれたものだ。プロイセンはせせら笑おうとしたが、うまく表情をつくれなかった。
「平気って感じの顔色じゃないけど……確かに以前ほど緊張してはいないね」
 ロシアが頬に手を伸ばしてきた。プロイセンは腕を上げると、彼の手を上から包むように握った。
「感じるんだ……この身がもはや元の自分のものではなくなりつつあるのを。いや……もうなくなったのか」
 制服を脱ぐと、シャツのボタンを外して左右に開いた。現れた裸の胸には、かつての創傷はなく、新しい皮膚が張っていた。まだ色素沈着が進んでいないのか、首の辺りに比べると色が薄く、やや白っぽさが残っていた。
 ロシアは立ち上がると、無言で胸や腹を見せるプロイセンの手首を取り、一歩前に寄らせた。そして襟の中あたりを掴むと、ゆったりとした動作でシャツを肩から滑らせた。肩や肩甲骨、上腕を露出させられたプロイセンはひやりとした外気にかすかに首をすくめたが、何の抵抗もせず、ただその場に佇むだけだった。
 床に布が落とされる。上半身を剥き出しにされたプロイセンは、しかし動じた様子もなく、目の前の相手を見つめている。ロシアが上腕を引いて体を反転させてきたので、されるがまま、回れ右をする。背側の皮膚も、腹側と同じく治癒の痕跡がほんの少し残っているだけだった。ロシアはそれを確認すると、再び彼と向き合った。
「ほとんど治ったようだね」
「ああ、きれいなもんだろ」
 プロイセンは左手で右肩を押さえると、視線をそちらに落としながら、落ち着いた声音で話し出す。
「このへんにさ、ガキの頃受けた剣撃の跡があったんだ。薄くはなってたけど、けっこうでかかった」
 ロシアは指で示されるあたりを眺めるが、彼が説明するような切り傷は見当たらない。
 プロイセンはふっと皮肉っぽい笑みをかたちづくると、話を続けた。
「不名誉なことに、背中も斬られてる。脚のほうにも斬られた痕とか銃創があった。ほかにも、いっぱい怪我の跡はあった。けど……きれいに治っちまった。おまえの言ったとおり、消えちまったんだ」
 彼の面に、ふいに寂しそうな笑みが現れた。それは泣きそうな面持ちではなく、年をとった病床の人間が、遠い昔の青春の日々を、もう戻らない若き日々を回想するような、ある種の儚い渇きがあった。
 ロシアは目を細めながら、彼の胸に手を這わせた。
「本当に、きれいになったね。あれだけ傷が開いてたのに」
 す、と指の腹を鎖骨の間から真下へと下ろしていく。接触するかしないかといった微妙な感触に、プロイセンが眉根を寄せた。
「んっ……」
「痛みはもうない?」
 聞きながら、以前皮膚が剥がれていた部位を繰り返し撫でる。
「ない。もう、何も。……ぅん、あっ……体力も、大分、戻った。体、楽になってきた。……っ……ん……」
「そう。よかったよ」
 ロシアは彼の体を引き寄せると、その肩越しに背中を見やった。そして脇腹から腕を回してうなじに指を置くと、頚椎から胸椎へと、ひとつずつ確認するように辿っていった。
「っあ……」
 ロシアの肩口に顔を埋めたプロイセンが声を上げたかと思うと、はあ、と緩やかに息を吐いた。ロシアは構わず指を下ろす。やがて胸椎から腰椎に変わるところに辿り着くと、彼はふいに手の動きを止めた。そして右へと指先を伝わせる。と、途中で不自然な感触を覚える。反対側――左のほうにも触れてみるが、そちらは特におかしな点はなかった。
 ロシアは彼の肩から首を乗り出すようにして背中を覗き込んだ。自然、相手の体を抱き締めるような体勢になる。
「ここは治ってないんだ」
「うん……?」
 息苦しさに顎を上向かせながら、プロイセンが生返事をした。何について問われてるのか理解できていないようだ。ロシアは彼の背側の肋骨のラインを指で辿った。
「あばら。ここ、ないでしょ。前から」
 背中の肉をやや強めに押さえると、右側の二本の遊離肋骨の感触があった。胸椎から伸びるそれは、本来の長さよりも手前で途切れている。そこから先には、骨がない。
 ようやく合点がいったらしいプロイセンが、感心なさそうな様子で答える。
「ああ、そこな。取っちまった骨はさすがに再生しねえだろ」
「摘出したの?」
「ああ。部分的にだが」
 右の第十一、第十二肋骨に欠損があることは知っていた。満身創痍で投降した彼を捕らえたあと、治療にあたった軍医が指摘していたから。その頃の彼の背中には、手術をしたと思しき派手な切り傷と縫い目が残っていた。術式の粗さや傷の様子からして、古傷のようだったが、受傷の時期や原因について尋ねたことはなかった。
「元はあったんだ?」
「そりゃな……っんん」
 ロシアが骨の欠けた部位に圧を掛けてきた。痛みはないが、なんとなく異様な感覚が走り、プロイセンはうめいた。
「戦傷?」
「昔ヘマった。古傷さ。おまえにやられたときにゃすでに取っちまってた」
 ロシアは不思議そうに彼の背を見つめながら、指を立てて撫でた。
 いまはもう、手術痕はどこにもない。皮膚を切開した痕跡すら残っていない。この下にあるはずの肋骨の一部がすでに摘出されてなくなっているなど、外見上からは想像もつかないだろう。
「触らないとわからないね。見ただけじゃ、全然。元からなかったみたい」
「外の傷は消えたからな。きれいさっぱり」
 そう。消えてしまった。ロシアの手に落ち、再建という変貌を遂げる街の姿に合わせて、プロイセンがプロイセンであったときの傷は消えていった。
 だが、摘出された肋骨は元には戻らなかった。体の中にある傷と欠損は、過去の時間を留めたままだ。彼にわずかに残された、昔の傷。
「そうだね、外はきれい。でも、中は欠けたまま」
「ぅん、は……いまさら、にょきにょき生えてきたら、そっちのほうが……っは、気持ち、悪ぃだろ」
「不思議だね。見た目はきれいなものなのに、中の骨はいびつに切られてるなんて。……痛む?」
 押さえると時折うめき声を上げるプロイセンに、ロシアが尋ねる。プロイセンは彼の腕の中で小さく頭を左右に振った。
「いや、別に。普段は忘れてる、肋骨がなくなってるってこと自体」
 ロシアは彼の肩に額をつけると、ぎゅっと背中を抱き締めた。
「こればっかりは、治してあげられそうにないな」
「必要ねえ。特に困ることはない」
 深すぎる場所にある欠損までは癒せない。
 ロシアの腕の力がいつになく強くて、少し背中が痛い。いったいどうしたというのか。プロイセンが体を離そうと身じろいだとき、彼が首筋に鼻先を寄せてきた。プロイセンは腕を上げると、そのまま彼の顔を自分の肩口に押さえつけるように頭を抱いた。首や顔にあたる他人の頭髪がこそばゆい。
 いつからか、彼はロシアに抱かれることに恐怖や嫌悪を覚えなくなった。体をつなげるとき、相手との境界が溶けて消えるような錯覚はいまでも感じる。だが、それはもはや彼の心に恐怖を呼び起こすものではなくなっていた。あんなに怖かった行為が、いまでは逆に安堵をもたらす。それは着実に同化が進んでいることを意味していた。
 ああ、俺はもうこいつのものなのか。こいつの一部なのか。
 いつか完全に同化してしまう日が来るのだろうか。だが、それも悪くない――抱かれながらそんな考えがよぎった。
 あとになって振り返ったとき、同胞への罪悪感に苛まれた。だが彼にはもう、ロシアへの同化を止める術はなく、異質な相手に侵食されていく自分を他人事のように見つめるだけだった。




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