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思い出を片付けて


 家の大きさと部屋数に対して家具が少ないため、二時間もすると大方の配置は済んだ。細かい整理はこれからだが、とりあえず食べて寝るくらいは可能な空間となった。
 ロシアは何をするでもなく、プロイセンがひとり引っ越しの作業をするのを眺めていた。通路に立つと文句を言われるが、邪魔にならない場所で立っている分には邪険にされなかった。
「う〜……疲れた。このへんにしとくか」
 プロイセンは出窓に浅く腰掛けると、首の仰け反らせて背筋を伸ばした。夕日に照らされた淡い金髪がきらめく。窓枠に半分ほど収まった彼は、オレンジ色をバックにした絵画の中の住人にも見えた。
「やっぱりこういう建物のほうが肌に合う?」
 疲れたと言いつつリラックスした様子のプロイセンに、ロシアが尋ねる。プロイセンは脚をぶらつかせながら首を傾げる。
「どうだろうな。アパートの狭い部屋も、嫌いじゃなかった。掃除が楽だ」
 答えながら、首をひねって窓の外を遠い目で眺める。淡白な声だった。どちらの部屋にも感心がなさそうな。
 ロシアは、プロイセンの手によって家具の配置されたリビングを改めて見渡した。必要なものはひと通り揃えられたというのに、どこか空疎な印象が拭えない。
「ひどく殺風景だね」
 端的な感想を漏らしながら、ロシアが窓辺に近づいた。
「必要なもんしか持ってこなかったからな」
「あとのものは?」
「捨てた。いらねえもん残しといても、掃除が面倒になるだけじゃん」
 プロイセンの声音はやはり淡々としていた。ロシアは数時間前に彼のアパートで目にした《いらないもの》を思い出した。その多くは、彼がかつて愛読していたであろう書籍だった。もちろん、彼の母語の。その中には古い手紙や写真もあった。目立ちたがりの彼らしく、写真の多くは中央に彼がいた。だが、意外にもひとりきりで写っているものは少なかった。同じフレームにはたいてい、あの青年も収まっていた。遠慮しているのか恥ずかしいのか不本意なのか、青年は少し距離を置いて並んでいることが多かった。中には、プロイセンに絡まれるようにしてぴったりくっついているポーズもあったが。
 主に捨てられたモノクロの写真たちはいま、軍用車の荷台の中に詰め込まれている。彼の依頼に従えば、数日後には処分される運命だ。
 何のためらいもなく処分してくれと言ってきた彼の姿を思い返しながら、ロシアはかすかに目を細めた。
「それでアパートにあれだけたくさん残ってたんだ。にしても、ずいぶんいろんなものを捨ててきたみたいだね。前の部屋、けっこうごみごみしてたのに」
「ま、こういう機会でもなきゃ捨てるのも億劫だからな」
 いい機会だった、とプロイセンは虚勢を張るふうでもなく肩をすくめると、ひょいと出窓から下りた。そして、燃える夕焼けがまぶしいのか、取り付けたばかりのカーテンを引いて遮光した。
 急に薄暗くなった室内で、しばしの沈黙が下りる。プロイセンはカーテンレールのネジの緩みが気になるのか、ベルトにぶら下げた工具用ポーチからドライバーを取り出し、背伸びしてネジをいじり出した。
 じわじわと、夜の時間が近づいてきた。電気はすでに通っているが、照明に不備があるので、光源を得ることができない。室内はますます暗くなっていった。
 視界が悪くなる中、プロイセンは作業を諦めたようだった。と、ふいにロシアが口を開いた。
「お城、なくなっちゃったね」
「城?」
 唐突な話題の切り出しに、プロイセンはすばやくまばたきしながら聞き返した。ロシアはカーテンを捲ると、薄闇の広がる外をガラス越しに指差した。
「うん、あっちのほうにあったよね。前の部屋からなら、よく見えたはずだった」
 ロシアの人差し指が示す方角。それは、かつてこの街の城があった場所を示している。過去形なのは、いまはもうないからだ。少し前、城は爆破され、取り壊された。解体作業が終われば、別の建築物が建てられる手筈になっている。
 プロイセンは彼の示す先にぼんやりとした視線をくれた。
「ああ、昔はな。いい眺めだったぜ」
 ふ、と笑みともため息ともつかない息を漏らす。
「うん、見たことある」
「よかっただろ」
「そうだね」
 ロシアはシンプルに同意した。確かにあの城も街並も美しかった。もっとも、それ以上の感想を抱いていないが。七世紀に渡る歴史は彼のものであって、ロシアのものではない。思い入れや感慨が湧くはずもなかった。
 だが、それらを掻き立てられて当然であるはずのプロイセンの表情には、感傷や悲嘆や寂寥の色はない。諦念すら窺えない。ただ静かに外を見ていた。その目に映じるのは、あるがままのいまの姿か、それとも、在りし日の思い出か。
 と、プロイセンがおもむろに腕を曲げ、背中に手を当てた。酷使して凝った筋肉を伸ばそうとしているようでもあったが、それにしては動きが小さい。その手の位置が、ふいに意味ありげに感じられ、ロシアが尋ねる。
「背中、痛いの?」
 プロイセンの右手は、肋骨の最下部のあたりに触れていた。骨の欠けた場所。
「いや、全然。なんでだよ」
 プロイセンは不思議そうに首をひねりながらも、あっさりと否定してきた。
「……なんとなく」
 ロシアは曖昧に答えると、一歩横に移動してプロイセンの真後ろに立った。彼の脇の下から腕を回して腹のあたりで手を組み、体を自分のほうへ引き寄せる。プロイセンは引かれるがまま、軽く体重を預けてきた。必然的に彼の背はロシアの胸に密着した。
 ロシアの腕の中で、彼はずいぶんと落ち着いた様子だった。自分で体重を支える必要がないのが楽なのか、はたまた疲れが溜まっているためか、軽く目を閉じて少し眠そうな顔を見せる。
「ちょっと前まで、不穏なことしては病院に入れられたり、拘束されたり監視されたり……なんてことをしていたひととは思えないね」
 ロシアが苦笑すると、プロイセンがすっと目を開けた。
「蒸し返すな。それに、ちょっと前じゃねえよ、何年も前だ。あんときは傷が疼いてさ、ほんと不快だったんだから、仕方ねえだろ」
 当時の醜態を掘り返されるのが気に入らないらしく、プロイセンは軽く唇を尖らせた。もっとも、抗議らしい抗議の態度といえばそれだけだったが。
「いまは落ち着いてるね」
「慌てる理由は特にないだろ」
 ロシアは腕を上げると、身を委ねてくるプロイセンの髪を梳いてやった。
「ん……」
 彼は心地よさそうに目を閉じた。かつてあれほど拒否と恐怖を示した接触を、いまでは全面的に受け入れている。それは諦観を伴う順応なのか、あるいは同化による拒絶反応の消失なのか。
 ロシアは背後から被さるように彼を腕の中に閉じ込めた。体温が溶け合って同一になったのか、温かいとも冷たいとも感じなかった。彼が徐々に自分に近づいていることは確かだった。最初は水と油のようにどう足掻いても混じり合うことがなかったが、年月を経るうちに彼は異質なものを受容するようになった。いや、彼自身が相手に適合するように変化したと言ったほうが正しいだろう。異国に取り込まれた彼はいつしかその一部となった。数多の苦悩を呑み込んだ末に。
 そうして彼は同胞たちを思い出すのをやめた。いや、心の内では彼らを想い気に掛けているのかもしれないが、その素振りを見せなくなって久しい。もっとも、ここしばらくはこちらからも話題を持ちかけていないのだが。
 ロシアはふいに思い立ってプロイセンの耳元に唇を寄せると、ささやき声で言った。
「最近は、彼のこと――」
 質問は語尾を待たずに遮られた。相手の唇によって。
 首をひねって顎を持ち上げたプロイセンが、音もなくロシアに口づけていた。内側の熱も同じなのか、互いの体温を感じることはほとんどなかった。その分、舌や粘膜の感触をはっきりと感じ取る。
 やはり無音のまま、プロイセンはそっと唇を離した。軽く目を伏せると、彼は消え入るような小さな声で呟いた。
「俺はもう、おまえのもんなんだろ」
 その言葉を彼の口から聞くのははじめてではなかった。
 彼は時折そんなことを言う。ロシアに向けて。
 自己暗示とも自己受容ともつかない口調で、ただ静かに言うのだ――俺はおまえのものなんだ、と。
「そうだね」
「そうさ」
 肯定するロシアに生気のない声音でそう返すと、プロイセンは首を元の位置に戻した。そして、再び後傾してロシアにもたれかかる。横から覗き込むと、光の宿らない瞳がちらちらと見えた。
 ロシアは右手で彼の額から目元に掛けてを覆うと、その体勢を維持したまま彼の首筋に顔を埋めた。
 プロイセンは一瞬ぞくりと反射的に背筋を震わせたがすぐに緊張は解け弛緩した。幾度となく重ね合った体は、相手の熱や感触に慣れ切っていた。
「なんだよ」
「なんでもない」
 ロシアの行動の意味はわからなかったが、プロイセンは振り払おうとはしなかった。
 慣れた感覚は無条件の安堵をもたらす。こうしてただ抱かれていることがわけもなく心地よかった。そう認めるのは、不本意ではあったけれど。
 ロシアの手の平の下で、プロイセンは静かに目を閉じた。まつげの先が、相手の皮膚をくすぐるようにかすめていった。




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