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思惑はさまざまに


 緊迫したムードのまま進行した会談は、それでも無事終わりを迎えた。
 長かった……だが、これで終わった! プロイセンは小会議室から会談の相手――ドイツとフランス――が退出していったのを見届けてから、ソファに身を投げ出した。
「お、終わった……! はーっ、めちゃめちゃ疲れた……」
 全身を弛緩させてぐったりと仰向けになり、脚がアームレストから飛び出るのも構わず四肢を放り出す。緊張の連続だったせいか、運動したわけでもないのに筋肉が疲労している。これだったら半日延々行進の練習でもしていたほうがましかもしれない、と彼は本気で思った。
 と、ふいに思い立って頭を上げ、紅茶で一服しているロシアを見やる。
「おい、今度こそこれでおしまいだろうな? これでこのあと夕食会だとか言ったら、俺ほんと倒れるぞ?」
 すでに本日二回不意打ちを食らっているので、彼は疑心暗鬼になって尋ねた。ロシアはくすりと笑った。
「スケジュールはこれで終了。あとは一泊して帰るだけ」
 プロイセンはしつこくもう一度、本当だな? と確認してから、改めてソファに沈んだ。しばらく微動だにせず体を休めていたが、同じ姿勢を続けるのが苦しくなり、寝返りがてら口を開く。
「なあ、なんか結局俺がここにいた意味なかったんじゃね? 言いたいことはほとんど全部おまえが言ってたし、まじで単に座ってただけのような」
 EU側の代表ふたりの相手をしたのはもっぱらロシアで、プロイセンは横で座って聞いているか、ときどきロシアにいじられるくらいだった。
「いや、あれで十分。きみはお勤めを果たしたよ。ご苦労様」
「なんだよ、俺はお飾りだってか?」
「まさか。きみは重要なんだよ、本当に。だからここに来てもらったんだ」
「ふうん……」
 ロシアの言わんとしていることが、理解できないではなかった。この問題で交渉を有利に進める材料――それがプロイセンの役割だったのだろう。収穫はまだ確定していないが、ロシアの立ち回りは悪くはなかった。それなら確かに俺は俺の仕事をしたってわけか――プロイセンはもやもやしたものを抱えながらもそう結論した。
 目を閉じて考え事をしたいところだが、そうするとまぶたの裏側に先ほどの会談で正面に座っていた相手の表情がちらついて、かえって集中できなくなる。
 せっかく職務から解放されたのに、なんだか気持ちがすっきりしなかった。

*****

 ホテルのラウンジでフランスは一人掛けのソファに座り、渇いた喉をドリンクで潤してから、ぶつくさと文句を垂れた。
「ったく、ロシアめ……ドイツを散々突付きやがって。ことあるごとに『カリーニングラードはロシアのもの』なんて主張してくれて……ンなこたあいつだって了解してるってのに。プロイセンの野郎もすっかりおとなしくしちゃってまあ……」
 つい数十分前の記憶――会談の様子――を頭の中で反芻する。
 カリーニングラードなる者が参加すると聞いたときから予想はしていたが、ロシアはやはりドイツにターゲットを絞ってきた。なかなか攻撃的で挑発的なことを言ってくれたもんだ。フランスは背もたれに体重を預け、疲労感のにじむ息を吐いた。ドイツが不用意な発言をする可能性は低かったが、それでも向こう側にプロイセンの姿があったのでは、平静を保つには不利を極める。そのためフランスは、相手方の動向を見張るとともにドイツの反応にも常に注意を払わなければならなかった。疲労も倍増というものだ。
 まあ、ドイツのやつはもっと疲れてんだろうが――と思っていると、そのとおり憔悴の窺える顔をしたドイツが、廊下を歩いてこちらに向かって来るのが見えた。
「フランス、少しいいか」
「おう、ドイツ。お疲れさん。どうした?」
 座れよ、というフランスの言葉に従わず、ドイツは立ったまま、通路やラウンジの周囲に注意を払いながらぼそりと質問した。
「おまえも……やはりあれはあいつだと、プロイセンだと思うか?」
 自信がない、というのとは少し違うが、ためらいがちな口調。フランスは驚いて目をしばたたかせた。
「え、なに、おまえまだ確信がなかったの? 一目瞭然じゃん」
 ドイツは口元を片手で押さえると、神妙な顔つきになった。
「いや、俺もそうだと思うが……なんというか、こう、違和感があってな」
「それは俺も感じたが……まあ、経緯を考えればそれも仕方ないんじゃないか。変わりもするだろう、半世紀もあんな条件の中で生きていればさ。ひでぇ環境だもんなあ、あの写真やら映像やら見る限り」
 フランスの弁に、ドイツはこくりとうなずいた。
「ああ、そうだ、変化があった。だから俺はあの男を……あいつだと思いたくないのかもしれない」
「なるほど」
 自分の知らない間にすっかり変わっちゃったあいつに戸惑って、それで否認してるってわけね。典型的な防衛機制だな。フランスは相手の心理をそのように推測したが、口に出したのは別のことだった。
「けど、向こうから見りゃ、おまえだって十分変わっただろうよ」
 フランスはぴっと指先をドイツに向けた。
 指摘されたドイツは、きょとんとしている。
「……そうなのか?」
「おまえと俺が仲良く並んでお話なんて、ぶったまげたんじゃね?」
「……それはまあ、確かに」
 もっとも、ドイツのことなので、そのためにプロイセンが不機嫌になっていたという点には気づいていないだろうが。
「でも、ま、あいつの変わりようのが上かもしれねえな。見たところそんなたいして態度が変わった感じじゃねえけど……」
 どう表現すべきか迷い、フランスが語尾をしぼめた。と、ドイツがあとを続ける。
「ああ、一見すれば昔のまま、生意気に見える態度だ。だが、あれは本気で噛み付いているわけでも、反抗しているわけでもない。むしろ逆だ。本質的にはけっして逆らわないという前提があるからこそ、許される言動だろう。ロシアもそれを理解したうえで、あいつのフランクさを許容しているのだと思う。……あいつからの服従を取り付けている証拠だ」
 ドイツは苦い顔で己の分析を述べた。やっぱり見るとこは見てて冷静だな、とフランスは感心した。彼の見解も概ねドイツと一致する。
「ま、あいつ、元々権威に弱いしな。しかし、それにしたって、おまえの目の前であの態度とは……ロシアのやつ、いったいどうやって挫かせたのやら」
「それは……あまり想像したくない」
「……だな」
 ぽつりと、けれども真実味のある口調で呟いたドイツに、フランスは同意した。愉快な想像にならないのは明白だ。だからといって、具体的に何を想像できるわけでもない。そうするには、あまりに手持ちの情報がなさすぎる。なにしろ、彼の存命を知ってから、まだ四十八時間ほどしか経っていない。空白の五十年は真っ白どころか透明で、空想の上書きすらままならない。
 同じことを考えていたらしく、ドイツが独り言のように言う。
「俺たちの、俺の知らない半世紀の間に、いったい何があったのか……」
「まじであのあたりは謎に包まれてたしなあ。しかし、大戦末期から行方不明になってたやつが二十一世紀になって見つかるとはね……しかもこんなとこで」
「カリーニングラード、か……」
 ドイツは顔をうつむけて目を伏せた。思うところがありすぎて、思考がまとまらない。
 黙り込んだ彼に、フランスが低い声で警告する。
「いまさらおまえがごねるとは思っちゃいないが……あいつはもう完全にロシアんとこのもんだ。たとえ個人的な場であっても、下手なことは言うなよ」
「承知している。ロシアがいまさらあいつを手放したりはしないだろうということもな。あの土地は確かに地理的に重要だからな。ロシア自身は一貫して移動の自由の保障を語っていたが、この問題における深層の主張は別のところ――いま言った点に尽きるだろう。あの土地は間違いなく、ロシアにとって重要だということだ」
 あの土地――カリーニングラード――ケーニヒスベルク――プロイセンの古都。
 記憶の中の、少し若い姿をした彼と、先ほどまで向かい合っていた、気まずそうな顔つきの彼。重なり合い、混ざり合ったかと思うと分離し、そしてまた重なる。あの男は本当に、自分の知っている彼なのか? 根本的な疑念が湧く一方で、あの人物が彼に違いないと確信している自分もいる。
 自身の心のありかがわからず、ドイツはぐっと拳を握った。
 彼らにとっては悲劇的な映像を前にして、握り込んできた彼の手の平や指の感触、体温、力が、まだそこに残っているようだった。

*****

 そろそろ帰ろうとロビーに向かうと、フロントでなにやら書類を書いているロシアの姿を見つけた。
 ドイツは足が止まった。どの方向へ進もうか、迷いが生じる。予定していた進路を取ってまずいということはないのだが、なんとなくためらわれた。
 と、ロシアが彼に気づき、軽く手を上げて挨拶をしてくる。通路の真ん中で立ち尽くすのも挙動不審かと、ドイツは結局そのまま前へ進んだ。ロシアの手前で立ち止まると、
「やあ、お疲れ様」
「ああ」
 向こうから先に、和やかな調子で話し掛けてくる。すっかりいつもののほほんとした笑顔で、会談の折に見せた地味に攻撃的な態度はすっかり鳴りを潜めている。ドイツは、いまはオフだと自分に言い聞かせながら、会話の糸口を探した。
「もう戻るのか?」
「うん。あ、っていっても、モスクワじゃなくてホテルにね」
「一泊していくのか」
「うん。帰るのは明日」
 特に不自然なことは聞いていないはずだが、どこかぎこちない気がしてならない。
 やはり俺はこういうのは苦手だ。ドイツは早々に「自然な会話から情報を引き出す」という作戦を諦め(イギリスやフランスなら上手にやるかもしれないが)、自分にもっとも合った手段を適用することにした。
 すなわち――
「オブザーバーは? 姿が見えないが」
 単刀直入に尋ねた。
 ロシアは、先刻までと変わらないのんびりした口調で答えてきた。
「彼なら先に宿に帰ってもらったよ。これから会議のまとめをつくらないといけないからね」
「そうか」
 本人が近くにいないことを確認し、もう少し質問をしてみようとドイツが考えた矢先。
「用がないなら僕もそろそろ戻って仕事するよ。でないと、今会議を有意義なものにできないからね。問題解決の目処は立っていないわけだし、ちょっとでも前進させないと」
 ロシアが踵を返そうとした。
 聞きたいことがあるんじゃないの?――そんな挑発が聞こえてくるようだった。
 ドイツは乗っていいものか迷ったが、立ち去りつつある相手を前に熟考する猶予はない。
「待て」
 引き止めると、ロシアが足を止めて振り返った。
「少し、聞きたいことがある」
「何かな?」
 ドイツは動揺した双眸で相手を見た。自覚はあったが、直そうともしなかった。どうせロシアには、こちらが落ち着きを欠いているのは見抜かれているだろう。いまさら取り繕っても意味はない。
 彼はごくんと空嚥下を一度したあと、
「あいつは……プロイセンなのか?」
 婉曲という言葉自体を知らないかのような、直接的でピンポイントな質問をした。
 ロシアは目をぱちくりさせると、
「あいつって?」
 わかっているだろうに、わざわざ人称代名詞が示す対象を明らかにするよう求めてきた。
「おまえのところのオブザーバー……カリーニングラードと名乗ったやつだ。彼はプロイセンなのか?」
 対象の名前を出すと、改めて質問をし直す。険しい目つきのドイツとは対照的に、ロシアはどこかおっとりした動作で首を傾げた。
「紹介したとおりなんだけどねえ」
 ますます剣呑になるドイツに、ロシアはやれやれと肩をすくめる。
「納得してなさそうだけどさ、僕が言った答えを、きみは信じるの?」
 無言のドイツに、ロシアはくすりと余裕のある笑みを浮かべる。
「気になるなら直接本人に聞いたらいいのに。そうできない理由でも?」
「……おまえの支配下にあるやつの言葉を、そのまま信じると思うか?」
「それこそ、僕に尋ねる意味がわからないな。矛盾してるよ。まあ、信じないかもしれないけど、一応言っておこうかな」
 と、ロシアは後ろで手を組んでドイツを見つめてきた。
「僕は彼に対して、他国と話してはいけないとは言っていないよ。無論、うちの不利益になるような情報漏出はアウトだって言い含めてあるけど、まあこれはどの国でも同じ、常識というものでしょう。きみが彼に用があるというのなら、個人的に会って話してもらって構わない。僕は彼に、きみと話すなとは特に言っていないし、会うなとも言っていない。にもかかわらず、もし彼がきみと口をききたがらないのであれば、それは彼の意志じゃないかな」
 話すも話さないも、きみの、きみたちの自由だ。言外にそう告げられる。ドイツは軽く目を伏せてから、再びまぶたを持ち上げた。
「カリーニングラードか……かつてはケーニヒスベルクだった。そうだな?」
「彼はカリーニングラードだよ」
 現在形でだけ答えてから、ロシアはふいにトーンを落としてドイツに言った。
「ずいぶんとつらかったみたいだよ、そうなる・・・・のは。ひどく苦しんでいた。かわいそうなほど。きみには想像もできないだろうね。まあ、見ていた僕にもその本質はわからないんだけど」
 抑揚のない声。けっして冷たくはない。だがドイツはそこに、空寒い響きを感じた。
「何を……したんだ」
 内臓を捕まれるような嫌な感覚が走り、ドイツはにらむというよりは絶望したときのような強張った表情をロシアに向けた。
「怖い顔。言ったでしょう、彼は僕にとって重要だって。だからまあ、そのような扱いをしているよ」
 ロシアはもう元の調子に戻っていた。再度つま先を出入り口へと向けると、
「僕たちは明日の午前中にはここを発つ。用があるならそれまでに。宿泊先は知ってるでしょ?」
 肩越しにドイツを振り返りながらそう言い残し、去っていった。




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