トップのカリグラシリーズの一部ですが、露普要素がかなり強いので、隔離しました。普独/独普派の方には大変申し訳ない内容です。これを飛ばしても話の内容は概ね通じると思いますので、どうか無理はなさらないようお願いします。
普が露に大分なついちゃっている感じです。苦手な方はご注意ください。
その道は戻れない
宿泊先のホテルに戻り、滞在中の部屋にドアを開けると、すでに先客が居た。
「おー、ようやく帰ったか。パソコンはセットしといた。アカウントとパスワード入れればすぐ使える。資料のデータはこっちのケースだ」
テーブルの隅で自分のノートパソコンのキーボードを叩きながら、プロイセンがセッティングに関する報告をしてきた。自分の部屋ですでに着替えてきたようで、上着とネクタイはなく、ワイシャツを腕まくりしている。
会談のあと、仕事の準備をしておいて、と言ってスペアキーを渡して一足早く帰したのだが、本当に言葉どおり準備万端に整えてくれたらしい。ロシアの分のパソコンと外付けの機器一式がタコ足配線でつながれ、資料はすでにファイリングされていた。
ロシアは呆れていいのか感心するべきなのかちょっと迷いつつ、すっかりごちゃごちゃした室内に入っていった。シングルルームだがそこそこの広さはあるので、さすがに足の踏み場もないということはないが、コード類が脚に絡みそうではある。彼はスーツのジャケットを脱ぐと、配線を崩さないよう気をつけながら壁に近づき、ハンガーを手に取った。
「遅くなって悪いね」
「まったくだ」
「ちょっと捕まっちゃってて」
ジャケットの掛かったハンガーをフックに吊るしながら答える。と、プロイセンが途端にうろたえた声を上げた。
「な、何したんだよ? 頼むから出張中に他国の警察騒がしましたとかやめてくれ」
本気で心配そうな彼に、ロシアはぱたぱたと手を振る。
「いや、そういう意味の捕まったじゃなくて」
「なんだ、犯罪やらかしたわけじゃないのか」
その否定の動作があまりにも素朴だったためか、信じる気になったらしい。プロイセンはあからさまにほっと胸を撫で下ろした。ロシアは特に気分を害したわけではないが、ちょっとだけぶっきらぼうに言ってみた。
「当たり前でしょう」
「いまいち信用ならん」
即答するプロイセン。
「ひどいなあ。今日はウォトカだって持ち歩かなかったのに。きみに取り上げられちゃったから」
「当たり前だ。燃料なら前日に補給すりゃいいだろ」
「じゃ、終わったことだしもう解禁だよね。買ってこようかな」
「モスクワ戻るまで我慢しろ。そのへんで酔っ払って当局のお世話になったらどうする」
頑として譲らないプロイセンの背後に立ち、軽く両肩を掴んで懐柔を試みる。
「まあまあ。きみの分も買ってきてあげるから」
「ウォトカは口に合わん」
「ビールは?」
選択肢をひとつ増やすと、それまでつれない態度で淡々と作業をしていたプロイセンの指が、ぴたりと止まった。
「ビール……いや、俺も我慢するからおまえも我慢しろ」
そう答えたものの、誘惑と戦っているのか、明らかにミスタイプが増えている。わかりやすすぎる反応にロシアは苦笑した。
彼はプロイセンの肩から首へと、指の腹でなぞるように手を移動させた。浅い筋肉の走行に沿って首筋から顎へと撫で上げみる。
「おい、やめろ、こそばゆい」
「捕まったっていうのはね、ドイツくんに話しかけられたからだよ」
「え……」
唐突にひとつ前の話題に戻ってその詳細を少しばかり述べてやると、プロイセンは露骨にぎくりと硬直した。緊張が舞い戻ったのか、ごくんと唾を飲み込むのが、喉仏に触れる指先からはっきりと伝わってくる。
「気になる? 何を話したのか」
「……会議のことか?」
「無関係じゃないけど、ま、もう少し個人的なことかな」
「個人的? プライベートで話すネタなんかあんのか、おまえらの間に」
「そりゃあるよ」
「……なんだよ」
「わかってるくせに」
ロシアはプロイセンの座る丸椅子を回転させて自分のほうを向かせると、彼の顔を両手で正面に固定させて、いささか脈絡に欠ける質問をひとつ投げかけた。
「ねえ、彼のところへ戻りたい?」
透明な声音だ。脅迫や好奇心の色は少しもにじんでいない。それゆえ、質問者の意図は不明瞭だ。プロイセンはロシアの考えをはかりかね、困惑しながらも、ぽつぽつと答えた。
「戻る、ねえ……なあ、何をもって戻るって言うんだ? どこへ行くことが戻ることになるんだ? 俺んちの大元はケーニヒスベルクだぜ? 元いた場所といまいるところが同じなら、戻るって表現は的確じゃねえだろ。名前や景観が変わったからって、過去までは変わりはしない」
まるで言葉遊びだな、こんなのはただのはぐらかしに過ぎない――プロイセンは自身の発言を心中で嘲った。ロシアが何を考えているのかは定かではないが、質問の意味くらいわかっている。
両頬を挟まれているので顔を逸らすことはできない。だがはっきりと相手の双眸を見ることもできず、彼は目を伏せ、眼球の動きで視線を下に向けた。
「そうだったね。きみはもう僕のものなんだから、いまさら返してはあげられないかな」
ロシアの言葉に、プロイセンはぎゅっと目を閉じた。
「わかってるさ。そのつもりもない。俺はもう――」
――戻れない。戻れるはずもない。これだけ変わってしまったいま、戻れる場所があるものか。
プロイセンはしばし瞠目した。この回答に偽りはない。心などとっくに決めている。自分はもう、いまの立場で生きるよりほか、道がない。何十年も前に突きつけられた現実。拒絶も抵抗も意味を成さない、ただそこにあるだけの、けれども厳然とした現実。受け入れるしかなかった。それに足るだけの年月は流れたはずだ。いまさら揺さぶられることなんてないだろう?
どのくらい沈黙していたのかはわからない。時間の感覚のない思考の波間から帰ってくると、人の気配が遠のいていた。はっとして目を開けると、すでにロシアの手はなかった。一瞬の動揺とともに視線を動かすと、ベッドの端に腰掛け、興味深そうな瞳をこちらに向けている彼の姿があった。
思考に集中するあまり外界への注意が散漫になっていたようだ。気づけば、背後のノートパソコンのディスプレイがスクリーンセーバーに切り替わっていた。
プロイセンはばつが悪そうに顔をゆがめたあと、やぶにらみの目でロシアを見た。
「おまえさ、試してんのか、俺のこと」
「試す? きみを? 何について?」
「さっきおまえのほうから質問しただろ。あいつんとこに戻りたいかって。おまえ、まだ疑ってんのか、俺が本心ではその質問に肯定しているって、さ」
プロイセンが、やや棘のある口調で質問を重ねると、ロシアはあっさりと首を横に振った。
「いや、疑ってないよ。だって、疑うまでもないことだからね」
「そうかよ」
それは、疑うまでもなくプロイセンの回答が肯定だと考えているのか、それとも否定だと考えているのか。ロシアの両義的な答え方に、プロイセンは苛ついた。そして、立て続けに尋ねる。たいして深く考えもせず、思ったことを並べ立てるように。
「俺を今回ここへ連れてきたのって、俺にとどめを刺すのが目的だったんじゃないのか。もう一度あいつと引き合わせることで、より一層、俺がもはやドイツではないということを俺自身に思い知らせるために。もしそうなら、おまえの狙いは大成功さ。すげぇ堪えたぜ……なんか、もう俺、この上なくわかっちまってさ、あいつとは全然別のところにいるんだってことが。……分かれて歩いた道が不可逆のもんだってことが」
思いを言葉にしているうちに気が滅入ってきたのか、段々と声が小さくなり、勢いもなくなる。ロシアはそんな彼をじっと見つめている。
「時の流れが一方的であるように?」
「そうだ」
「きみは見た目の印象より冷静だし、理性的だとも思う。事実をよく理解している。それを噛み砕く術も心得ている。合理的な判断も下せる。……でも、それゆえきみは苦しいんだろうね」
嘲りとも同情とも違う声。認めるのは悔しいが、これは理解だ――とプロイセンは感じた。いまの自分をこの男はよく理解している。ともすれば、自分よりも。
プロイセンはおもむろに立ち上がると、すっと背筋を伸ばした。鍛えられた兵士が成せる、洗練された無駄のない動き。どれだけ経っても忘れない、身に染みた動作。
「おまえが根本的には俺を信じないという姿勢は正しいと思うし、妥当だとも思う。けどな、おまえはひとつの点で間違ってんだ」
しっかりとした足取りで踏み出す。といっても、所詮はシングルルームの中。三歩も進めば相手のもとには辿り着く。
彼はロシアの正面に立つと、先ほど自分がされたのと同じように、相手の頬を両手で挟んだ。そして上を向かせる。ロシアは特に抵抗はしない。プロイセンは暗い瞳で彼を見下ろすと、しばしの逡巡ののち、ゆっくりと顔を近づけた。
唇が同じ感触をとらえた瞬間、目を閉じる。彼は閉ざした視界の中で、湿潤と柔らかさ、そして熱を感じた。ほんの小さな水音がかすかに鼓膜をくすぐる。
ひどく静かな口づけだった。水面に落ちた小さな水滴が、かすかな波紋を広げる――そんな静寂の中。もっとも、彼らが情熱を介して熱を分け合ったことなどないのだけど。
舌を引き、スローモーションのようにのろのろと唇を離すと、プロイセンはゆっくりと視界を広げていった。ロシアの肩に手を着き、半歩後退する。下唇を舌尖で舐めてから、彼は落ち着いた低い声で言った。
「引き返せないとこまで来ちまったやつが、いまさら自分の選んだ道が誤っていただなんて、思いたがると思うか?」
「誰も自分が間違っていたとは思いたくないだろうね。後悔したところでもう取り返しがつかないのなら、特に」
平生と変わらない穏やかな調子でロシアが答える。プロイセンは彼の肩を掴む指先にきゅっと力を込めた。
「ああ、そうだ。後悔が無意味なことを俺は知っている。ほかでもない、おまえが教えたんだ」
そう呟くと、彼はロシアの金髪に鼻先を埋めた。ロシアが片手を彼の背に回してくる。
「つらいの」
「聞くなよ」
「つらそう」
「だから、聞くなって」
「いまのは聞いたんじゃなくて言っただけ」
「屁理屈だ」
「そうだね」
プロイセンはロシアの頭を抱きこむように、腕を相手の首に回した。正直なところ、自分で自分の感情がわからなかった。ひどく心が乱れているのは自覚している。その原因もわかっている。だが、自分がそれに対して何を思っているのか、どう思っているのかは、なぜかはっきりしなかった。胸のうちに靄が立ち込めているようだ。どうしてこんな行動をしているのかも、理解できない。ただほんの少しだけ気分が落ち着くというのが、事実として残った。
一分ほどそうしたのち、プロイセンは体を離した。
「なあ、出発は明日の朝だったよな? 今日はもう予定ないんだろ?」
「うん、そうだけど」
「明日の朝……いや、現地時間で今日の日付が変わるまででいい、ちょっと自由時間をくれ。やりたいことが……やるべきことがある」
プロイセンは相手の目をまっすぐ見据えた。ロシアは相変わらず平静だ。
「構わないよ。時間に間に合えば」
「待ってな。おまえが望むものを……くれてやるさ」
彼はぎゅっと両の拳を握り締めると、ロシアの横を通過してドアへと向かっていった。
ノブに手を掛け、扉を開く寸前、彼は振り返らないまま、ぽつりと言った。
「俺はすでに、おまえのものなんだからよ」
それだけ部屋の中に残すと、彼は扉の外側へ消えていった。
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