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きみに、さよなら


 プロイセンはドアのすぐ手前で、膝に顔を埋め、頭を抱えて座り込んでいた。もう何分こうしているのか知れない。動く気になれず、彼はその場でじっとしていた。
 すまない。ごめん。
 浮かぶのはそんな言葉ばかり。現在の立場を選んだことについてはとっくに納得し、吹っ切ったつもりでいたが、かつての自分と深いかかわりのある彼を前にしたら、そんなものはただの幻想であったとわかってしまった。これまで、ただ見ないふりをしてきただけなのだ。
 しかし、よく考えなくてもそんなのは当たり前だった。俺があいつを切り離せるわけないじゃないか。逆は……あるかもしれねえけど。
 つい十分ほど前、ドイツに向けて告白した内容を反芻し、プロイセンは暗く笑った。あいつ、失望しただろうな。そんな想像をしていると、じわじわと目の奥が熱く痛くなってきた。
 ひくっ、と短く鋭い吸気が生じる。まあ、ひとりきりだし構わないか、と考えていると。
 ふいにドアがノックされたのが、音と背中に伝わる振動でわかった。ロシアか? いまは無視したい気分なんだが……と思っていると。
「まだ扉のそばにいるなら、どうか聞いてほしい」
 ドイツの声がした。帰ったとばかり思っていたのに。
 プロイセンはドアを振り返ったまま慌てふためいた。忘れ物でもしたのか? いまは顔を見せられるような状態じゃないんだが。
 突然のことに立ち上がるという考えすら及ばず、座り込んだままどうしようかと意味もなくあたふたしていると、彼のそんな状況を知らないであろうドイツが言葉を続けてきた。
「俺は……おまえが現在の立ち位置を選んだことについて、追及はしない。その資格もない。きっと、そうするだけの理由が、そうせざるを得なかった理由が、あったんだろう。あるのだろう……。だが、これは知っておいてほしい。俺はおまえに裏切られたとは思っていない。仮にそうだったとしても……それは俺がおまえを失うのを……おまえを奪われるのを、どうすることもできなかったからだ。原因は……おまえ自身にあるんじゃない。あるとしたら、俺のほうだ。おまえに過誤はない。間違っていない。こうして生きている……それが最大の証明だろう、おまえが正しい選択をしたという」
 プロイセンは目を見開いた。思わず扉に手の平を触れさせる。
 間違っていない――もしかすると、いちばん欲していた言葉だったかもしれない。意識してはいなかったけれど、彼はずっと、あのとき自分が選んだ道が、ドイツではない国の一部になるという決断が、誤りだったのではないかと、絶えず疑問を抱いていた。悔いていないとは思っている。なぜなら、選ぶ道がひとつしかなかったのなら、選ばなかったほかの選択肢というものは存在しない。だから後悔の余地もない。けれどそれは、諦めという消極的な心境に裏打ちされたものでもあった。彼は過去の自分の決定に、けっして肯定的な評価を下してはいなかった。だから時折後ろを振り返ると、ひどく不安になったものだった。
 おまえは間違っていないと、誰かに言ってほしいと思っていたわけではない。そう望めば言ってくれるであろう相手はいた。でも、そう求めたことはなかったし、言ってほしいとも思わなかった。それに、言われたところで慰めにはならなかっただろう。
 けれどいま、ドイツにその言葉を与えられ、彼はひどく安堵していた。この半世紀、ずっと張り詰めていたものが途切れたように、彼はくったりと床にへたりこんだ。
 ドイツの語り掛けが続く。
「もし、俺がおまえのことをいつまでも忘れることができなかったがためにおまえを苦しめてしまったのだとしたら、その、すまなかった。俺がおまえに未練があるために、おまえは生きながら――自分を保ちながらその身を根幹から変えられるという苦悩に耐え忍ばなければならなかったのかもしれない。だがそれでも、俺はおまえが生きていてくれて嬉しいんだ。俺のことを忘れないでいてくれたことが嬉しいんだ。残酷な思考だろう。すまない……でも、そう思うのを止められないんだ。さっきおまえに、生きていればそれでいいと言ったのは、そういうことなんだ。おまえにひどいと評されたのも理解できる……だが、これが俺の偽らざる心なんだ」
 そこで言葉を切り、しばしの沈黙を挟む。プロイセンからの反応はない。
 ドイツは何十秒かの空白のあと、少しだけ声を大きくした。
「もう少しだけ聞いてくれ。おまえの言ったとおり、俺はもうひとり立ちしている。おまえに与えられた経験が大きいのは確かで、そのおかげで現在ではひとりでやっていけるというのもまた、確かだ。だが、それならなおのこと、おまえがそこまでして自分を貶めることはないんじゃないか? おまえが俺を責めず自分に非があるように語るのは、俺を案じてのことだろうが……それは畢竟、俺を子供扱いしていることにはならないか? もし俺を認めているのなら、そんなふうに話す必要などないと判断しているはずだからな。……違うか? おまえは結局、一国としての俺を……認めていないんじゃないか?……俺を、信じていないんじゃないのか? そうであるなら、これからは信じてほしい。そして、不必要に自分を悪く言わないでほしい。おまえが庇ってくれなくても、俺はもう……大丈夫だから。そろそろ安心してくれ」
 ドイツの声は優しかった。けれどもその言葉は、プロイセンの胸に一抹の寂寥感を与えた。
 そうか、大きくなったんだな、本当に。プロイセンは扉の向こうに立っているであろう彼を、遠い目で見た。彼と自分の手がもう離れていることが、強く意識された。
「すまない。未練がましかった。それに、自意識過剰だったかもしれない。おまえの言い分はわかった。いまの俺たちの立場や関係についても熟知している。だから……一国の、ひとつの責任ある立場としていまここに告げる」
 トーンが少し変わる。プロイセンは力の入らない手足を、それでもぎくりと揺らした。告げられる言葉を予感して。
 ドイツは十秒ほど間を置いてから、改まった調子の声に、言葉を載せた。
「いままでありがとう。おまえがいたから、俺はここまで成長できた。けっして忘れない。そして――」
 一度深呼吸。それから、告げる。
「さようなら……俺の、同胞……」
 そして、くるりと体の向きを変えた。フェルト地の床を蹴るかすかな音。それは別れを、終わりを告げる声にも似ていた。
 足音が遠ざかる。あたりはすっかりシンとして、空調と冷蔵庫のモーター音だけが静かで平坦な雑音として響いている。
 ドイツの気配は完全に消え去っていた。
 プロイセンはまだ床に腰を下ろしたまま、腕を扉につけ、頭をうつむけて床を見た。
「ちくしょう……立派になりやがって。いつの間にそんなにでかくなったんだよ。おまえがそうやって成長していく姿を見られなかったのが残念でならない。いや、俺がいなかったからこその成長、か……? ああ、くそ、悲しいのに、悔しいのに、寂しいのに、どうしてかな……俺はいま、嬉しくてならない。これは、本当だ。……本当だぜ」
 言葉とは裏腹に、声は震え、また湿っている。
「もう、おまえに俺は、必要ないな……うん、安心したぜ……」
 そう呟きながらも、不織布の床にはいくつもの水滴が落下して弾け、色を濃くしていた。
 腕が震える。体を支えるのも難しくなってきた。
 プロイセンはなけなしの気力を振り絞って立ち上がると、ふらふらとベッドへと歩いていった。倒れこむようにマットレスに身を放ろうとして――その前に膝がかくんと折れた。
 彼はほとんど転倒するようなかっこうで上半身だけをベッドに乗せた。しばらくそのまま微動だにしなかったが、やがてふるふると手指が、腕が、肩が、背中が、小刻みに震えはじめた。
 さようなら。
 扉一枚を隔てて届いたドイツのその一言がいつまでも耳に残っている。いや、時間が経過するとともに、どんどん声は大きくなる。頭の中でこだましながらどこまでもどこまでも響き渡る。振り切ることも耳を塞ぐこともできず、プロイセンはただ身を縮めるだけだ。
 顔を伏せたまま、くぐもった声を漏らす。
「ヴェスト……もう、この名でおまえを呼ぶこともなくなるんだな……はっ、未練がましいのは俺のほうだ。でも、これで最後だから……ヴェスト……ヴェストヴェスト、ヴェスト……」
 去っていった大切な者の名を幾度となく口の中で繰り返しながら、彼はシーツをきつく握り締めた。指が血の気を失い白くなっても、なお強く、強く。




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