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涙の落ちるところ


 予定していた夜のフライトにはなんとか間に合った。
 ドイツは空港の洗面所で顔を洗ってからトイレを出た。いつもは上げている前髪が、少しばらけて下りている。鏡の前で直そうと試みたが、整髪剤の効果がなくなっているらしく、うまくまとまらなかった。
 ラウンジに戻ろうと右に折れたところで、壁際にオーストリアの姿を見つける。どうやらドイツを待っていたようだ。先刻まで、ラウンジでイタリア兄弟やスペインと一緒にいたはずだが。方向音痴のくせにこんな短時間にどうやってトイレまで辿り着いたのだろうか。今回ハンガリーはいないので、スペインあたりに誘導してもらったのだろうか。
 何かあったのか、とドイツは聞こうとしたが、相手の質問のほうが早かった。
「ドイツ、大丈夫ですか」
 オーストリアは心配そうなまなざしを向けてきた。
 プロイセンと会ってきたことは伝えてある。内容については何も話していないが、空港にやってきたドイツの様子から、楽しい気分で会話してきたわけではないということは明白だろう。
 オーストリアの場違いなくらいの憂い顔に、そんなに俺はひどい顔をしているだろうかと、ドイツは力なく笑う。
「……どうだろうな」
「あなたがそんな返事をするなんて……相当きてますね」
 大丈夫だと強がる気力もない。相手がオーストリアということで、ある種の気安さもあるかもしれない。
 気丈に振舞わなくてもいい。そう考えると、弱音を吐いてしまいたくなった。
 ドイツは壁に背をつけると、深いため息とともに肩を落とした。
「生きているとわかっていて、所在がわかっていて、その上でもう会うことがないなどと……悪い冗談だ」
 詳細な事情を知らないオーストリアにとっては突然の切り出しで、意味がわからないかもしれない。だが、最初から全部説明する気は起きなかった。まだ自分の中でまったく整理がつかないし、思い出すのがつらい面もある。けれども、ひとりで沈黙を守るのも苦しかった。誰でも構わないとまではいかないが、誰かに話を聞いてほしかった。理解してくれなくてもいい、ただ聞いてくれる相手がほしかった。
 ……ああ、あいつはずっとひとりで誰にも何も言えずにいたのか。
 ドイツはいまさらながらその苦しさの一片を知った気がした。
 ドイツが聞き手を必要としていることを察してか、オーストリアは何も言わず、促すこともせず、ただ隣で立っている。
「一度も言えずじまいになってしまったが、あいつのことが大切だったんだ。いや、いまでもそう思っている。なのに、ついに伝えられなかった。直接は、言えなかった……」
 思ったことを吟味せず、そのまま言葉にしているので、筋道の立たない、わかりにくい発話になっているだろう。らしくないな、と思いながらも、ドイツは内部の衝動に突き動かされるようにしゃべり続けた。
「精一杯虚勢を張ってきた。見抜かれているような気もするが……少しは成長したところを見せて安心させてやりたかった。あいつはきっと、それがいちばん気がかりだっただろうから。そして、俺にできることと言ったら、それくらいしかなかったから。だが、実を言えば、泣いてすがってでも、『会わない』という言葉を撤回させたかった。戻って来いとは言えないし、行かないでくれとも言えない。それはわかっている。でも、あの言葉だけは撤回させたかった。だが、俺は結局何も言えなかった。それどころか、いかにも物分りのよさそうな口をきいて、あいつの主張を受け入れた。大人気ない態度を取って、失望されたくなかったんだ……それは、間違いだっただろうか。ただの自己顕示欲にすぎなかっただろうか」
 自問のように呟くドイツ。答えは求めていないだろうが、何か言葉がほしそうに見えた。
 オーストリアは少し考えたあと、穏やかな声音で言った。
「私にはわかりません。でも、あなたが正しいと思ったことなら、彼もまたその理由を理解するんじゃないでしょうか」
 ドイツの双眸から不安そうな色が消えることはなかったが、少しだけ薄れたように感じられた。
「さ、もう戻りましょう。イタリアたちが待ってます。そろそろあの子たちの搭乗時間ですよ。見送ってあげましょう」
「ああ」
 オーストリアに軽く腕を引かれ、ドイツは壁から離れた。
 お約束のようにオーストリアがとんでもない方向へ曲がっていこうとしたので、慌てて引き留めた。こんなところで見失ったら面倒だ。
 ラウンジでイタリア兄弟と合流すると、ゲートに通じるエスカレーターまで送っていった。
「ほら、荷物だ。忘れていくなよ」
 ドイツはイタリアとロマーノに手荷物を渡した。ここまで運んでやったのだが、オーストリアには世話を焼きすぎです甘やかしすぎですと叱られた。が、イタリアたちを野放しにしたら会議の重要資料までまとめてキャリーバックに詰めて預けた挙句、到着先の空港で回収不能になる可能性が少なからずあるので、ドイツの配慮もあながち行き過ぎということもないかもしれない。
「くれぐれも飛行機の中に置き忘れないようにするんだぞ」
 釘を刺すドイツに、イタリアがえへへとちょっと困ったように笑う。やりかねないという自覚はあるらしい。
「うん、気をつける。ありがとね、ドイツ」
「いつまでひとの荷物触ってんだよこのジャガイモやろー」
「こら、兄ちゃん〜」
「あ、てめ、引っ付くな、みっともないだろ、いい年して」
 相変わらず微妙な仲の兄弟を眺めて、ドイツとオーストリアはやれやれと肩をすくめた。ロマーノの悪態はいつものことだが、今日は少々声の棘がきつい。フライト時間の関係上、スペインが一足先に帰ってしまったのがおもしろくないようだ。
「ごめんねドイツ〜、兄ちゃんいっつもこんなで」
「いつものことだからな、もう慣れた」
 ぎゃいぎゃいと絡み合っているイタリアとロマーノを前に、ドイツは顎を撫でた。そのちょっと意味ありげな表情を不思議に感じたのか、イタリアがきょとんとする。空気は読めなくても、雰囲気の違いがわかることはあるらしい。
「ヴェ……? どうかしたの、ドイツ?」
「いや……兄貴と仲良くな。どんなやつでも、身内は大事にしたほうがいい」
「う、うん?」
 ドイツが神妙な顔で脈絡もなくそんな助言をしてきたので、イタリアはわけがわからず生返事をして首を傾げるばかりだった。
「おら、馬鹿弟! 飛行機乗り逃がす気かよ!」
「あ、待ってよ、兄ちゃん〜。って、やっぱり荷物忘れてるし!」
 ロマーノはすでにエスカレーターに乗っていた。イタリアは慌てて兄が置きっぱなしにしたバッグと自分のそれを掴むと、アンバランスな足取りで段を踏んだ。よろめくイタリアを、ドイツが支えて姿勢を整えてやる。
「おい、気をつけろ。ちゃんと前を向いて乗るんだぞ」
「うん。じゃあね、ドイツ。まったねー!」
 イタリアは、ドイツの忠告をもう忘れたのか、ステップの上で後向きになって、ぶんぶんと手を振った。
「だから前を向けといっているだろう。落ちるぞ」
 ドイツは呆れながら繰り返した。こういうことをすると二分の一くらいの確立で転げ落ちるイタリアだったが、今日は大丈夫だった。代わりにロマーノがエスカレーターの最後のところで転倒していたが。
「さあ、私たちもそろそろ時間です」
「そうだな」
 時計の針を確認すると、ドイツはオーストリアとともに搭乗口へと向かって行った。気分は先ほどより少しだけ晴れていた。

*****

 自宅に着いたのは、日付が変わってからだった。
 ドイツは静まり返った家に入ると、通り道の電灯をつけながら二階の寝室へ向かった。トランクを部屋の隅に置き、上着をハンガーに掛けてネクタイを外す。浴室へ行ってシャワーを浴びてから部屋着に着替え、ダイニングへ入り、冷えたミネラルウォーターを取り出して喉に流す。ルーティンどおりの行動だ。
 彼は椅子にぐったりと腰を下ろすと、背もたれに倒れ掛かるようにして体を反らし、天井を見た。そのまま視界を閉ざし、静かに夜の空気を吸う。
 しばらくそうしてじっとしていたが、やがて右腕を持ち上げ、まだ湿り気の残る頭髪に指を差し込んだ。ぐしゃりと握りこむと、彼はゆっくりと体を起こし、背を丸めた。テーブルに肘をつき、前髪をぎゅっと掴んだまま、再び止まる。
 ごめん。
 あのときドア越しに聞こえてきた彼らしからぬ弱気な声音が耳から離れない。彼はどんな顔をしてあそこで語っていたのだろうか。ひどく苦しそうな響きだった。
 ……いや、俺の願望がそう感じさせただけかもしれない。ドイツは自嘲した。彼がいまでも自分のことを気に掛けてくれていたら……いや、そうであってほしい――それが、彼を苦しめるだけの身勝手な願いかもしれないと自己分析する冷静さがどこかで働く一方で、そう願わずにはいられない自分がいる。自ら別れの言葉を告げてしまったあとでさえ、そう思っている。
 あのとき、なんと言えばよかったのだろう。何が最良の対応だったのだろう。結局自分は何もできなかった。彼がもう戻ってこないという、半世紀前からわかっていた喪失の事実を決定的に確認しただけだった。
 断片的な思考がとめどもなく流れるが、まとまった考えや結論はまるで出ない。ただはっきりしているのは、彼が表した別離の意志と、自分が告げた別離の言葉。
 そう、彼は戻ってこない。もうこの手に触れることもない。
 前髪を握っていた手を少し開いて目元から離すと、ドイツは自身の手の平を間近で見つめた。何度か指を閉じては開く。何も掴めない。
 ぐっと拳を握ると、ドイツは再び額に手をあてた。小刻みに震えている。
 静寂の中、不規則な音がぽつりぽつりと響いてゆく。
 何度かしゃくり上げてから、ドイツは誰にともなく呟いた。
「自宅でくらい、思い切り泣いたって、いいだろう……?」
 虚勢は張った。精一杯。
 もう限界だ。それに、ひとりなら、誰の目を気にすることもない。堪える必要はない。
「う……っ」
 もう涙はこぼれていた。
 まもなく、嗚咽が響き渡った。
 時計の長針が一巡りしても、なおずっと。




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