引き続き露普です。
新しい旅路
湯冷めをしてきたのか、室温は空調でコントロールされているものの、少し肌寒く感じる。プロイセンはむくりと起き上がると、爪を立ててがりがりと頭を掻いた。髪はすっかり乾いていたが、走行方向がいつもとは違う感触だ。半乾きの状態で横になっていたので、変な癖がついてしまったらしい。
「あ〜……やっぱ乾かしときゃよかった」
疲労と頭痛のために全身がだるくて、このまま寝ていたいのはやまやまだったが、一旦寝癖に意識がいってしまうと、どうにも気になって落ち着かない。仕方なく、彼はのろのろと立ち上がり、重たい足取りで浴室に向かった。頭部にシャワーを思い切りかけると、湿り気の残るハンドタオルで髪を拭き、今度こそドライヤーできちんと乾かした。
浴室を出ると、ハンガーに掛けておいた綿シャツの袖に腕を入れた。そして、ナイトテーブルに置いておいた十字を再び手に取った。
「あれ、結局それ着るの」
彼が袖を通したマトリョーシカ柄のシャツを指差し、ロシアが尋ねる。あんなに文句垂れてたのに、と。
「これしかねえんだよ」
「気に入ったなら、色違いとかシリーズものとかあるよ。今度カタログあげようか」
「いらんいらん。気に入るかよ」
「似合ってるのに」
「全力で否定させてくれ」
ぶつぶつとぼやきながらも、プロイセンはシャツのボタンを留める。コットンなので着心地はいい。裁断や縫製などもなかなか優れている。これでデザインというか柄さえまともなら、と思わずにはいられない。
ベッドにうつ伏せになって頬杖をついていたロシアは、曲がった襟を正すプロイセンの後ろ姿を見ていた。プロイセンは先ほど返された大切なものを右手に握り締めたままだ。多分無意識なのだろうが。利き手は空いているとはいえ、細かい作業はしにくそうだ。しかし、本人はその原因に気づいていないらしく、先刻からボタン留めに手こずっている。
ロシアはそれを愉快そうに見守るだけで指摘はしてやらない。代わりに口にしたのは。
「せっかくこっちまで来てるんだし、ついでだからしばらくドイツくんのところに滞在する?」
突然の質問。というより提案に近いか。
「へ?」
プロイセンは素っ頓狂な声を上げて振り返った。はまりかけていたボタンが結局外れてしまったが、それでも手の中のものは落とさない。
瞬きも忘れ、首をひねった中途半端な体勢で硬直している彼に、ロシアが続ける。
「親戚のうちにお泊りって楽しいでしょ」
「いや、仕事あるんだけど……」
思いも寄らない提案に頭が追いつかず、彼は実につまらない返答しかできなかった。ロシアは体を起こすと、大きな図体でベッドの端にちょこんと座った。
「うん、帰ったらがんばって。五倍くらいのガッツで」
「い、いいのか? え、まじで?」
プロイセンはまだ半信半疑の様子だ。ロシアが親指で彼の口元に触れながら答える。
「ま、里心がつく前に帰っておいでよ。戻ってから変なホームシック状態になられても困るし。あと、復興支援の約束取り付ける前準備くらい、してきたら? まだまだきみのうちの状況は厳しいからねえ」
ロシアの弁に、それが狙いか、とプロイセンは納得しつつも半眼になる。
「……おい、たからせる気か。ってか、それが目的かよ」
「そのくらい甘えたっていいんじゃない? 人間の場合、子育て終わったら今度は自分が介護される番になるんだし?」
「なんだそのむかつく意見は。俺はそんなジジイじゃねえよ」
「それくらいさせてあげなよってこと」
気が進まない様子のプロイセンに、ロシアが二度目のウインクをしてきた。
プロイセンは後頭部をぽりぽりと掻きながら、もぞもぞと口を動かした。
「いやでも、なんか気まずいってーかよぉ……ちょっとばかり前にがっつりと……なんつーか、三流ドラマみてぇな展開でもって、さよなら言っちまったあとだし……」
「別に嫌なら嫌で構わないんだけどね」
あっさり撤回しようとするロシアに、プロイセンは慌てて叫んだ。
「いや! 行く! 行くぜ、泊まってくる!」
すると、ロシアがますますいい笑顔になる。
「やっと素直になった」
「う……」
やっぱり思うつぼかよ。プロイセンは癪なのを通り越して照れくさくなってきた。しかし冷静になって思い返すと、要するに壮大な諧謔劇の主人公をやらされただけではないだろうか。しかもドイツまで巻き込んで。
「なんか……ものすごい道化を演じさせられた気がする」
「えー? 何をいまさら。いつものことじゃない。わかった上で乗ってくれたんじゃないの?」
ロシアはきょとんとして首を傾げた。とぼけているのか本心なのか定かではないが、プロイセンはばつが悪そうに視線を逸らしつつ、口早に言った。
「お、おう! 当たり前だろ、半世紀もつき合ってりゃおまえの企みそうなことくらいお見通しだっての! は、ははははは……」
乾いた笑いでわざとらしくごまかしながら、プロイセンは声には出さずぼやいた――やっぱこいつの腹は読みきれん。
思ったより信頼されているのだろうか、いやまさか……と考えたところで、先刻ロシアに言われた言葉が脳裏によみがえり、プロイセンは再び顔に血が上るのを感じた。そしてそのおめでたい考えを振り払うようにぶんぶんと頭を左右に振る。こいつにとっちゃ単なる利害計算の結果にすぎない、と胸中で唱えながら。
彼は声が上擦りそうなのを隠すべく、浮かれたような軽い調子で尋ねた。
「あー、えーと、うん、休暇についてはありがたくもらっておくぜ。全力で休んで全力で余暇活動してやる。あ、それでよー、ドイツからなら近いことだし、ついでにイタリア観光もしてきてぇなー、なんて……」
照れ隠しっぽくとんとんとつま先で床を叩いている彼に、ロシアはふっと苦笑した。
「……好きにしたらいいよ。きみ、しばらく休暇取ってなかったことだし。休日消化してくれないとこっちとしても困るしね。次のお勤めの日までには戻っておいで。サンクトペテルブルクの前に、モスクワに来てね。書類が待ってるから」
プロイセンは途端に目を輝かせた。ごまかしついでに言ってみただけなのがだ、予想外に色のいい返事だった。
「まじか!? よっしゃあぁ! おまえ、たまにいいやつだよな! そういうとこ好きだぜ!」
彼は大喜びで万歳をすると、ロシアのそばに飛びついて、その頬にちゅっとキスをした。
と、そこで自分の行き過ぎた行動に気づいて固まる。
「あ、悪ぃ……ついはしゃいだ」
「落ち着きがないね」
そそくさと後退するプロイセンに、ロシアは平然として肩をすくめた。
もっとも、プロイセンは三秒後には自分の行動を忘却に追いやり、次の作業に取り掛かった。すなわち、荷詰め。
「よし、じゃあさっそく荷物まとめっから、とりあえず書類とかの提出は任せたぞ」
ボストンバッグに散らかした衣類などを詰めていく。それはもう、早業で。ロシアはさすがに呆れながら聞いた。
「いまから出発する気?」
「無論」
「交通手段ないんじゃない? この時間じゃ。朝まで待てばいいのに」
「夜行バスかなんかあるだろ、何かしら。平日だし、いっこくらい席空いてるだろ」
「乗り方わかる?」
現在の西欧のシステムに対応できるほど、まだこちらには慣れていないはずだが。
ロシアが暗にそう言うが、プロイセンは楽観的だ。
「まあ、なんとかなるって。乗り場まで辿り着けばどうとでもなる。だめならヒッチハイクでもするぜ」
「きみの顔じゃ止まってくれそうにないけど」
「どういう意味だよ」
腫れたまぶたできつい目つきをしながら、プロイセンがむっと口をへの字にする。見事な悪人面だ。指名手配犯に間違われても仕方なさそうな。
「鏡見る?」
ロシアはテーブルに置かれた備品のスタンドミラーを指差した。プロイセンは、遠目じゃ充血なんてわかんねえだろ、と噛み合わないぼやきを漏らした。
十分後、プロイセンは鞄をひとつ提げて、意気揚々と部屋を出ていった。マトリョーシカ柄のシャツを着たままで。あの地盤沈下のような消沈ぶりはどこへやら、すっかり全快したらしい。あの様子だと、バスの中でも遠足気分で眠れないのではないだろうか。
プロイセンが去ると、室内は途端に静まり返った。
ロシアはマフラーを巻き直すと、電気を消して扉を開き、部屋の外へ出て行った。
彼は上機嫌で廊下を歩きながら、小さなガッツポーズを決めた。
「やった。これで気兼ねなくウォトカが飲める。はあ……水とお茶ばっかり、確かに健康的だけどさあ、いい加減嫌になっちゃうよ」
禁酒二日はけっこうがんばった。今回の訪欧目的はすべて果たしたことだし、仕事明けのウォトカはさぞおいしいだろう。
よし、飲むぞ、と嬉しそうに呟きながら、ロシアは軽やかな足取りで自室へ戻っていった。
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