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いとしくて


 唇の感触が薄れるとともに顔も遠ざかると思いきや、その予想は外れた。プロイセンは自分の額をこつんとドイツのそれへぶつけ、なにやら意味ありげに上目遣いでドイツの双眸をきょろりと見つめてきた。もっとも、至近距離が過ぎて焦点の内側に入り込んでいるので、互いの顔は逆によく見えないのだが。
 鼻頭がぶつかり合う。ドイツは少し顎を引こうとするが、プロイセンは彼の後頭部に手を添え、それを許さない。何のつもりだ。ドイツはわずかに眉間に皺を寄せた。プロイセンはへっといたずらっぽく笑う。
「で、そっちは?」
「は?」
意味がわからず、目をしばたたかせるドイツ。
「もー、気が利かねえなほんと。おまえからは?」
「え……」
「この期に及んで、何を、なんて聞くんじゃねえぞ」
 プロイセンは十センチほど頭を後ろへ引くと、自分の頬を人差し指でとんとんと指し示した。さすがにこれなら言葉にせずとも意図は明白だ。露骨な要求にドイツはため息をつく。
「おまえはもう……」
 呆れながらも、すっと相手の顔に自分の顔を寄せると、やや斜めに首を向け、頬と頬を軽く触れ合わせた。伝わってくる体温に、少しだけ緊張する。そういえば、こうして近しい間柄としての挨拶をするのは再会以来はじめてだ。つまり、およそ半世紀ぶり。
 そう思うと、離れがたい気持ちが湧いてきた。しかし、プロイセンが唇を鳴らし、ちゅっとキスの真似事のような音を立ててきたものだから、急に気恥ずかしくなって、ドイツは結局そそくさと首を引っ込めてしまった。
「これでいいか?」
 内心どぎまぎしつつも、平静を装って尋ねる。が、プロイセンは大いに不満そうなしかめっ面になっていた。
「だめだ。全然だめ」
 わざとらしく怒った表情をつくり、プロイセンが首を横に振る。
 いったい何がどうだめだというのか。ドイツは怪訝に首を傾げた。
「なんだって?」
「愛が足りん、愛が!」
 プロイセンはむくれた顔でそう言った――が、一秒後には自分からぷっと吹き出していた。どうやら、その台詞を使ってみたかっただけらしい。
 自分で自分に受けているらしく、けらけらと少年くさい笑いを立てるプロイセン。その様子にたとえようもない懐旧の念を掻き立てられ、ドイツは吸い込まれるようにもう一度彼に顔を近づけ、目尻の少し下に柔らかく口付けた。先ほどよりずっと自然な動作で。
「ちょ……」
 あんなことを言いながらも、仕切り直しの二度目を施してくるような甲斐性がドイツにあるとは予想していなかったようで、プロイセンは動揺を見せた。
 ドイツもまた、自分の行動を意外に感じていた。けれどもプロイセンのようにあたふたすることはなかった。むしろ不思議なくらい、心が落ち着いている。胸の奥に静謐さが広がる。と同時に、既視感を覚えた。自分はこの感覚をどこかで知っている。
 それがどこだったか、いつだったかは、すぐにわかった。そうだ、ずっと昔――いや、そう表現できるほどの年月は流れていないかもしれないが――まだ彼が自分のそばに当たり前のようにいた頃。彼の存在の確かさを素朴に信じ込んでいた日々。彼が自分の前から姿を消すことがあるなど、想像もしていなかった時代。彼と一緒にいるときに感じた居心地のよさ――安心感だ。彼はしょっちゅう勝手な振る舞いをしては迷惑を掛けてきて、そのたびに自分は頭を痛めたものだったけれど、でも、それは嫌なものではなかった。何をしでかしてくれるかわからず、よくハラハラさせられたのは確かだけど、そんな彼を横で見ているとき、心の深いところは安定していた。彼のそばにいるのが安心だった――その頃は、それを自覚などしていなかったけれど。
 ……そこでようやく、ドイツは相手の顔を冷静に見ることができた。少しだけ違和感があるのに気づく。どこがどうというわけではないが、なんとなくおかしい印象を受ける。ドイツは相手の目をじっと覗き込むと、
「……本当に、演技だったのか?……昨日のこと」
 急にトーンを落として尋ねた。プロイセンは不思議に思いつつ軽口で答える。
「あん? 神がかりすぎててびびっちゃったってわけ?」
「目が赤いぞ」
「へ?」
 プロイセンは反射的に自分の目元に指を触れさせた。そして、明らかにうろたえた調子で言ってくる。
「……な、何言ってんだよ、これは元からだっての」
「いや、瞳ではなく、白目の部分が……」
「それは……た、太陽がまぶしかったからだ!」
「その言い訳は相当苦しいぞ」
 まったく説得力のない言い訳を必死でしてくるプロイセンに、ドイツは柔らかく苦笑した。ゆうべ泣いたのがお互い様だとしたら、隠さなくてもいいのに。やはりいまでも年上風を吹かせたいのだろうか……でも、それも悪い気はしない。一人前と認められたいのはもちろんだが、以前のように気を許して接してもらえるのは、やはり嬉しかった。
 と、昨日のいろいろと切羽詰った会話を思い出し、ドイツは神妙な面持ちになった。どんな事情の変化があって彼がここへ来たのかはわからないが、あの別れの言葉は、あの時点ではきっと本物だった。そのときの痛みが胸に再来し、彼は唇を震わせた。プロイセンも雰囲気の変化を察したのか、口をつぐんだ。
「いまさらこんなことを言うのは恥ずかしいんだが……本当につらかったし、悲しかったんだぞ、おまえに別れを告げられて」
 キッチンの床に座り込んだまま、ドイツは場違いなくらい真面目にそう言った。
「ん……そうか」
「どうした?」
 急にしゅんと声を小さくしてうつむいてしまったプロイセンを、ドイツが少しだけ覗き込む。
 プロイセンはやや間を置いてから、ぽつりと呟いた。
「……俺も泣いた。たくさん」
「それは……よかった」
 ドイツはぽろっとそんな発言をしてしまった。疑いようもなく、本音だ。
 当然ながらむっとするプロイセン。
「何がよかっただよ、ひとを殴っといて。おまえ、手加減なしだっただろ、あれ。すっげ効いたんだぞ」
「それについてはすまなかった」
 ドイツが軽く謝罪すると、プロイセンは額に手を当てて目元を覆った。
「あ……やべ、思い出すとだめだ……」
「涙か。変に堪えると頭痛がひどくなるぞ。……実はゆうべ経験したばかりだ」
「ん……いまは悲しくねえはずなんだけどよ」
 むしろ嬉しい。決定的な離別を覚悟した相手と、こうしてすぐまた会えたことが。けれども目が熱く、痛くなってくる。単純な歓喜だけではない。さまざまな感情が入り乱れた、複雑な色合いの透明な涙がいまかいまかと解放のときを待っている。積年の想いのすべてが分離不可能なまでに混ざり合って。
 まだ目を隠しているプロイセンにドイツが告げる。
「泣きたいなら泣いてしまったほうがいい。その代わり……俺もつられるからな?」
「なんだよ、大の男がふたりして泣き喚くのかよ。みっともねえ」
「せっかくの機会だ、みっともないのを極めてみるのも悪くはないだろう。俺は、それもいいと思っている。おまえの前でなら」
 だから顔を上げてほしい。ドイツはプロイセンの手にそっと触れた。プロイセンは抵抗せず、引かれるがまま、ゆっくりと自分の額から手を放していく。手の平はすでに濡れていた。
「てめえ、そんなに俺を泣かしたいのかよ」
「泣いてくれるのか。俺の前で。光栄だ」
「くそ……ほんと、立派になりやがって」
 わずかに微笑みながら吐き捨てると、プロイセンはぱっと面を上げた。
「いいのか、ほんとに泣くぞ? いっぺん泣き出したら一時間は止まらねえからな? 脅しじゃねえぞ?」
 ゆうべの経験から、おそらく実現するだろうことが想定される。なのでそのように予告したのだが……
「もう泣いているようだが」
「う……」
 どうやら遅かったようだ。箍が外れるまで、あとどれくらいもつだろうか。
 彼はふらりと腕を伸ばすと、ドイツの肩に手を置いた。そのまま感情と衝動のままに腕を回して抱き締めようとして――昨日どうしてもできなかったことだ――やはり躊躇した。指先を小さく震わせたあと、彼はためらいながらも相手の肩を軽く掴むと、伏し目がちに心中を語り出した。
「今日おまえんちの土踏むのさ、これでもけっこうためらったんだぜ。あのとき白状したとおり、俺はずいぶん不誠実なことをしてきたからな。いや、いまもしてるのか。俺は究極的には、いまの場所から離れられない。きっと、もう二度と。……おまえは昨日ああ言ってたけど、やっぱ思うんだ、結局俺はおまえらに背を向け――」
 言葉を終える前に、視界がぶれ、少しだけ息が苦しくなる。
 気がつけば、ドイツの肩に顔の下半分を埋めるかっこうになっていた。
 膝立ちになったドイツが、彼の上体を引き寄せると、右腕を背中に、左手を後頭部に回して、ぎゅっと抱き締めていた。
「いいんだ、もう……」
 鼻の奥がつんと痛むのを感じながら、ドイツは呟いた。
「おまえがそんなふうに言うのは、思うのは、不安だからだろう?」
 過ぎし日に彼から与えられていた無条件の安堵を胸によみがえらせながら、ドイツは彼の淡い金髪に頬を寄せた。そして思う。彼に少しでもそれを返すことができたなら。自分が彼にとってそのような存在になることができたなら。
 いや、思うだけでは足りない。言葉にしてはじめて、その心の幾許かが伝わるのだ。
「おまえがどこにいても、誰のところにいても、俺にとっておまえが大切な存在なのは変わりない。……大切なんだ」
 そして彼の耳元に唇を寄せ、咽びそうになるのを必死で抑えながら、そっとささやきを落とす。
「だから、もう……いいんだ……もう、苦しまないでくれ」
 もう一度そう言葉を掛けられ、プロイセンは目を見開いた。優しく穏やかな声が鼓膜を震わせる。少しだけ、涙声。
 まばたきすら忘れ、彼は瞳を揺らす。
 道を分かち、離れていた年月、堪えていたものがこみ上げてくる。いまにも堰を切りそうだ。意識の外に閉め出して諦めたつもりでいたけれど、そんなものは所詮はまやかしだった。彼のことが、こんなにも恋しい。ずっとずっと、恋しかった。
 この腕に抱き締めたかった。
 その腕に、抱き締められたかった。
「うん……」
 プロイセンはそろりとドイツの背に腕を回し、肩を強く掴んだ。そしてちょっと顎を引くと、相手の肩口に額をつけ、長い時間をかけてようやく緊張を解き、力を抜いた。ドイツの鎖骨の間に下がるペンダントの十字が間近に見えて、プロイセンは深い感慨とともに息を吐いた。それとともに、ゆっくり、ゆっくりと目を閉じる。
 抱き締め合う互いの熱と力が心地よい。もうこの手に戻らないと思っていた相手のかたちを、はっきりと感じる。際限のない愛しさが、あとからあとから湧いてくる。ここまで深く限りない愛しさを感じていることに、圧倒された。抱擁ひとつに、こんなにも胸が満たされる。
 彼らはようやく、再会の純粋な喜びに心を震わせた。
 状況が変わったわけではない。本当に戻ってきたわけではない。この先も戻ることはない。それはわかっている。不可逆な時間の流れる世界において、真に元通りになることなどあり得ない。けれども。
 けれどもいまこのときだけは、この身ひとつの感覚を通じてとらえられるものだけが世界のすべてだと考えたかった。半世紀の空白を埋めようなどとは思わない。ただ、いまここにあるひとつひとつの瞬間を、相手の存在で満たしたかった。
 幸福の雫が胸に染み渡っていく。
 己の腕の中に確かにある、その温かな存在がどうしようもなく愛しくて切なくて、彼らは時が過ぎるのも忘れてそうしていた。





――――おわり


長い話にお付き合いくださいまして、どうもありがとうございました!
2008/06/26〜2008/08/14

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