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頼れるひと


 早朝の寝室で起きたちょっとした騒動(当事者の片方にとっては大事件だろうが)から数十分、大人ひとりと子供ひとりをバスタブに収めた浴室はしんと静まり返り、水流や水滴の音が響くばかりだった。プロイセンの勢いに押されるがまま髪や体を洗われたドイツは、その後も彼の膝の上におとなしく座っている。というより、あまりの気まずさからリアクションが取れず、その場でじっとしているしかない状態だった。彼は相変わらず下顎を湯に沈め、水面にぶくぶくと小さな気泡を浮き上がらせていた。ドイツを後ろから抱えたプロイセンは、彼の小さな耳が先端まで真っ赤になっていることが珍しくて、これはいいものが見られた、とちょっとおかしい気持ちになった。
 湯気の立ちこめる中、プロイセンは手の平で湯を掬い取っては少年の薄い肩に掛けてやった。水の流れ落ちる音が鼓膜に心地よかった。
 やがて、彼はドイツの濡れた横髪にそっと触れて注意を引いた。
「そろそろ上がるか。洗濯もあるし。下手に洗濯場に出して使用人に見られたらヤだろ?」
 振り返ってくるドイツの柔らかい金髪を指で梳きながら、プロイセンが尋ねる。ドイツは彼の膝から下りると、慌てて浴槽から出ようと縁に手を掛けた。
「あ、洗濯なら俺がやる。俺が汚したんだから。あんたはゆっくりしてていい」
「一緒にやりゃいいだろ。どうせ今日はオフだ」
 だからそう慌てることはない――という含みを意図してのプロイセンの発言だったが、ドイツは顔を曇らせた。
「すまない、こんなことで休日を潰してしまって」
「そういう穿った見方はよせ。休み潰されたなんて思ってねえし、言ってもねえだろが。暇持て余すよりましだっての」
 責めてなどいないのに勝手にネガティブな解釈をするドイツに少々苛立ったプロイセンがむっと唇を尖らせると、ドイツはさらに萎縮してしまった。
「あ……すまない、そんなつもりでは……。本当に……ごめん。ごめん、なさい……」
 ドイツはまたもや謝罪の言葉を繰り返した。具体的に何について謝っているのか、本人にもわかっていないのではないだろうか。ただプロイセンに対して申し訳ないという気持ちが先立ち、そう言わずにはいられないのかもしれない。
 プロイセンは首を左右に振りながらため息をついたあと、少年の頭にぽんと手を乗せた。近づいてくる手の気配にドイツが怯えなかったことに少し安堵しながら、
「怒ってねえし責めてもねえよ。不可抗力だからな、こればっかりは」
 できる限り優しいトーンで言ってやった。ややもすれば、呆れの色がにじんでいたが。
 目の前にいるのが、自身の失敗に対しごまかしや言い訳をするような、ある意味では幼いかわいげのある子供なら、からかいのひとつも言ってやったかもしれないが、全面的に非を認めて反省まっしぐらなできすぎた子供が相手ではとてもではないがそんなことはできなかった。まず間違いなく、揶揄をそのまま叱責ととらえてますます落ち込むことだろう。反骨精神旺盛で、即座にからかったら噛み付いてくるようなタイプの子供なら、適当に愚痴や嫌味を言ってから、はいこの件はこれでおしまい、にできそうなのだが……この少年に対してはそれは無効どころか逆効果になるに違いない。そもそも、すでに猛省している相手を叱ったところで意味はないだろう。もっともプロイセンは今回のことでドイツを責める気は毛頭ないのだが。
 生真面目なのも考えものだな、と少年の気概に少々危機感を覚えながら、プロイセンは額を押さえた。利発で聞き分けのよい、手の掛からない子供だが、それゆえ扱いにくい面もあるということをまざまざと実感する。
 そんなに気を張らなくてもいいのに、と思いながらプロイセンはドイツの頭を撫でた。と、その手の下から、ドイツがおずおずと上目遣いの視線を投げてくる。
「怒って……ないのか」
「そう言ってるだろ。信じていないのか」
「いや……確かにあんたは怒ってなさそうだ。怒気が感じられない」
 だが、ドイツは腑が落ちないといった面持ちで首を傾げると、
「……なんで怒らないんだ?」
 ちょっと顎を持ち上げながらそう尋ねてきた。小難しい表情とは裏腹に、幼い子供のような仕種だった。プロイセンは少年の双眸をじっと見つめた。
「怒られるようなことしたと思うのか?」
「だって、俺、あんなとんでもないこと……」
「たいしたことねえよ、あれくらい」
「いや、たいしたことあるだろう」
「ねえって。おまえはほんとにクソ真面目だな」
 プロイセンは呆れ気味の苦笑を漏らした。そして、自分なりに頭をひねって考えたフォローを入れてやる。
「ま、俺にも原因の一端はあるような気がするし……それに、とやかく言ったところで、これについちゃ本気でどうにもならんだろ。故意にやったわけじゃねえんだし、だからといって意識的にコントロールできるもんでもねえし。責任の所在を求めたところで無駄だ。無駄なことはしないに限る。それが合理性ってもんだろ」
「……そういうものだろうか」
 まだ納得がいかない様子のドイツの頬に親指の先で触れながら、プロイセンがうなずく。
「そうさ。それに俺の知っている限り、寝小便を取り締まるための法律や規則は特にない。これといった決まりがねえんだから、違反にはなり得ねえだろ。びびるこたぁない、おまえは法も規則も破っちゃいねえんだからよ、堂々としてろ」
「話がものすごく飛躍している気がするんだが……」
 さすがにおねしょという主題から法の話に一足飛びするとは予想していなかったドイツは、コメントに窮してしまった。プロイセンらしいといえば非常にらしい励まし方にいくらか笑いが漏れそうになったものの、はぐらかされたような気がして、胸中の靄は晴れなかった。
 ドイツがむっつりと表情を固めていると、プロイセンがむにっと両側の頬を指で摘まんできた。凝りをほぐそうとでもするように。
「おまえこそ、何をそんなに気にしているんだ。俺はなんも咎めてねえじゃねえか」
 プロイセンは少年の頬を親指と人差し指の先で何度か押してから解放してやった。
「んんっ」
 ドイツは自由になった頬を両手で押さえた。痛くはなかったが、加圧された感覚が少し残っている。彼は頬に当てた手をそのままスライドさせ、目元も含め、顔全体を覆った。そして、途切れ途切れに言葉を紡ぐ。
「もっ……もう、俺……昨日から、最悪だ……。あんたに迷惑ばかり掛けて、挙句、この醜態で……自分が嫌になる」
 あと一歩で嗚咽が混じりそうな弱々しい調子だ。また泣かれるのではないかと、プロイセンは内心ひやりとしながらも、冷静な口調で答えた。
「なにひとりで思い詰めてんだ。俺は迷惑だなんて一言も言ってねえぞ。勝手な思い込みで落ち込むのはよせ」
「で、でも、呆れた、だろう……?」
 おそるおそる尋ねてくるドイツ。心なしか、先ほどよりもさらに恐縮している印象だ。失態を咎められないということは、その価値すらないほど呆れられている、とでも解釈したのだろうか。もしそうだとしたら、その思考回路にこそ呆れたい気分だったが、プロイセンは表には出さないよう自制した。すっかりマイナスモードスイッチが入っている少年をこれ以上追い詰めたら本当に手に負えなくなりそうだ。
「いや別に。まあおまえくらいの年ならこういうこともあるだろ。まだ体、未発達なんだしよ。うまく機能しないときだってあるさ。俺だってちびの頃はやらかしたもんだ。なに、たいていのやつは通る道だ、いちいち気に病むことはない」
「だが、俺はそこまで小さな子供では……」
「おまえぐらいの年頃のガキなら珍しくねえって。特に男は」
「そうだろうか」
「おう。だからぐだぐだ考えんな。大人になっても治らねえようなら医者に相談する必要があるだろうがな。あんまりうだうだ考えてっと、そっちのほうに呆れちまうぞ」
 脅迫めかしてそう言ってやると、ドイツは途端に顔を引き攣らせ、即座に反応した。
「そ、それは嫌だ!」
「ならこの話はここまでだ」
 プロイセンが終了を合図すると、ドイツは無言のまま二度三度とうなずき、それきり口をつぐんだ。そのまましばらく湯に浸かっていたが、やがてプロイセンが上がろうと促すと、素直に従って浴室から出た。
 脱衣所で体を拭き、新しい衣服を身に着けていると、それまで黙り込んでいたドイツがぽつりと言葉を発した。
「……でも、普通の子供よりずっと長く生きているのに、俺。あ、いや、さっきの話を蒸し返すわけではないんだが、その――」
 プロイセンに言われたとおりあれ以上話題にしないよう自粛していたのだろうが、不安に勝てなかったのか、ドイツはためらいがちにそう言った。確かに少年はただの子供ではない。知性はともかく、肉体の成長が著しく遅い。プロイセンやそのほかの国と比べても。ドイツに焦りが生じるのも無理からぬ話だろう。正直なところ、プロイセン自身もまた、なかなか成熟への加速が掛からない少年を不安に思うことがあった。しかし、そのことはおくびにも出さず、不遜な口調で彼は断言した。
「焦るな。絶対でかくなるぜ、おまえは。俺がそうするって、約束しただろう。忘れたか?」
 不敵な笑みを浮かべるものの、未来を確約する絶対的な自信はない。が、プロイセンは言い切った。いまこの少年がほしがっているであろう言葉を与えたかった。そしてそれは彼のみならず、自分自身への約束でもあった。
 果たして、プロイセンのはったりは功を奏した。彼の言葉を聞いたドイツは、先ほどよりもしっかりとした口調で答えた。
「いや、覚えている。あんたが言ったことを、忘れたりはしない」
「なら、焦らず俺を信じていろ。結果はいずれ出る。それとも、おまえは俺の言葉が信じられないか?」
 着衣をすませたプロイセンが、ドイツの前で片膝をついてその青い双眸を覗き込む。ドイツは彼の肩口をきゅっと掴むと、
「そんなことはない! 俺は、あんたを信じている!……きっと、ほかの誰よりも。あんたが……頼りなんだ」
 敬虔な祈りのような熱心さでそう告げた。プロイセンはドイツの背を軽く叩いた。
「なら、待ってろよ。絶対守るから、約束」
「うん……」
「返事は?」
「は、はい!」
「よし、いい返事だ」
 プロイセンは満足の笑みをつくって見せると、まだ水滴の残るドイツの金髪を無造作に掻き混ぜた。
「俺も楽しみにしてるんだぜ、おまえが立派になるの。そんで俺は自分がその立役者になることを考えると、それだけで楽しくてならねんだよ」
「俺も努力する。あんたの期待に応えたい」
「ああ、そうしてくれ。おまえならできる」
 プロイセンは腕を持ち上げると、少年の後頭部に手を当てて、後ろ髪を梳くようにして軽く撫でてやった。触れられる感覚が心地よいのか、ドイツはそっと目を閉じた。と、彼はおもむろのプロイセンの首に腕を回した。寝ぼけていたときとは違い、遠慮がちな弱い触れ方だった。
「プロイセン……」
「なんだ」
 もっと引っ付いてきても構わない、と言うように、プロイセンはドイツの背を軽く引き寄せた。少年はそのことに安心したのか、プロイセンの肩に顎を預け、きゅっと抱きついてきた。石鹸の香りに包まれながら、ドイツは小声でぽつりと言った。
「どうか、それまで一緒に……。俺にはあんたが必要だ」
「わかってる。おまえが嫌がったってそばにいて鍛えまくってやるぜ」
 プロイセンは後方へちょっと頭を引くと、至近距離で少年を見つめた。視線がかち合ったところで、彼は何かを企んでいるときのような、悪そうな笑みをこぼした。どう贔屓目に見ても人相が悪かったが、ドイツはそんな彼の表情に無性に安堵した。きっと彼はどんなに年を取っても、こんなふうに笑っているのだろうと思えた。そしてそのそばに自分がいることを寸分も疑わなかった。

 のちになって当時を回想したとき、ドイツは後悔の苦味を覚えずにはいられなかった。プロイセンは約束を守った。彼はドイツが一人前になるのをずっと見守り、見届けてくれた。
 だけど――。
 なぜ俺はあのとき、大人になるまで、という期間を設けて約束をしたのだろうか。何も成長のためだけに彼を必要としたわけではなかったのに。その後も自分は彼を必要としたのに。
 ……いや、理由はわかっている。あの頃の自分はまだ幼くて、自分が成長したあとのことなど、想像できなかったのだ。子供の自分にとって、現在の自分はあまりに遠い未来像だった。遠すぎて、おぼろげな輪郭すら見えなかった。
 だから、その隣に彼がいないという未来もまた、考えの及ばないところだった。プロイセンの些細ないたずら心が少年にもたらした一時の恐怖が、当人たちも忘れるくらい長い時を経てから現実のものとなったのは、皮肉以外の何ものでもなかった。
 ――なんでいなくなるんだ!
 少年の日に、恐怖と怒りと混乱に任せて彼に当たったときの言葉。
 ぶつける相手を見失ったいまとなっては、ただ胸中で虚ろにこだまするだけだった。




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