text


そばにいて


 清拭でさっぱりとした体に洗い立ての寝巻きを纏い、下ろしたばかりのシーツに寝そべったドイツは、心地よさそうに表情を緩ませた。肌に当たる布の少し固い感触が、いかにも清潔な感じがして気持ちよかった。髪を洗えないのは残念だけれど。
 プロイセンはブランケットと布団をきっちり合わせて少年の肩の上まで引き上げてやると、洗面器やタオル、汗を吸ったパジャマやシーツを抱えて部屋を出て行った。熱で潤んだ瞳で見上げてくるドイツの頭を宥めるように撫で、すぐ戻ってくるから、と一言約束を残して。
 言葉どおり、程なくして彼は水差しと水呑を乗せたトレイを持って戻ってきた。ナイトテーブルにトレイを置き、水呑に冷水を注ぎながらベッドの上のドイツに尋ねる。
「水、飲むか?」
「ああ」
 と、腕をついて起き上がろうとした少年を、プロイセンは制した。
「起きなくていい」
「でも――」
「いいから寝てろって。何のための水呑だと思ってんだ。ぐだぐだ言うと口移しで飲ませるぞ」
 横暴な発言をかましながら、彼は水呑の吸い口を少年の口に押し付けるようにして近づけた。ドイツは枕に頭を戻すと、眉間に皺を寄せて吸い口を凝視した。
「これって脅迫じゃないか?」
 納得いかなそうに指摘しつつも、ドイツはしぶしぶ彼の主張に従って吸い口を唇で軽くはさむと、彼の手で水を飲ませてもらった。先ほどの清拭のときと同様彼の手つきは丁寧で優しく、嚥下のタイミングに合わせて巧みに注ぐ水の量を調整してくれたので、少年は自分でコップを傾けるのと変わらないペースで喉を潤すことができた。一見粗暴な彼だけれど、その実かなりつぶさに相手を観察している。何気ない動作に彼の洞察力と気くばりを感じ取ったドイツは面映い気持ちになった。認めるのは癪だが、真剣なまなざしでこちらを見てくる彼の顔が妙に格好よく映ってならなかった。
 と、ぼんやりする頭で彼の顔を眺めていたら、いつの間にか喉の動きが止まっていたらしく、彼が水呑を引きながら尋ねてきた。
「ん? もういいのか?」
「あ、ああ……ありがとう、十分だ」
「ぼうっとしてるな。熱、上がってきたか?」
 プロイセンはドイツの口元をハンカチで拭うついでに、額に手の平を置いてきた。ドイツはどぎまぎしながらブランケットを鼻の辺りまで上げると、
「そ、そうかもしれない」
 ごまかすように適当に肯定しておいた。まさか彼に見とれていましたなんて、白状できるわけがない。いまはともかく、回復してから絶対にからかいの種にされる。それもきっと未来永劫。
 そんな少年の心境を知ってか知らずか、プロイセンはふっと苦笑を浮かぶ顔を向けてきた。
「しっかしまあ、おまえってほんと難儀な性格だよな。寝言でまで俺に謝る始末だし」
 彼はちょっぴりおもしろがるように、ドイツの頬を人差し指の先でつんと突付いた。彼からの思わぬ言葉にドイツは目をぱちくりさせた。
「え? 寝言?」
 当たり前だが、まったく覚えていない。普通、自分の寝言は聞けないものだ。
 いったい何を言っていたんだ俺……と少年があるはずのない記憶を検索しようと詮無い努力をしようとしたとき、プロイセンがにやりと口角をつり上げた。
「意外とかわいい寝言言うよな、おまえって。普段子供離れしてるくせによぉ」
「……聞いてたのか?」
「ばっちりな」
 プロイセンが無駄に明るい笑顔とともにウインクを送ってきた。どんな寝言をかましたのだろう。仕方のないこととはいえ、自分の知らない自分の行動を相手に知られているなんて、なんだか落ち着かない。居心地の悪さを覚えたドイツは、逃げるようにブランケットの下に潜ってしまった。
「どうした、別に恥ずかしがるようなことじゃねえだろ。前にも一緒に寝たことあるんだから、いまさらだ」
 特に揶揄するふうでもなく、プロイセンはブランケットの端をほんの少しめくりながら中を覗き込み、小さく首を傾げた。少年が何をそんなに気まずそうにしているのか理解できないといった様子だ。
 このどうしようもなく恥ずかしい気持ち――悪い意味ではないかもしれないが――を彼にわかってもらうのは無理だな、と感じたドイツは、これ以上の追及を受ける前に話題を変えることにした。
「あんた、もしかして俺が倒れてからずっとここにいたのか?」
 布団をちょっとだけ下げ、目から上だけを覗かせながら問う少年に、プロイセンはこくりとうなずいて見せた。
「ああ」
「仕事は?」
「夜勤明けだから午後はオフだったんだ。タイミングよかったぜ」
 そう言って肩をすくめる彼の様子はごく自然に映ったが――彼が真実を言っていないことをドイツはすぐに見抜いた。夜勤明けの早朝にあんなハードなトレーニングを組むような愚を彼が犯すわけがない。あの訓練を実施すると決めた時点で、スケジュールからは前野の夜勤は外していたはずだ。つまり、少なくとも今日の彼は夜勤明けではない。それに、訓練後は他の教官とともにカンファレンスを行うのが通例だから、午後がオフだった可能性も低い。
 しれっとした態度はさすがだが、嘘の内容はいまいちだな――ドイツはそんな感想を胸に抱いたものの、彼の発言への疑問点をあえて口にするのは控えた。予定を狂わせたことを謝罪したい気持ちはあったが、ここは少年が余計な気遣いをしないよう配慮してくれた彼の意向を汲むのが礼儀だと感じたから。
「そうか。せっかくの休みを浪費させて悪かった」
 ドイツとしては彼の罪のない嘘をありがたく受け取ったつもりだったのだが、出てきた言葉はいつもと変わらないものだった。そんな少年の態度に、プロイセンは深々とため息をついた。
「おまえなあ……ほんとその思考回路どうにかならねえのか。なんでそんなに遠慮するんだよ。よそよそしすぎるぞ。もしかして俺のこと苦手に思ってんのか?」
「そ、それはない! そんなこと、思ってない!」
 即座に否定してくる少年の顔はいかにも必死だった。気を遣いすぎるという要素を除けば基本的に素直なやつなんだよな――プロイセンは微笑ましい気持ちになりながらも、少しだけ説教臭い話をすることにした。いまの少年にとって必要なことだと思ったから。
「あのさ、おまえは俺に迷惑掛けたくない掛けたくないって繰り返すけど、俺は迷惑だなんて思ってねえよ。不謹慎な言い方かもしれないが、むしろ俺は嬉しかったし楽しかったんだぜ、おまえの看病できたこと。そりゃ俺は育ちが育ちだからこう見えても怪我人病人の看護ってのには慣れてるけどよ、戦場や野戦病院なんかじゃいっつも忙しくあちこち動き回ってたから、誰かひとりをつきっきりで看たことってあんまなかったんだよな。だから……おまえひとりのため時間を使えてさ、なんていうか、俺、嬉しかったんだ。おまえが調子悪いときにこんなこと言ったら怒られそうだけどよ」
 彼は少し照れくさそうに後頭部を掻いた。彼の言葉に、ドイツはきょとんとして目をしばたたかせた。
「嬉しい……?」
 手間を掛けさせられて嬉しい? どういう意味なのだろう。彼が皮肉や嫌味を言っているわけではないというのは口調や態度から十分察せられたが、それゆえなおのこと発言の真意が読めない。子供ひとりに手を煩わせられることのどこに嬉しいと感じる要素があるのか、少年には理解しかねた。
 不可解そうに眉をしかめて考え込んでいるドイツの前髪をさらりと撫でながら、プロイセンは困ったように笑った。少年の世話を焼けて嬉しいという感覚。それをどう言語で表現していいのかわからない。
「そ、嬉しいんだ。はは、まだおまえには難しい感覚かもな。まあでも、いつかおまえもわかるようになるさ、きっと」
 自分でも自分の感情の説明に窮した彼は、適当にはぐらかした。そして少年の額に柔らかく口づけを落とす。ドイツは心地よさげに軽く目を閉じた。
「おまえは早く大人になりたいみてぇだけど、子供のうちしかできないことだってあるんだからさ、あんまり焦るんじゃねえ。それに、ガキに遠慮されて頼られないってのは、大人からしたら寂しいもんなんだぜ? おまえはちょっとばかり出来がよすぎだ。もっと甘えろっての。自分で特権を放棄すんじゃねえよ、もったいねえ」
 そうアドバイスしてから体を起こして離れようとしたとき、胸の辺りにちょっとした力が加えられていることとに気づいた。視線を下ろすと、少年の手が彼の服の胸元を小さく握っているのが見えた。行かないで、と言うように。
 どうしたのかと彼が目をぱちくりさせていると、ドイツがためらいがちに口を開いた。
「じゃあ……」
「うん?」
「ちょっと、甘えても……いいか?」
「おう。言ってみろ」
 プロイセンが促すと、ドイツは熱以上に顔を赤くしながらぽつりと言った。
「も、もう少し、ここに……いてくれないか」
 少年の意外な頼みごとに、プロイセンは数秒沈黙に陥った。それを気まずく感じたのか、ドイツは慌てて付け加えた。
「あ、もちろん、都合がつけば話だ。明日も仕事あるんだし、無理にとは――」
「よし、わかった」
 少年の言葉を遮って即答すると、プロイセンはすばやく靴を脱いだ。そしてベッドに体を乗り上げさせると、ブランケットを捲り上げて一瞬のうちに潜り込んでしまった。
「うわ!? ちょ、なんだ!?」
 急に負荷が増えたことでスプリングがぎしりと軋み、マットレスが大きく揺れる。驚く少年をよそに、プロイセンはにやりと笑いながら答えた。
「いてほしいんだろ?――ここに」
「よ、横で寝てくれとは言ってない!」
 プロイセンの曲解ぶりと行動の速さに驚いたドイツは、どうしたらよいかわからず布団の下で身じろいだ。が、プロイセンが脚が腰から下に絡み付いてきたので、ろくに動けなくなってしまった。
「ちょ、何を――」
「あんだよ、俺に休むなっていうのか? 俺だって朝からハードな訓練して疲れてんだぞ」
 そう言われてしまうとドイツとしては反論に困ってしまう。訓練に看病と不休で働いていたプロイセンが疲れているのは事実だろうから。
「う……い、いや、でも! それだったらちゃんと自分の部屋に行ったほうが……」
「なんでだよ。俺を追い出したい理由でもあんのか?」
 脚だけではなく腕も少年の背に回し、全身で囲い込むようにして抱き締めるプロイセン。彼の胸元に耳が押し付けられたとき、わずかながら心音が聞こえたことに、少年は一瞬どきりとした。彼が間近にいるということが、かつてないほどまざまざと実感された。
 彼と接触することは、日常の挨拶を含めて数え切れないくらい経験しているのに、なぜいまになってこんなに緊張するのだろう? 段々と彼の心拍よりも自分の心臓の拍動のほうが意識されてきた。うるさいくらい高鳴っている。動悸がひどいことを知られたら、彼がますます心配するのではないだろうか。そう考えた少年は、少しでも距離を取ろうと彼の腕の内側で力なくもがいたが、その程度で抜け出せるはずもなかった。ドイツは彼の胸に抱かれたまま、言い訳がましく呟いた。
「や、だって、その……あ、いま思ったんだが、風邪うつるかもしれないだろ。俺はともかく、あんたが倒れたら大変だ」
「あのな、かれこれ半日、ずぅっと同じ部屋いんだから、うつるとしたらもうとっくにうつってると思うぜ?」
 確かにそのとおりだ。ドイツは気まずそうに視線を逸らした。
「う……すまない」
「まあ、風邪ってよりはただの熱発って感じだけど。気道の炎症もないようだし。一晩寝りゃよくなるだろ」
 そうささやくと、彼はいよいよ寝に入ろうと布団を引き上げた。しかしなおも小さな抵抗を示すドイツ。
「で、でも、俺、また前みたいな失態をやらかさないとは限らないというか、その自信がないんだが……」
 以前のおねしょの件を気にしているらしく、少年はうつむきながらもごもごと口を動かした。恥ずかしさがよみがえってきたらしい。が、プロイセンのほうはドイツが何のことを指しているのかすぐにはピンとこなかったようで、数秒ぽかんとしたあと、
「失態……? ああ、アレか。んなもん気にすんなよ。あれはもうチャラだ。ってか、ああいうのに関しちゃ怒らねえっつってるだろ。仕方ないことなんだから」
 呆れたような苦笑を漏らした。
「気にするなと言われても、気になるんだ」
「んじゃ、いっそ気にするのが馬鹿らしくなるくらい盛大にやらかしてみるか?」
「それは何が何でも避けたいな」
 と、そこまで言葉を交わしたところで、ふいに少年があくびを噛み殺した。大分眠たくなってきたようで、まぶたがとろんと下りかけている。その顔が小さな子供のように見えて、彼はこっそりと笑った。
「さ、寝ようぜ。具合悪いときはしっかり休むのがいちばんだ」
 改めて腕の内側に包み込んでやると、ドイツは甘えるように彼の胸に鼻の先をすり付けてきた。
「うん……ありがとう。よく眠れると思う。前もそうだった。あんたが横で寝てくれて、すごく安心して眠れた。あんたのそばって、安心するから……好きだ……」
「え……」
「あんたが具合悪いときは、絶対に俺が看病する。だから、あんたも調子悪いときは、隠さないでくれ。俺が、看る、から……」
 最後はほとんど寝言のような不明瞭さだったが、言うべきことを言ったという達成感があったのか、少年は安らかな表情で眠りの世界へと降りていった。
 プロイセンはドイツの幼い寝顔を凝視しながら、先ほど彼に言われた言葉を頭の中で何度も反芻した。
 その意味が思考に浸透したとき、彼は思わず口元を片手で覆った。
「〜〜〜〜〜っ! かわいすぎるだろオイ……天然か?」
 少年の健気な言い分に感動した彼は、身悶えそうになるのをなんとか耐えた。そして少年を起こしてしまわないよう気をつけながら、そのまぶたに柔らかなキスを落とした。


現代話で風邪引き普に独が甘いのはこんな過去があったからでした、という。

top