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とりあえず前向きに


 客室の長椅子で、プロイセンは足を伸ばし背を反らせて座りながら、どうしたものかと思案顔で天井を仰いだ。椅子の片隅には先刻上司に紹介されたばかりの子供がちょこんと座っている。床に届かない足をぶらつかせるでもなく、背筋を伸ばして彫刻のようにそこにいる。
 この子供らしさの欠片もない幼児の世話をせよとの上司命令に、プロイセンはおおいに頭を悩ませていた。早い話が俺に子育てしろってことじゃないか……とプロイセンはさっそくめげそうになった。小さな子供の面倒を見た経験などない。しかも、この親戚の少年は、ドイツだという――正確には、そうなる予定の存在なのだが。その国の名は、彼にとって希望であり目的でもある。それが手許にあることに彼は誇りを覚えないではなかった。しかし何の前触れもなくその任を与えられたとあっては、いくら不遜な彼であってもプレッシャーを感じずにはいられないのだった。
 だって子育てだぞ? 自分の一言、一挙手一投足が、この子供の未来を左右しかねない。場合によっては、自分自身のそれだって。
 ……だめだ、いきなり育児ノイローゼになりそうだ。
 プロイセンは背を丸めると、膝の上に肘を突き、うつむけた顔を手の平で覆った。
「育児ったって……なあ?」
 まだ育児に取り掛かる前から早くも途方にくれて、彼は隣に座る子供をちらりと見やった。ドイツは関節可動式の人形のような正確さで首を水平に横へ向けた。
「極力迷惑はかけないよう善処する」
「いや、そういうこと言ってんじゃねえんだけど。っつーか、おまえまじでどういう教育受けてきたんだ? 子供の使う言葉じゃねえよそれ」
「見た目ほど子供じゃないということだ」
 その口調は、子供が背伸びをしているだけのようにはおよそ思えないものだった。生意気を言っているのではなく、事実に誠実であろうとしている、そんな雰囲気だった。プロイセンは一種異様な空気を感じつつ、相手の発言に軽くうなずいた。
「まあ俺らについては、見た目と中身が一致するわけじゃないってのはわかるが……それにしたってなあ……」
「生意気に聞こえたならすまない。別にいきがっているつもりはないんだが」
 どこまでも実直な答え。こいつはこういう性格に生まれついたんだ、そうに違いない。プロイセンはそう割り切ることにした。そして、天性の性質に文句をつけても詮無いことだと考え、話題を切り替える。
「おまえいまどこに住んでるんだ? 一人暮らしじゃないだろ?」
「この屋敷に世話になっている」
「ふうん。……あのな、上司から俺の家の一室を提供するようにって言われてるから、近々引っ越すぞ」
 プロイセンが執務室で命じられた内容を伝えると(ドイツは先に退席させられていたのでその後のやりとりは知らなかった)、少年は目をしばたたかせた。その仕種が、ようやく彼を幼く見せた。
「あんたの家に?」
「ああ。まあ、一応俺が保護者ってことらしいからよ」
「そうか。すまない」
「構わねえよ。あんまり恐縮するんじゃねえよ。やりにくい」
 プロイセンは手をぱたぱた振って、気にするなと示した。相手にそれを読み取る能力があるかどうかは疑わしいものがあるが。子供はまだ、自分の身の置き場に困っているようで、座位ひとつとっても妙に堅苦しさがある。まるで借りてきた猫のようだ。彼は彼で、先の見通しの立たない不安に耐えているのかもしれない。何も言わないだけで。
 しかし、それにしても沈黙が長い。会話のターンが続かない。
「なんつーか、おまえおとなしいよな」
 こんなことを本人に言ったところでどうなるわけでもないし、言ってどうしたいという考えもなかったが、どうにも沈黙に耐えかね、プロイセンは思ったことをそのまま言ってみた。すると、ドイツは首を横に振った。
「そんなことはない。必要なことはちゃんと言葉にする。心配するな」
「そ、そうか……でも、なんかこう、どうでもいい話ってしないか、普通?」
「希望があればするが。でも、どうでもいい話ってどういうものを指しているんだ?」
 ――は、話しづれぇ……!
 少年の生真面目な回答に、プロイセンはいよいよ頭を抱えたくなった。この部屋に入ってからこっち、自分のほうが落ち着きなくじたばたしている気がする。これではどちらが大人なのかわかったものではない。彼は気を取り直すべくコホンと咳払いをひとつした。
「あー……そうだな、どうでもいい話題を目的として話をするのはいざやろうと意識すると難しいな。よし、目的のある話をしてみよう。なんか必要なものってあるか? 引越しすることだし」
 会話の流れが不自然なのはこの際無視して、当面必要となってくるであろう事柄について質問する。
「生活用品のことを言っているのか? 衣類ならいま使っている部屋においてある」
「そうじゃなくて、自分の持ち物以外で新しくほしいもんとかあったら言ってくれ。ここと俺の自宅じゃ、備品も違うしな」
 そう言うと、ドイツは考え込むように押し黙った。ちょっとうつむいて片手を顎に添えている。かなり真剣な様子だ。いやそこまで悩まなくてもいいぞ、とプロイセンが言いかけたところで、ドイツはおずおずと口を開いた。遠慮がちな、小さな声で。
「書斎を……」
「書斎?」
 聞き取った単語を復唱すると、ドイツがこくんとうなずいた。
「自由に使わせてもらえる書斎があると、ありがたい。本を、読みたいんだ」
 自分の要求に対し相手がどう応じるのかちょっと不安そうに、少年は青年を見つめた。あ、この顔、感情出てていい感じじゃん、とプロイセンは内心にやりとしつつ、
「いいぜ。部屋もういっこ貸すから、適当に本で埋めてくれれば」
「いいのか?」
「いいと言っている」
 あっさりと要求を呑んでやった。少年の表情がはじめてわずかな喜色を見せる。プロイセンはそのことに満足しながら、次の提案をした。
「とりあえず、いっぺん俺の家行ってみるか?」
「行く」
 なら早速だ、とばかりにプロイセンは立ち上がり、ドアの前に立って手招きをした。少年は椅子から飛び降りると、足早に彼の元に寄った。

*****

 廊下を歩きながら、プロイセンは再び自分の思考に耽った。なんとかコミュニケーションらしきコミュニケーションを取れたというものの。
 ――しっかし、このマセガキとやってけるのか俺? 会話は成り立つが、反応薄くて話しにくいったらねえ。むしろ、ガキ特有の一方通行で意味不明な発言がないんだよなー。必要なことを必要なときに必要なだけ言うって、判事じゃあるまいし。
 前途多難そうだな、とため息をついた。まだ正午にもならないというのに、妙な疲労感を覚える。
 と、曲がり角に差し掛かったところで、思考の世界からふいに現実に戻った。はっとして足元を見ると、連れの姿がない。
「ん? あ、おい、ドイツ? おい、どこ行ったんだ、ドイツ?」
 呼びながらきょろきょろと三百六十度回ると、すでに通過した廊下の床を叩く足音が小さく響いてきた。子供が、短いコンパスを精一杯使ってこちらに走ってきた。彼はプロイセンのそばで立ち止まると、少し息を乱しながら言った。
「すまない、遅れた」
「あ……そうか歩幅が違うんだった。悪ぃ」
「いや……」
 相手はまだ子供なのだ。あまりに大人びているのでつい忘れそうになるが、少なくともふたりの姿かたちの差は歴然としている。大人と子供では足の長さがまったく違う。プロイセンが十歩進む間に、少年は何歩足を進めなくてはならないのだろうか。うっかりしていた、とプロイセンは反省しながら、すっと人差し指をドイツの前に差し出した。
「ほらよ」
「なんだ?」
 ドイツは目をぱちくりさせた。
「掴んでろ。またうっかりおまえ連れて歩いてるの忘れたら困る。いきなり迷子にさせたら面倒だしな」
「俺が指を掴んでいたら、あんたが歩きにくいだろう」
「たいしたことねえよ。いいから、持ってろ」
 ずいっと指を突きつけると、ドイツはちょっと逡巡してから、子供特有の細い五指を、プロイセンの人差し指に巻きつけてきた。

*****

 建物の外に出ると、ここからは馬で移動する旨を告げようとプロイセンは足元の子供に視線を落とした。
「なあドイツ――」
 呼ばれた彼は、ふるりと頭を横に振った。
「その名は俺にふさわしくない。俺はまだ……」
「じゃあ、《未来のドイツ》とでも呼ぶか? 長いから略してドイツでいいだろ」
 ドイツは律儀にまだプロイセンの指を握ったまま、彼を見つめた。
「その名で呼ばれるようになるとは限らないのに?」
「なるさ、おまえは。俺がそうするんだ。だから胸張って、ドイツって呼ばれてろよ」
 プロイセンが腰より低い位置にある金髪にぽんと手の平を置くと。
「……努力する」
 その下からぽつりと一言、聞こえてきた。
 謙虚だが前向きな回答だ。プロイセンはようやく、未来への展望に幾許かの手ごたえを感じだ。




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