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悩める教育


 緑が鬱蒼と覆う深い森は、静けさに包まれていながら、明らかに普段とは異なる異質な雰囲気をどこか醸し出していた。木々と葉と土に生きる小さな生き物たちの息づくかすかな声と、時折遠くから響いては木霊する鳥の鳴き声。
 しかしもうひとつ、別のざわめきが森の低い位置で空気を揺らしていた。
 親元たる木から離れ落ちて腐食し、土に返ろうとしている黒ずんだ葉が無数に散る地面が、突如、ぽこりと盛り上がった。モグラ――などというかわいらしいものではない。もっとずっと大きい。この森に生息する多くの生物からすれば、巨大とさえ言えるだろう。
 突然現れた丘は、その場でしばしもぞもぞと動いたあと、ゆらりと縦に長くなった。
 人間の立位である。虫や鳥や小さな哺乳動物からすれば、途方もなく大きな生き物の姿。
 土の中から出現した青年は、茶色の野戦服にこびりついた腐植土を払おうともせず、ぎらつく瞳であたりを見回した。そして、ぴんと背筋を伸ばして足を肩幅に広げ、腰に手を当てると、
「よし、匍匐前進はここまで! 一旦休憩だ!」
 鋭い声で命じた。自分の足元に向かって。すると、彼の立つ場所からわずか一メートルのところで、またしても土が盛り上がった。今度は先ほどより大分小さい。出てきたのは、やはり人間。ただし、子供だ。背丈は彼の腰ほどしかない。
 子供は立ち上がったが早いか、踵を揃えて直立不動の姿勢を取り、男に向かって言った。
「了解」
 少年もまた、青年と同じような服装で、体中土まみれだった。ふたりとも金髪だったが、いまは見る影もなく黒っぽくまだらに汚れていた。

*****

 土の上に腰を下ろし木の幹に体重を預けて、ちょっとだらけた姿勢を取りながら、プロイセンはいましがたまで森中匍匐前進で連れ回していた相手を見た。訓練と称しかなりの負荷を掛けてやったのだが、ドイツは根を上げずについてきた。プロイセンは内心感嘆しつつも、気難しい表情で腕組みをしていた。
「うーん……」
 プロイセンが我知らずうなると、横にちょこんと座って休んでいたドイツがちらりと見上げてきた。泥だらけの顔と青い双眸がコントラストを描いている。
「どうしたんだ、小難しそうな声を出して。あんたが悩むなんて珍しい」
 尋ねられたプロイセンはちょっと沈黙したあと、ごろりと地面に寝転がった。そして、怪訝そうに眉をしかめているドイツの体を引き寄せると、脇の下に手を入れて、仰向けになった自分の体の上に持ち上げた。プロイセンの腕だけで支えられているドイツは、そのアンバランスさに少し身じろいだが、じっとしているほうが安定を得られるとすぐに心得たらしく、抵抗は示さなかった。
 プロイセンは、少しは子供らしく暴れでもすればかわいげのひとつも出るのに、と思う一方で、自分が本気で危害を加えることはないと彼に見透かされているような気がして、ちょっと気恥ずかしくなった。彼に対してというより、そんな思考が浮かんだ自分に対して。
 ドイツはプロイセンの手にぶら下げられたままおとなしくしていたが、相手が一度アクションを起こしたきり何も言わず何もしようとしないので、不思議そうに彼を見下ろした。
「なんだ、いったい?」
 プロイセンは神妙な面持ちで、ピンと伸ばした腕の先にいるドイツを見つめた。彼は珍しくややためらったあと、ぽつりと言った。
「いや……なんかあんま大きくならないなと思って」
 ドイツは一瞬目をぱちくりさせたが、すぐに開いての言わんとしていることを察した。
「ああ、俺の体のことか。まあ現状では仕方ないだろう」
「そうだけどよ、なんかなあ」
「成長しない子供はおもしろくないか。……すまないな、いつまで経っても小さいままで」
 皮肉でもあてつけでもなく、言葉どおり、申し訳なさそうに眉を下げるドイツに、プロイセンが慌てて口を開いた。
「あ、いや、そういうんじゃねえよ。誤解すんなよ、俺はおまえのこと、嫌だなんて思ってねえ。むしろ俺のほうこそすまんと思ってる」
 さらりと誤られ、ドイツはきょとんとした。プロイセンに詫びを入れられる理由が思い当たらない。
「なぜだ?」
「まだおまえを成長させてやれてないからさ。俺、兵鍛えるのは得意だけど、おまえみたいなの育てるのははじめてだし」
 はあ、とため息をついてから、プロイセンはドイツの体を自分の胸の上に下ろした。彼はプロイセンの胴の上にちょんと座った。
「あんたが責任を感じることはない。面倒見てくれてるだけで十分だ。それに、あんたの軍隊ノリの教育、俺は嫌いじゃない。俺を強くすると言ったのはあんただろう。俺もそれにうなずいた。……すまん、俺はこういうときに言うべき言葉をあまりもっていないから、うまく表現できないんだが……俺は、その、なんというか、あんたを信じてるから」
 ドイツは段々と小声になりつつ、最後まで言った。途中で逸らしてしまった目をそろそろと戻すと、視線の先ではプロイセンがぽかんと口を開けていた。閉じていたほうが男前だぞ、と忠告してやりたくなるくらい、締まりがなかった。
「プロイセン?」
 しばらく呆けていたプロイセンだったが、ドイツに呼ばれてはっとする。そして、あたふたと上体を起こしかけると、ドイツが自発的に地面に降りた。
「あ、えーと……ならもうちょいやるか?」
 プロイセンは立ち上がると、上昇した脈拍を抑えようとこっそり深呼吸をした。
「望むところだ」
「よし、なら森を抜けるぞ! そして市街まで走る。俺に続け!」
「了解!」
 ドイツがぴっと背を伸ばして短く答える。
「まずは森を抜ける! いいか、森の中では走るなよ」
「了解!」
 はきはきとしたドイツの返事を聞きながら、プロイセンは早足で移動を始めた。後ろをついてくる子供の気配に注意を払いながら。

*****

 市街に差し掛かったところで、プロイセンは足を止めた。いくらなんでもこの泥だらけの格好で街をうろつくわけには行かない。裏道を使って軍のベースへ戻って着替えたほうがいいだろう。
 プロイセンは少し上がった息を整えながら後ろを振り返った。背後には、曲げた膝に手をつき、荒い呼吸を立てるドイツがいた。
「おまえ、根性あるなあ。途中でペースつり上げたのに、ついてきやがって。そのナリでたいしたもんだ」
 プロイセンはひゅうと口を鳴らした。ドイツは速い呼吸で切れ切れになりながらも言葉を紡いだ。
「さすがに、きつかったが、なんとか。……置いて行かれるのは、嫌だったからな」
「おまえはほんと、見込みがあるな。育て甲斐があるってのは、こういうことを言うんだろうな」
「その割には、育たないがな」
 ドイツは自嘲気味にそう言うと、子供のままの自分の手を広げて見下ろした。プロイセンは土が絡んだ彼の金髪の上に手の平を乗せる。
「そう言うな。おまえは大きくなるぜ。手足、でかいじゃん? 絶対、将来でかくなるって。俺がそうしてやるつもりだしな。だから、大きくなれよ」
「あんたくらいに?」
 プロイセンは片膝を地面につく。そして、
「俺より、だ」
 と答えると、おもむろにドイツを抱き上げた。肩と腕で体を支え、顔の高さがちょうど同じくらいになるように調整する。
「どうだよ、俺と同じ目線でモノを見るのは?」
 ドイツの耳元でプロイセンがささやく。
「大分違って見える。そうか……あんたには世界はこんなふうに見えているのか」
「じゃ、これなら?」
「わ――」
 プロイセンは強引にドイツの脚を自分の肩にまで上げさせると、そのまま肩車までもっていった。かなり危険な動作だったが、揺らぐことはなかった。
 しかし、さすがに体勢の不安定さが心許ないのか、ドイツはプロイセンの頭を抱えるようにして支持面を確保する。
「おまえはいま、俺より高いところから世界を見下ろしている。どうだ、さっきとはまた違って見えるか?」
「そうだな。少し違う」
「よく見ておけよ。俺すら見たことのない、世の中の見え方なんだぜ」
「ああ」
「ま、さすがにここまででかくはなんねえだろうけどな」
 はははは、と笑うと、プロイセンはドイツを肩車したまま小路を歩き出した。ドイツは肩の上で揺られながら、泥だらけのプロイセンの頭に口元を埋めていた。




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