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海上訓練を終えて引き上げてからも、その日は終日、ドイツはプロイセンにべったりとついて回った。他人の目のあるところではさすがに引っ付いてはこないが、ふたりだけになると、いつもより近い距離にいることを好んだ。そばにいてほしいと要求することはなかったが、彼の行動は言葉以上にその願望を雄弁に物語っていた。 離れようとするとひどく不安そうな目をする少年を放っておくのも忍びなく、プロイセンは就寝までずっと彼のそばにいてやることにした。 けれどもいざ寝かせようとすると、少年は寝室の前で殊勝にも、あんたも疲れてるだろうからちゃんと部屋へ戻って休め、などと言ってきた。プロイセンの服の裾を掴んだまま。 「おまえなあ……言動が一致してねえぞ、わかってっか?」 プロイセンは呆れ気味の苦笑を浮かべると、ドイツは気まずそうに自分の手を見た。少しためらいを見せたあと、少年はおずおずと、というよりはしぶしぶと、指を開いて彼の服を放した。そして目を伏せたままぽつりと謝ってくる。 「……すまない。恥をさらした」 「いや、恥じゃねえとは思うけど……大変な目に遭った日くらい、素直に甘えとけ。ひとりじゃ怖いんだろ?」 ドイツは首を縦にも横にも振らなかったが、瞳は揺れていた。しかし、図星を指されたからというわけではなさそうだ。彼はひどく申し訳なさそうな声音でプロイセンに言った。 「でも、この部屋は狭い。あんたが休めない」 「気にするなって。野戦キャンプよりずっといい環境だ」 「でも、あんただって今日はたくさん働いたじゃないか。俺が……その、パニックを起こしたせいで、いろいろ大変だっただろうし……あ、いや、いまもきっと迷惑掛けてるな。すまない」 自分が原因で訓練に変更を生じさせたこと、その後の調整のためにプロイセンが忙しく動き回ったこと、しかもその間ずっと自分がつきまとっていたこと――この日一日に彼に掛けた負担を思ってか、ドイツはすっかり恐縮していた。 プロイセンは歯切れ悪くしゃべる少年の金髪をじっと見下ろしていたが、突如両手で自分の頭を左右から押さえたかと思うと、癇癪でも起こしたようにがしがしと頭髪を掻いた。苛立ちを隠そうともせず、彼は側頭部に手を当てたまま天井を見上げた。 「あー! もう! おまえはどうしてそうなんだ!」 「え……あ、す、すまない……」 叱責されたと感じたらしいドイツが、ますますびくんと首をすくめた。ドイツはそんな彼を一瞥すると、ますます苛々しながら叫んだ。 「違う! 怒ってるわけでも叱ってるわけでもねえ!」 怒声じみた調子なのでまったく説得力がない。しかし彼は荒げた声を改めようとせず、そのままのトーンでまくし立てた。 「おまえなあ、そんな遠慮してんじゃねえよ。俺はそんな狭量なやつか? おまえのちょっとした要求なんて、わがままのうちに入らねえんだよ。ったく、素直じゃねえな……いや、違うか、単にどうやって振る舞えばいいのかわからないだけか。心細いときに。……くそっ」 後半からは、なかば独り言と化していた。脈絡なく舌打ちをする彼を、ドイツが恐る恐る呼んでくる。 「プロイセン……?」 「あー、悪ぃ……んな顔すんな。おまえに腹を立ててるんじゃねえよ」 うろたえて寄る辺なさそうに立ち尽くすドイツの前に片膝をつくと、プロイセンは彼の頭に手を置いて軽く撫でてやった。 そして胸中で呟く。腹を立てているとしたら、俺自身にだ、と。 上司からこの少年を託されて以来、彼に対するプロイセンの第一の使命は、しかるべき教育を施し、一人前の存在にすることだ。いまでもそれは同じだし、今後も――少なくとも少年が成長しきるまでは――変わらないだろう。 だが、その使命感に燃えるあまり、あるいは囚われるあまり、自分はこの子供の全体的な姿を見ていなかったのかもしれない。今日みたいに取り乱すことがあるなんて、想像してもいなかったというのが、いい証拠じゃないか。彼は優秀な生徒だ。けれどもそれだけが少年の姿ではない。当たり前のことだが、当たり前すぎて気づかなかったらしい。 俺は結局、甘え方ひとつ教えてやれてなかったってわけか――プロイセンは内心自嘲したが、表には出さず、努めて平静を装ってドイツに話しかけた。 「おまえさ、狭いとこじゃ俺が体休められないってことを気にしてるんだよな?」 「え、あ……というより、俺が一緒では――」 ――あんたは結局休めないだろう。 とでも言おうとしたのだろうが、プロイセンはその前に少年の唇に手の平を当てて言葉を遮った。代わりに開かれたのは、プロイセンの口だった。 「そーだな、おまえのベッドが狭いのは確かだな。……よし、俺の部屋行くぞ」 「え?」 「俺の寝床なら、がきんちょひとり増えたってどうってことねえよ。来い。とっとと休むぞ」 すくっ、と疲れを感じさせない滑らかな動作で立ち上がると、プロイセンは少年の手を掴み、部屋の前から強引に引っ張って廊下を歩いて行った。行き先はもちろん、自分の寝室だ。 ***** 先にドイツにベッドを陣取らせると、予想通り、遠慮がちに、申し訳なさそうに、隅っこに寄って小さくなった。プロイセンはやれやれと肩をすくめつつ自分もマットレスに上がると、壁と一体化せんばかりのドイツの肩を中央へ引いた。 「おまえのほうが疲れてるだろが。大人と子供じゃ基礎体力が違うんだ。きちっと休息を取るのも仕事のうちだぞ」 「だが」 「あんまりごねるようだと、俺、床で寝てやるぞ」 「それは困る。ここはあんたの部屋なんだ」 「なら、もっとこっち来い」 気遣いを逆手にとって脅しをかけると、プロイセンはドイツを真ん中に引き寄せることに成功した。実は彼のベッドもふたりではけこう狭いのだが、気づかれる前にブランケットで視界を閉ざしてしまった。 シングルベッドで身を縮めながらしばらく横になっていると、もう眠ったと思っていたドイツがふと呼んできた。 「プロイセン……」 頭までかぶっていたブランケットからちょこんと目から上だけを出すドイツ。暗闇の中でも、その青い双眸が自分を真正面にとらえていることが察せられた。 「なんだ? まだ寝てなかったのか」 布越しのぽんぽんと背を叩いてやると、ドイツがほうっと息を吐いた。触れられているのがはっきりわかると、安心するようだ。 ドイツは少し間を置いてから、ぽつりと言った。 「……もう、いやだからな」 彼の言葉に、プロイセンはまずったかな、と自分自身に向けて胸中で舌打ちした。 「今日ので海、怖くなっちまったか?」 恐怖心を与えるのは失敗だ。まずったな。プロイセンは自分の浅はかさを悔やんだ。 けれども、プロイセンの懸念はすぐに否定された。 「それは大丈夫だ。少し怖いが、時間を置けば」 「そっか。よかった」 「もう……」 そこで少し言いよどむドイツ。プロイセンは静かに促した。 「うん?」 「……もう、ああいうことはしないでくれ」 数秒の沈黙を置き、ドイツが答えた。彼はプロイセンの寝巻きの胸元をきゅっと握った。 「あんたがいなくなったら……俺は……」 頼りない、弱々しい声。少年の中に巣食う不安がありありと現れていた。プロイセンは、はじめて耳にする少年の声音に目を見張った。 「ああ……うん、ごめんな。びっくりしたんだよな。けど、俺もびっくりしたんだぜ? おまえがあんなふうに、そこらのガキみてぇに泣くとこ、はじめて見た」 「……呆れたか?」 さらに不安げに、ドイツが尋ねてくる。服を握ってくる手の力が強くなった。 プロイセンは少年の頭を軽く撫でながら答えた。 「いや……ちょっと安心した」 「……なぜ?」 「おまえも、あんなふうに泣けるんだと思ってよ」 「……? 意味がわからない」 きょとんとするドイツの子供っぽい表情に、プロイセンは自分でも不思議なくらいの微笑ましさを覚えた。そして、自分にそんなふうに感じる心があることに驚いた。 「そのうちわかるようになるさ。……さ、もう寝ようぜ。疲れただろ」 「ああ」 「海怖かったからって、夢見て寝小便するなよ。俺まで被害を受ける」 プロイセンが軽口を叩くと、ドイツは自信がいまいちないのか、それともそこまで子供じゃないと言いたいのか、むっとしながら答えた。 「暗示をかけるな」 「はははは」 適当に笑って流すと、プロイセンはブランケットを掛け直してやった。本当にもう眠る時間だ、と合図を送るように。 数分、暗闇の中で無言が続く。けれどもお互いに眠っていないことは気配で感じ取れた。 少年の小さな背に触れながら、まだ眠れないほど不安なのだろうか、とプロイセンが考えていると。 「……プロイセン」 控えめな声で呼ばれた。今日はもう何度彼に名前を呼ばれたか知れない。 「どうした?」 プロイセンが彼には似つかわしくない小声で尋ねると、ドイツがそろそろと質問をしてきた。 「朝まで、ここにいるか?」 「ああ。だってここ、俺の部屋だからな」 「そうか……」 はっきりと答えてやると、ドイツはようやく安心したのか、それきり言葉を発することはなかった。手はまだ彼の寝巻きの襟を握ったまま放そうとはしないけれど。 しばらくして聞こえてきた小さな寝息に、プロイセンは心が妙に落ち着くのを感じた。自分もまた、ドイツの予想外の反応に無意識に緊張していたようだと気づき、彼は苦笑を禁じ得なかった。
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