text


わたしにできること


 すでに成人と変わらない長さのプロイセンの指は、少年の細い首周りを半周以上している。親指と人差し指の股で喉の軟骨の下の柔らかい部分をぐっと押してやると、少年はことさら表情をゆがめた。
「……っう!」
 かなりの力で気道を絞め付けられ、神聖ローマが苦悶の声を上げる。反射的に両手を上げてプロイセンの手を解こうとするが、びくともしない。苦しさから、思わず爪を立てて必死に相手の指を首から引き剥がそうともがく。指先が白くなるほどの力で相手の橈側に爪を食い込ませた。だがプロイセンは平然と、冷たいまなざしを少年に注ぐだけだった。
 完全に絞められてはいないので、かろうじて呼吸は確保できた。だが、息苦しさに徐々に顎が上を向く。
「やめ……な、な、にを、する……」
 片目をきつく瞑り、神聖ローマはかすれた声で避難がましく言った。プロイセンは意識を失わせないよう手加減しつつ、片手で少年の首を絞めたまま、低い声で尋ねた。
「なあ神聖ローマ。いつまでそうしていたい?」
「なん、の……はなし、だ……」
「いつまでそうやって、非力なガキのままで甘んじていたい?」
 少年の目尻に生理的な涙が浮かぶのを見届けると、プロイセンはぱっと指を開き、相手を解放してやった。彼の指や手の甲には、少年の爪痕がくっきりと残されていた。少年の足掻きの痕跡を見下ろしながら、彼は軽く自分の手を振った。痛くはないが、少しだけ痺れていた。
「うっ……はあ、はあ……はっ、はあ……」
 神聖ローマは人形のように力なく椅子に沈むと、目を閉じて苦しげに浅い呼吸を繰り返した。少しの間、酸素を取り入れることに集中するが、ふいに眼前の翳りが動いたことに気づいてまぶたを上げた。背もたれについたプロイセンの手が、顔のすぐ横にある。今度は何をされるのか。少年は本能的な恐怖を浮かべてぎくりと身を固くした。
 プロイセンの手が椅子の背から離れ、少年の頬に接近する。少年はあからさまにびくんと首をすくめ、目をぎゅっと瞑った。
 しかし予想に反して、プロイセンは軽く触れてくるだけだった。
「名ばかりだとしても、おまえはいまでも帝国だ、俺たちの、な」
 彼は神聖ローマの頬に手をそえると、親指の先で目尻にたまった涙を拭った。
「俺はおまえの庇護なんざなくてもなんとでもなるが、そうでないやつは山ほどいる。そういう連中にとっちゃ、たとえ亡霊でもこの時代を生きるよすがにはなるのさ。自分の役割を忘れるんじゃねえぞ、神聖ローマ帝国」
 口調の厳しさとは裏腹に労わるような触れ方をしてくることに気味の悪さを覚えながらも、少年は気丈に答えた。
「仕事はするさ、この身が存在する限り。……俺は昔、サボりすぎたからな。俺はまだ死んではいない。やるべきことがあるということだろう」
「よくわかってるじゃないか、いい子だ」
 すっとプロイセンの目が細められる。
 と、視界の翳りが濃くなった。また相手が近づいてくる――察した瞬間、神聖ローマはびくりと硬直すると、逃げ出すことも身じろぐこともできず、反射的に強く閉眼した。
 他人の手が前髪を掻き上げるのが感触から察知された。柔らかい動作だった。プロイセンの意図がわからない。不安に身を縮めていると、ふいに額に生温かさを感じて肩を震わせた。だが、一瞬後には体から怯えが退くのがわかった。得体の知れない感触は、しかし不思議なことに恐怖や不安よりも、安堵と心地よさを少年にもたらした。
 おそるおそる目をまぶたを上げると、プロイセンの胸元が眼前にあった。はっとして首を上向かせると同時に、額の感覚が遠のいていった。瞬間的に、そのことに一抹の寂しさを覚えた。理由もわからないままに。
 プロイセンが離れ、数十センチの距離が置かれてはじめて、神聖ローマは彼が自分の額に唇を落としていたのだということを理解した。まだ彼の体温が額に残っているようで、少しだけくすぐったさを感じた。
 プロイセンは膝を折った低い姿勢のまま、少年をじっとりと見つめた。互いの鼻頭がぶつかりそうな近さだ。
「もしおまえにまだ野心があるのなら、いつか帝国に返り咲く日が来るかもしれない。だが現状に逆らわないのであれば、いつか消えるだろうよ」
 神聖ローマはプロイセンの燃えるような瞳をとらえた。
「おまえには、野心があるんだな。……でなければこんな死に損ないのもとになどわざわざ来ないか」
「ふ……おまえの目もまだ濁っちゃいないってわけか」
 小さな子供を相手にするように、プロイセンは少年の頭に手の平を乗せて撫でた。小馬鹿にされているようだったが、なぜだか少年はその接触に嫌悪を抱かなかった。そのことを不可解に思いながら、彼はさっと目を伏せて答えた。
「好きにしたらいい。おまえはすでに強国にのし上がりつつある。それは現況に対する危険因子かもしれない……が、俺に止める術はない」
「よくわかってるじゃないか。じゃ、好きにさせてもらうぜ」
 と、プロイセンは両手で少年の手を取ると、強引に引っ張って椅子から立ち上がらせた。
「おい……」
 急な姿勢の変化に対応できず、神聖ローマはバランスを崩した。プロイセンが脇の下から背に腕を回して支えてきたので、倒れはしなかったが。
 体重を支持されながら、少年は相手を見上げた。こうして間近に立つと、成長に水をあけられたことがまざまざと実感された。確かに、頭ひとつ分は背丈が違う。もっともプロイセンとて、まだ少年臭さは残っているのだが。華奢というほどではないが、まだ骨格も筋も細く、大人の体ではない。しかしその面差しには、これから迎えるであろう成熟の兆しが窺えた。
 プロイセンは少年の背を右腕で支えると、左手を顔にそえた。彼は不敵な笑みとともに少年に告げた。
「帝国の誇りと義務を忘れるなよ。たとえ死んでも、よみがえるくらいの根性は見せてみろ。我らがドイツの帝国よ」
 最後の句に含まれるいくつものニュアンスに、神聖ローマは唇を小さく動かした。叱責、期待、愚弄、要求――男は自分に何を告げているのか。それともすべてを包括して言っているのか。
 少年が答える前に、プロイセンは彼の唇を塞いでしまった。己のそれで。
 神聖ローマは驚きに身をすくめた。が、プロイセンの存外優しい触れ方が意外で、安堵とともに脱力してしまった。
 かくん、と少年の膝が折れた。疲労が溜まっていた上に、緊張の糸が切れたのだろう、彼は気を失ってしまった。
 プロイセンは彼の体を支えると、一旦腰を落として床に膝をつき、その顔を眺め下ろした。
「ったく、無理しやがって」
 少年の顔には疲労の痕跡が色濃くにじんでいた。ここでプロイセンと対峙したからという理由だけではないだろう。少年は長い間気を張り続けていた。あの戦いのあとも、ずっと。
 抱き上げた少年の体は、意識がないにもかかわらず、驚くほど軽かった。プロイセンは少年を横抱きにしたまま部屋をあとにすると、寝床のある部屋を目指して廊下を進んだ。
 寝室に運んでベッドに寝かせ、靴を脱がせシャツの襟をくつろげてから、布団を掛けてやる。少年は一度も目を開かず、ぐったりと眠っていた。
 プロイセンは床に膝立ちになり、ベッドに腕を乗せて少年のあどけない寝顔を覗き込んだ。少年の金髪を梳きながら、小声で呟く。
「時を待て。いまは雌伏の時でいい。いずれ俺がおまえを引っ張り上げる。必ずだ。たとえ名を変え姿を変えようとも。おまえの息の根を止めることになろうとも。おまえは俺たちの帝国だ。おまえがそれを望まなくとも、俺はそうするつもりだ。ふ、おまえごと掌握してやるのも悪くない話だしな」
 不敵な笑みとともにそう告げると、プロイセンは音もなく立ち上がり、寝室を出た。
 蝶番の軋みに注意を払って扉を閉める。誰もいない廊下で、彼は扉に背をもたれさせると、虚空を仰いだ。
「無茶して仕事なんざすんなよ。体治すのが先だろーが。馬鹿が」
 苦い口調でぼやいたあと、プロイセンは足音ひとつ立てず、廊下を歩いていった。




top