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お母さんがいちばん


 パンツ失踪事件が円満に解決したところで、プロイセンは約束どおり犬たちを連れて散歩に出かけた。彼らはよく躾けられているので、三匹一緒でも問題は起きないだろう。それに、プロイセンも犬の扱いは心得ている。その件については、ドイツは自分のかわいい犬たちを任せられる程度には彼を信頼していた。妙な呼称を定着させるのはやめてほしいところだったが。しかし実際のところ、プロイセンがあまりにしつこくお父さんお母さんという呼び名を使い続けるので、最近では犬たちもそれらの音の列が誰を指すときに使用されるのか学習してしまった感がある。
 やかましいひとりと三匹(いや、やかましいのはもっぱら『ひとり』だけなのだが)がいない間に、ドイツは風呂掃除に精を出し、ついでに犬の唾液でぐちゃぐちゃになったプロイセンの下着を手洗いしてやった。別に下着は手洗いするものなんていうポリシーがあるわけではなく、布切れ一枚のために洗濯機を回すのはエネルギーと資源の無駄だと考えてのことである。だったら明日の洗濯に持ち越せばいいわけだが、ここまでベタベタのドロドロに汚れた下着を放置するのは、何かこう、妙に落ち着かない気分にさせるものがあった。……衛生面の問題もあることだし。
 予定していた掃除をすべて終えると、ようやく一息つく時間がやってきた――と思うのも束の間、厚い爪が床を引っ掻く複数の音ともに喧騒が舞い戻る。三者三様の長い下をべろんと出し、犬たちが粗い息とともに帰ってきた。三匹とも、ソファに腰掛けるドイツの前でお座りをし、つぶらな瞳を向けてきた。ドイツは彼らを平等に撫でたあと、立ち上がってブラシを持ちに行った。
「アスターからだ。来い」
 呼べば、アスターが尻尾を振り乱しながら足元へと駆け寄り、鍛えられた軍人のような隙のない姿勢で座った。いい子だ、と褒めたあと、ドイツはアスターのブラッシングをはじめた。
「おうおう、子供たちはべらしちゃってまあ、お母さんは人気者だな」
 遅れて入ってきたプロイセンはドイツのそばまで歩いていくと、、ベルリッツとブラッキーを交互に構った。しかしブラッシングはしない。ルーティンとなっている順番制を崩さないためだ。ドイツはアスター、ベルリッツ、ブラッキーの順に毛並みを整えてやった。その腕前といったら、いつでもプロとしてショップを経営できそうなくらいだった。
 床にしゃがんだまま、ドイツは身だしなみの整った犬たちの姿を眺めてはうんうんと満足げにうなずいた。と、ふいに背中に生暖かい感覚を覚えた。振り返ると、間近にプロイセンの顔。彼はドイツの背にべったりと体を張り付かせ、顎を相手の肩に預けていた。いったいなんだとドイツがややうっとうしそうな含みを帯びた目線で尋ねると、
「なあ、俺も俺も」
 自分で自分を指差しながらプロイセンが言った。主題も動詞もない不完全な発話に、ドイツは疑問符を浮かべた。
「何がだ?」
「ブラッシング」
「は?」
 プロイセンの短すぎる回答に、ドイツはますます首をひねった。すると、プロイセンが自発的に説明を加えてきた。自分の淡い金髪を一房つまみながら。
「いやあ、パンツの行方不明に気をとられてたもんだからよー、髪乾かすのすっかり忘れちまっててな、変なクセがついたんだ。直せ」
 有無を言わせない調子で一方的に命じるプロイセン。ドイツはしばしの絶句のあと、
「……自分でできるだろう。手があるんだから」
 呆れながら指摘した。プロイセンの左手を軽く掴んで示しつつ。だが、プロイセンは首を横に振ると、むぅっと唇を尖らせた。
「いいじゃん、子供たちばっかりずるいぞ。たまには俺も労われよ」
 ほらほら、とプロイセンは自分の髪をドイツの首筋に押し付けた。ドイツは諦めたように肩をすくめた。
「まったく……」
 結局彼の要望に応えるべく、ドイツは一旦プロイセンから離れて立ち上がり相手の背後に回ると、その頭髪を梳いてやった――持っていたブラシで。
「いだ!? いだだだだだだだっ! ちょ、何すんだ! 頭皮がやべえ! 剥がれる! て、てめえっ、それ犬用のブラシだろうが!」
 途端に上がるプロイセンの素っ頓狂な悲鳴と、それに続くやかましい文句。まあ、それも仕方あるまい。生え変わりの時期のイヌの毛を絡め取るために設計されたブラシをヒトの頭髪に突っ込んだりしたら、力の限り絡むのは火を見るより明らかだ。それを予見できないような低脳ではないだろうに、ドイツは何の迷いもなく実践した挙句、プロイセンの抗議に対して不思議そうに浅く首を傾けている。
「……? 同じようにしてほしかったのではないのか?」
 その口調があまりにもナチュラルだったので、プロイセンは数秒虚を衝かれて沈黙したあと、その反動とばかりに大声を出した。
「なにそのキョトン顔! こっ、この天然ドSがぁ!!」
「言われたとおりにしたのになんで怒るんだ……理不尽だぞ」
 唾を飛ばしながら文句をつけてくるプロイセンから逃げるように、ドイツは体幹をひねって少し距離を取った。が、プロイセンは彼を追うようにして詰め寄った。
「そういう発言は自分の行動省みてからにしろ!」
「大声を出すのはやめないか。動物をいたずらに怯えさせる」
 と、ドイツは自分の周囲にぐるりと視線を移動させた。彼を取り囲むようにして、犬たちが中途半端なお座りをしている。アスターは尻を少し浮かせているし、ブラッキーは右の前足を上げている。ベルリッツはドイツの背後に隠れながら、人間たちの様子を窺っていた。彼らのつぶらな瞳には、心配そうな色が映じているようだった。落ち着きを欠く彼らは、主のそばに避難しているようでもあり、また主を守ろうと集結しているようでもあった。さすがにプロイセンに対して敵対のまなざしは向けてこないけれども。
 プロイセンはそんな彼らの行動を観察すると、
「くそー……やっぱお母さんがいちばんかよ」
 少々おもしろくなさそうに呟いた。やはり犬たちにとっては、主人であるドイツがいちばんのようだ。プロイセンはへの字に唇を曲げると、不機嫌そうな表情を維持したまま体をくるりと反転させてドイツに向き合った。彼は膝立ちになると、おもむろにドイツの頭の横へ腕を伸ばす。ドイツの金髪を無造作に胸に抱き寄せながら、
「うん、でもまあその気持ちはわからんでもないぞ。いいなあ、お母さんは愛されて」
 プロイセンはなかば独り言のように呟いた。整えられたドイツの頭髪に顎をうずめ、軽くぐりぐりと力を加えながら。
「さすがにうっとうしいんだが……」
 セットが乱れるし、暑苦しいし、何より邪魔くさいことこの上ない。しかし胸中で文句を垂れながらも、ドイツはプロイセンを引き剥がそうとはしなかった。
 仲良しなお父さんとお母さんにやきもちを焼いたのか、三匹の犬たちはふたりの間に割って入ると、ドイツの膝の間に入ろうとしてちょっとした争いを展開しはじめた。




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