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お父さんには荷が重い


 プロイセンが犬と一方通行な会話をしていることなどわかるはずもないドイツは、やや声のボリュームを上げて電話口で彼を呼んだ。
『――いさん、兄さん? どうしたんだ、聞こえてるか?』
 プロイセンは電話を耳に戻すと、
「ああ、悪ぃ。ちょっとベルリッツとお話してたもんだからよ。で、なんだよ? まだ何かあんのか? みんな元気でやってっからそんな心配すんな」
 いささか呆れと疲れの窺えるぞんざいな口調で尋ねた。家のことを心配して電話を掛けてくるドイツのマメさはかわいいものだが、度を過ぎるとうっとうしくもある。プロイセンはため息を隠そうともしなかった。が、彼の予想に反して、ドイツは話題を転換してきた。
『いや、今度は犬ではなく兄さんについてなのだが』
「俺?」
 唐突な指名に、プロイセンはどこか構えるような声を上げた。
 ドイツが気に掛けてくれること自体は嬉しいが、先ほどのドイツの口調からして、飛び出すのはおそらくお小言だ。
『ああ。多分いま素っ裸で部屋の中ごろごろしているんだろうが――』
 ほらはじまった、とげんなりしたプロイセンは、ドイツの言葉を遮った。にやりと口角をつり上げながら。
「んー、惜しいなお母さん。残念ながら素っ裸じゃないんだな。パンツは穿いてんだ。……大事なとこブラッキーたちに舐められたりしたらさすがにビビるからよぉ」
『う、うちの子に変なことさせるんじゃないぞ!? 絶対やめてくれ頼むから!』
 プロイセンの無意味に意味深長なトーンを帯びた発言はドイツを震撼させたらしく、彼は慌てふためいた様子で電話口でがなり立てた。大音量を避けるように、プロイセンは電話を耳から五センチほど離し、こちらもやや大声で答えてやった。
「だから、パンツは穿いてるっつってんじゃん。ブラッキーの毛固いから、パンツ越しでもちょっとちくちくするけど」
 言いながら、股間に挟んだブラッキーの頭を撫でる。単に犬を足の間に置いているだけなのだが、彼の微妙に的外れな言い回しと音声情報のみという状況下ではなにやらおかしな想像を掻きたてられるようで、ドイツが一層うろたえながら叫んだ。
『いったい何してるんだ兄さん!?』
「何って……犬と絡んでる?――って言うのかこの状況?」
『はあ!?』
「うるさいぞお母さん。おまえの頭ン中でどんな妄想が繰り広げられてるのかは知らんが、俺はごく健全に犬たちをかわいがっているだけだ。よくよく考えてみろ。家の中でパンツ一枚でいるくらい、普通だろ。おまえだってやってるじゃん。パンツ一枚でべたべた犬に巻きついたり世話したり、おまえも普段からしてることだろ」
『む……そう言われてみればそうだったな」
 プロイセンの冷静な話し振りにわけもなく納得しかけるドイツ。なんとなく煙に巻かれている気がしないでもなかったが。
「だろ? 別になんも変なことなんてねえよ。いつもどおりの生活だ。心配することなんて何もねえ」
 落ち着き払った声音で堂々と述べるプロイセンだったが、内容は若干の嘘を含んでいる。ドイツが主として家を仕切っている《いつもの生活》はこんなに乱れても散らかってもいない。が、現況でドイツがその事実を直接確かめる術はなかった。もっとも、プロイセンの普段の生活態度からして、ある程度の予測はできているのだが。
『まあ裸になること自体は構わないのだが……その調子で散歩や買い物に出かけたりしないでくれ。半裸の人物がうちを出入りしていたら、ご近所でよからぬ噂が飛び交いそうだ』
「へいへい。ちゃんとコート羽織って行きますよ〜」
『裸にコートはやめてくれ。それだったら全裸のほうがよほど健全だ』
「でもいまの季節さすがにマッパじゃ肌寒いし。家の中はいいんだけどよー」
『普通に服を着れば済む話じゃないか……』
 ごく真っ当なアドバイスを送るドイツだったが、プロイセンは面倒くさいだのコート一枚あれば大丈夫だの、何かにつけてケチをつける始末だった。
 このままでは堂々巡りに会話にしかならないと感じたドイツは、とっておきの台詞を使うことにした。
『まあ裸の件に関しては兄さんの良識を信じることにする。兄さんって結局のところ、なんだかんだで常識を知っているからな、本気で逸脱した行動は取らないだろう――フランスとは違って』
 まあ簡単に言うと褒めちぎっておだてて言質を取る作戦である。
「おう! 任せとけ! 俺はちゃんと公序良俗をわきまえてるぜ!」
『ああ、おおいに信頼している』
 息巻いて答えるプロイセンに、ドイツは疲れたようなため息をついた。ちょっと家のことを確認しようと思っただけなのに、面倒くさい会話に巻き込まれてしまったものだ。まあ、プロイセンが通話相手なのだから最初から覚悟はしていたが。
『……と、話し込んでしまったな。明日もスケジュール立て込んでるし、今日はこのへんで――あ、いや、待ってくれ』
 電話を切ろうとしたドイツだったが、何かを思い出したらしく、自ら通話の継続を求めてきた。
「ん? どした?」
『話は変わるが、鳥には気をつけてやってくれ』
「は? とり?」
 ドイツからの唐突な注意にプロイセンは目をぱちくりさせた。鳥? 気をつける? 何のことだ?
 プロイセンが首を捻っていると、ドイツが話を続けてきた。
『ああ。飼っているのか野生のやつを手懐けているのかは知らないが、兄さんよく鳥を連れてるじゃないか。黄色っぽい、小さいやつ』
「ああ、あいつのことね。別に連れてるわけじゃねえ。勝手について来んだよ」
 ぞんざいに話すプロイセン。実はこのときも頭頂で例の小鳥が羽を休めていたのだが、本人は気づいていなかった。
『せっかく懐いているのだからもっと大事にしてやったほうがいいと思う』
 数少ない友達なんだから、と付け加えようとしたドイツだったが、思いとどまった。なんだかあまりにも哀れに思えたから。
「ははははは、小鳥も俺の魅力にメロメロってか。いい男ってのは罪だなあ」
『鳥類を魅了してどうするんだ。……ああ、だから兄さんの車、いつもフロントガラスが悲惨なことになっているんだな。きっと兄さんの気を引きたいんだろう。……む? そういえばあの小鳥、メスなのか? 鳥類において求愛行動を起こすのは一般的にオスのはずだが』
「さあ。卵見たことはねえけど」
『まあオスでもメスでも気にはしないが……と、話が逸れたな。別に鳥を連れ歩いても構わないが、あまり犬たちに近づけないでくれ。犬のほうに殺意がなくても、あの体格差というか質量差でじゃれついたりしたら、鳥が死んでしまうだろう。不幸な犠牲をつくらないよう注意してほしい。うちの犬はおとなしいし躾もしてあるが、やっぱり犬だからな、動く生物を見たら本能的に追ったり飛び掛ったりするかもしれない』
「大丈夫だと思うけどなー、おまえがあんだけきっちり教育してんだから。なあブラッキー? お母さんたまに怖いよな?」
 プロイセンは股の間でお父さんたちの会話に聞き耳を立てているブラッキーと顔を見合わせた。ブラッキーはずいっと首を伸ばしてプロイセンに鼻先を近づけた。
「ブラッキー? どうした?」
 彼もまた顔を接近させるが、ブラッキーは鼻を少し上に向けると、彼の頭上の小鳥に挨拶をした。心配いらない、と示すように。もっとも、鳥の存在に気づいていない彼には、ブラッキーの行動はさっぱりだったが。
 ブラッキーの仕種を訝しく思いつつ、彼は壁時計に視線をやった。
「――っと、そっちはともかく、こっちはそろそろおねむのみてぇ時間だ」
 犬の謎の行動を、眠たいという合図だと勝手に解釈したプロイセンは、そろそろ子供たちを寝かせる時間だと告げた。
「じゃあな、お母さん。早く帰ってこいよ、子供たちが寂しがってる」
『ああ、そのつもりだ。では、俺が帰るまで家のことは頼んだぞ』
 と、ふたりして同時にボタンを押しかけたとき、
「あ、ちょっと待て」
 プロイセンがふいに待ったをかけた。
『どうした』
「ちょっと待ってろよ。切るんじゃねえぞ」
 プロイセンは部屋の中を見回すと、アスターに手招きをした。
「アスター、ちょっとこっち来い。お母さんと電話通じてるから」
 クンクンと小声で悲しげに泣き通しだったアスターだったが、何か予感するところがあったのか、即座にお父さんの言うことを聞いてやって来た。プロイセンはアスターの顔をとらえると、耳に携帯電話を軽くあてた。アスターは警戒と怯えを混ぜてぴくりと耳を震わせた。
 急にプロイセンの声が遠のいたことを怪訝に思ったドイツが呼びかける。
『兄さん? どうしたんだ?』
 と、その声が届いた途端、アスターはびくりと全身を震わせたかと思うと、一瞬の間を置いてから、きゃんきゃんと甲高く吠え始めた。床に張り付くような低い姿勢で、ぴんと張った尻尾を振り回している。
『……!? その声はアスターか!? どうした!? 何かあったのか!? アスター!?』
 アスターの尋常でない鳴き声に驚いたドイツは思わず声を荒げた。が、ますますアスターの興奮を煽るだけだった。プロイセンはそんなアスターをおもしろそうに眺めていた。
「ははははは、かわいいなあ。お母さんの声にそんな興奮するなんて。よしよし、そんな不審がるなって、ただの電話だから。こん中にお母さん入ってるわけじゃねえから――って、おい、アスター!? ちょ、よせ! やめろ!」
 微笑ましげな彼の口調は、途中から慌しいものに変わった。というのも、アスターが思い切り携帯電話にかぶりついてきたからである。奇跡的にもプロイセンの手に歯がかすることはなかった。が、代わりに電話そのものを奪われてしまう。プロイセンはアスターがくわえる携帯のストラップを引っ張りながら制止を試みた。
「駄目だって! 離しなさい! 声はしてもお母さんそこにはいないから! ほら、いい子だからお父さんと遊ぼう!?」
『に、兄さん!? ちょっ、何があったんだ!? アスター!? ブラッキー!? ベルリッツ!? どうしたんだ!?』
 ドイツの叫び声が不明瞭に漏れ聞こえてくる。プロイセンはなんとか携帯を取り戻そうと躍起になるが、アスターはアスターでお母さん恋しさに携帯を離そうとしない。
 一分ほども犬と同レベルで揉み合ったあと、どうにかこうにか勝利を収めたプロイセンは、唾液でべとべとになった携帯電話を拭く暇もなく、大急ぎで応答した。
「もしもしヴェスト。すまん、アスターのやつがおまえの声に興奮した挙句、電話の中におまえがいるんじゃないかって勘違いしたらしい――ん? ヴェスト……?」
 と、早口に説明をまくし立ててから、相手がまったくの無反応であることに気づくプロイセン。
 よくよくディスプレイを眺めると、破壊された液晶が内部でにじんでいるらしく、不気味に鮮やかな虹色を形成していた。ためしにボタンをランダムにいくつか押してみるが、まるで反応がない。
「切れちまった……。ってか、こりゃ完全に壊れてるな」
 おじゃんになった携帯電話を片手に、プロイセンはがっくりと肩を落とした。保証書どこにしまったっけ、と考えつつ。
 ため息をつきながら、彼は固定電話の親機が置いてある壁際のサイドボードを見やった。
「まあいっか、家電話あるし――って、おい!? ベルリッツ!?」
 視線を上げた彼は、それまでノーマークだったベルリッツが不穏な行動を起こしていることにやっと気づいた。ベルリッツはなにやら細長いものを口にしていた。壁とサイドボードの間から伸びるそれは――
「おまっ、何かじってんだよ! それ電話線じゃん! だめじゃんそんなの食べたら!」
 プロイセンは携帯を放り出して弾かれるように立ち上がると、ホップステップジャンプの勢いで壁まで到達した。彼が着地した振動と迫力に驚いたのか、ベルリッツが一瞬萎縮する。それを見たプロイセンは、すかさずベルリッツの顎をとらえ、電話線を奪った。が、もう手遅れだった。コードは外皮一枚でつながっているような状態で、中の線は完全に切断されていた。
「ベルリッツ……どうしたんだよ、いつもいい子なのに。お母さんいないのが寂しくてストレス溜まってんのか? お父さんじゃ嫌か?」
 叱る気力もなく、プロイセンは剥き出しになった電話線の中身を見下ろしながらうなだれた。
「あーあー……こっちの電話もおじゃんか。パソコンも壊れてるし、こりゃ帰るまで連絡取れねえな。あー……帰ったらお父さん、絶対お母さんに叱られるぜ。そのときは助けてな?」
 じっと見つめながら真剣に頼むプロイセンだったが、ベルリッツは疑問符を浮かべて首を傾げるだけだった。先ほど自分がやらかした悪さなど、もう忘れているようだった。
「くそー、やっぱ俺じゃ駄目ってか。ちくしょう、寂しいのはおまえらだけじゃないんだぜ……」
 思わずぼやくプロイセン。アスターが彼の言葉に共鳴するように再び寂しげな鳴き声を上げた。
 と、ふいに背後に軽い圧力を感じる。
「ん?」
 振り返ると、ブラッキーが慰めるように彼の背中を前足の肉球でぽんぽんと叩いてきた。
「ブラッキー……おまえってやつは……!」
 その優しさにうるっときたプロイセンは、ブラッキーに思い切り抱きついた。早く帰って来いお母さん、子供たちもお父さんも待ってんだかんよ!――と泣き言めいた呟きを胸に。




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