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いつか読む手紙


「う〜……」
 生あくびを噛み殺しながら、くたびれた部屋着姿のプロイセンが階段を降りてきたのは、朝と昼の中間の時間帯だった。今日が日曜日であることを考えれば、 十分早い時間だろう。彼は、寝起きの気だるさとはどこか異なるぼんやりとしたまなこを擦りつつ、おぼつかない足取りでリビングに足を踏み入れた。庭側の窓 辺を向いて日向ぼっこをしていたアスターが彼を出迎える。
「よぉ、おはよ、アスター。お母さんはもう起きてるか?」
 彼は屈むと、寄ってきたアスターの顎をさすってやった。アスターは窓のほうを振り向いて見せる。カーテンとガラスの向こう側、庭には、洗濯物を干す大柄 な青年の後ろ姿があった。プロイセンは窓へと近づくと、カーテンをめくって庭を覗き込んだ。陽光のまぶしさに数秒の羞明を覚えるが、すぐに順応する。家事 に精を出すドイツは、きびきびとした動作で籠から湿ったしわくちゃの衣類を取ると、手慣れた様子で勢いをつけて広げ皺を伸ばして干していく。整列好きな彼 にしては、吊るされた洗濯物どうしの感覚がまちまちだが、それはおそらく、それぞれの衣類のサイズや形状と光の差し込み具合を考慮してのことだろう。少な くともプロイセンにはそう見えた。
「よっ、お母さん。日曜だってのにご苦労だな」
 プロイセンが窓を開けて声をかけると、ドイツはハンガーを掴む手をそのままに振り返った。
「起きたのか兄さん。おはよう。しかし家事に日曜も平日もないぞ」
「あとで風呂掃除しとくって」
「もう済ませた」
「んじゃガレージの掃除」
「先週やったから必要ない」
「相変わらず隙がねえなあ。これじゃお父さん、子供たちに見せるとこないじゃん」
 一方的な言い分のもと、ぶー、と口を尖らせるプロイセン。がドイツは意にも介さず、さっさと家事を再開する。しかしこちらをじと眼で凝視してくる視線が 背中に突き刺さるのが居心地が悪くて、ドイツは近くで良い子におすわりをしていたベルリッツに目配せをし、兄のほうへ向かわせた。プロイセンは「お うおう、お父さんだぞ〜」などと甘ったるい声でベルリッツを迎えた。これで数分はもつだろう。
 すべての洗濯物を太陽の下に整然と並べたあと、ドイツは洗濯籠を手にリビングへと足を向けた。開いていた窓の隙間を大きくし、室内で犬たちと戯れている プロイセンを見やる。周囲にはゴム製の犬用のおもちゃが散乱していた。
「今日はランニングに出かけないのか?」
「んー……どうすっかなー……」
 抱きついていたアスターを解放して両腕を天井へと突き上げ伸びをするプロイセンの声は、予想外に元気がない。む、とドイツが眉間に皺を寄せる。こちらを 振り向いたプロイセンの顔には、うっすらとした疲労の痕跡がうかがえた。
「その顔は徹夜したな……休みだからって時間の感覚を狂わせると、週明けがきついぞ。自分で思うほど若くないんだから、徹夜はやめておいたほうがい い」
 ドイツはリビングに入り後ろ手に窓を閉めながら軽い説教をする。プロイセンはお決まりの反論をした。
「俺はジジイじゃねえ。まだまだ若いわ。それに、別に遊んでたわけじゃないぞ。ちょっと作業してたんだよ。ふぅ……」
 若いという本人の主張とは裏腹に、彼のため息には、なんというか、人生への疲れにも似た響きが混ざっていた。
「どうした、難しい顔をして」
「いや、書きものが進まなくてよ、パソコンとにらめっこしてたらいつの間にか夜が明けてた」
 酷使した目をほぐすように、プロイセンは目の周りに軽く指圧を加えた。心なしか少し腫れぼったい感触がある。
「珍しいな、いつもなら衝動のままにスペルミスなどどこ吹く風の勢いで進めるのに」
「いやー、ちょいと面倒な書類だからよ」
「仕事か?」
 休日は休日として消化するのが常なのに、珍しいことだ。ドイツが首を傾げると、プロイセンはかぶりを振り、短く、かつ気取りなく答えた。
「いんや。遺書」
 さらりと言ってのけた単語は、あまり日常的なものではなかった。だが、ドイツがその言葉から受けたのは、衝撃ではなく「またか」という呆れだった。そし て感じたままの感想を述べる。
「また書いているのか。なんか、割としょっちゅう書いてないか?」
「そりゃ、三年前のままじゃまずいだろ。情勢ころころ変わるんだから。この三年にどれだけのことがあったと思ってる?」
 遺書――というとどことなく陰気な響きがあるが、要は仕事の引き継ぎに関する内容を定期的にまとめた書類を指す。ほとんど仕事の一環みたいなものだが、 義務ではないので、個人的な作業、ということになる。当然提出先や提出期限はない。プロイセンがいつからそういった文書を作成しているのかは定かではない が、いままで聞いた話から推測するに、数十年分には及びそうだ。プロイセンのことだから膨大な量の書類をまとめ上げていると予想されるが、それがどこに安 置されているのか、ドイツは聞いたことがなかった。尋ねたこともなかった。
「ところで、破棄した遺書はどうしているんだ? 下手に流出すると一部に混乱をもたらしかねないんだが……」
「その心配はない。破棄しないでぜーんぶ保管してあるからよ! もちろん、原本に加えてバックアップもばっちりだ! 手書きとかプリントアウトしたやつ は、それを原本とした上でプラスそのコピー2部、 さらにはフロッピーディスクやCD-ROM、その他いくつかの電子記録媒体にテキストおよび画像ファイルで分散して残してある。無論電子化以前に書いた分 も対応済みだ! しかし、古くなった自分の遺書をせっせとパソコンに打ち込んだりスキャニングする作業は、俺の文章がいかに卓抜しているとはいえ、ちょっ ぴり恥ずかしかったぜ」
 想像以上の手の込みように、ドイツは背筋が寒くなる思いがした。これは下手をしたら、図書館の棚がいくつか埋まるくらいの分量に及ぶのでは……。
「もしかして日記より長いのか?」
「まさか。あんなふうに取り留めのない書き方はしてねえよ。ただまあ、いろいろ記録しておかないといけないこともあるんでな。いざってときに何も残ってな かったら、困るのはおまえだぞ」
「そうかもしれないが……」
 この話題は好きではないが、だからといって避けるわけにもいかない。ドイツは少し落ち着かない気持ちになって、足元に寄ってきていたブラッキーの背を撫 でた。
「事務的な部分は役所仕事みたいなもんだからさっさと書けるんだけど、自由な部分で毎回悩むんだよなー。んー、ほかの連中に相談してみっかなー。ザクセン あたりは無駄に書き溜めてそうだ。あ、でも、あいつの場合本気で無駄なことばっか書いてる可能性もあるな……遺書書くのがほとんど趣味と化してるもんな あ」
 ぶつぶつと紡がれるプロイセンの呟きに、彼らはそのうち遺書の朗読会でも開くのではないか、とドイツは思った。互いの著作物の添削と批評の意味で。その 部分だけ想像するととんでもなく暗い文芸サークルだが、彼らのことだから最終的には殴り合いに発展するに違いない。
 ドイツがろくでもない、しかしあながち的外れでもない想像を巡らしていると、ふいにプロイセンが言った。相変わらずゴムボールで犬たちの遊び相手をしな がら、世間話と同じ何気ない口調で。
「あ、そうだ、俺がいままで書いたもんの保管場所だけど、俺の書斎適当に探せばわかるようにしてあるから。そんな徹底的にひっくり返さなくても見つかるよ うにしてあるつもりだが、勘繰ると逆にわかりにくいかもな。すげぇさりげないところに置いてあるから、ヒント」
 ゴムボールを欲しがるアスターをからかいながら、プロイセンは立ち上がってソファまで移動すると、背中からクッションへとダイブした。そして、背もたれ の向こう側からひらひらと片腕を伸ばして振る。
「まあでも、いまはまだ探すなよ」
 腕を下ろすと、プロイセンはその手を口元へ近づけ、盛大なあくびをする。
「ふわぁ……眠てぇ。うーん、認めたくねえけど、さすがに年食うと徹夜はこたえるな」
「寝るか?」
 ソファでこのまま居眠りをはじめる気ならブランケットでも持ってきてやろうかと、ドイツはクローゼットに向かおうとする。が、プロイセンの指は別の行き 先を命じた。
「いや、いま寝ると今夜寝付けなくなる。ちときついが、今日はこのまま夜まで起きてる。うぅ、でも眠てぇ。なあ、コーヒー淹れろよ、とびっきり濃いやつ」
「仕方ないな」
 ドイツはため息とともに了解の返事をすると、プロイセンの指が差す方向、キッチンへと進路を変えた。
 コーヒーメーカーを起動させ、ついでに菓子を皿に盛りつけトレイに乗せた頃には、居間での会話のことはほとんど忘れていた。不定期に上る手紙の話は、い つもそうやって忘れられていく。それで構わないだろう。いま気にする必要はない。
 どうせいつかは読むことになるのだから。




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