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邪魔もほどほどに


 夕刻、帰宅したドイツが玄関に入ると、薄く開いたリビングのドアから室内灯の淡い黄色が漏れているのが見えた。かけられているらしい音楽の低音がこちらまで伝わってくる。一昔前に流行ったテクノだ。リビングにはそんなCDは置いていない。
 またか……とドイツはため息ひとつついてから、上着を脱ぎながらリビングへと向かった。独り暮らしの自宅にいま自分以外の誰かがいるのは確定的だが、警戒は必要ない。というのも、勝手な来客が誰であるのかは、消そうともしていない気配で容易にわかるからだ。
 木の彫刻が美しい扉を押して一歩中へ入ると、こちらに背を向けているソファの端から人間の足が飛び出しているのが見えた。そこに仰向けに転がっている人物は、家の主の帰宅を一瞥もすることなく、胸と両手で支えている雑誌に視線を固定したまま、口だけを動かした。
「おう、勝手に上がってるぜ」
「そのようだな」
 悪びれもせず事後申告するプロイセンに、ドイツは特に不快感を示すでもなく呆れるでもなく、ただ事実を事実として受け取った。ドイツが向かいのソファに腰を下ろすと、背の低いテーブルの上に置かれたリモコンを手に取り、CDからラジオに切り替えた。夕方のニュースが流れてくる。プロイセンはしばらくそのまま横になっていたが、やがて足を振り上げて反動をつけて体を起こし、無言でニュースに聴き入っているドイツのほうを見た。
「洗濯物、入れておいたぞ」
「そうか。助かった」
「夕飯はつくってない。イモは買い足しておいた」
「わかった」
 短い会話ののち、プロイセンはおもむろに立ち上がってサイドボードの前まで行き、オーディオプレイヤーからCDを抜き出し、再びソファへと戻ってきた。しかし、なぜかドイツの座るソファの背もたれの後ろから腕を伸ばしてCDのケースを取ろうとする。距離があるので、自然、前傾姿勢になる。なぜこんな効率の悪い位置に立っているのかは不明であるが、わざわざ問いただすほどのことでもないか、とドイツはケースを取りプロイセンに渡してやった。プロイセンはCDを収納したそれを再度ドイツに戻してきた。テーブルの上に置いてくれ、ということらしい。ドイツは受け取るとそのようにしてやった。
「あ、おまえ……」
 と、背後に立つプロイセンが、背もたれに両手をついて前方に体重を傾けた。腰を少し折った彼は、ドイツの肩口に鼻を押し付けてきた。
「なんだ、いったい?」
「イタリアのにおいがする」
「はあ?」
 右肩にプロイセンの顔を乗せたドイツは、怪訝な声を上げた。しかし相手はさらにくんくんと鼻を擦り付けてくる。ほとんど犬だ、これでは。……犬のような癒し効果は望めないが。
 プロイセンは顔をドイツの横につけたまま、確信ありげな口調で言った。
「間違いない、これイタリアのにおいだろ。おまえからこんなあったかい太陽ににおい、するわけねえもん。おまえイタリアとハグしただろ」
「確かしたと思うが。今日会ったからな。……おい、いつまでも鼻を近づけているな、邪魔だ」
「いいだろ、俺にもちょっとくらいイタリア分けろ。残り香くらいいいじゃん、ケチなやつ」
 呟きながら、プロイセンは大仰に鼻呼吸を繰り返した。ドイツはちょっとばかりぞっとした。
「その要求はかなり気持ち悪いものがあるぞ……」
「あ〜、イタリアのにおい〜」
 プロイセンは、語尾にハートマークを飛ばしそうな調子で、なんだか幸せそうだった。
 一方ドイツは、いまごろイタリアのやつも悪寒を覚えているんじゃないか、と想像を巡らしつつ、されるがままにイタリアの残り香とやらを嗅がれていた。犬だと思うんだ、これはすごく大きな犬だと思うんだ、と自己暗示をかけながら。
「あー……気が済んだか? そろそろ夕飯の支度をしたいんだが」
 ドイツがいい加減プロイセンを引っぺがそうと背もたれから体を離すと、プロイセンは片手でわしわしとドイツの頭髪を掻き乱した。
「おい、脈絡もなくわけのわからないことをするな」
「くっそー……いつもいつもおまえばっかりいい思いしやがってぇ」
 すっかりオールバックを崩されたドイツが振り返ると、そこには頬をぷぅと膨らませたプロイセンの顔があった。ドイツは、おまえの言い分は理解しかねるというように肩をすくめた。
「いい思い? 今日は仕事サボってジェラート買いに行った帰りにうっかり猫の尻尾踏んで泣きながら猫に追い掛け回された挙句迷子になったイタリアを探し回ったんだがな」
「自慢話はむかつくぞ」
「むしろ苦労話だ、いまのは。第一、オーストリアと同じ空間にいたくないと言ったのはおまえだろう。……オーストリアと言えば、じっとしていろと言ったのに勝手にイタリア探しに乗り出して結局あいつまで迷子になった。だから、今度はイタリアと一緒にあいつを探す羽目になったんだぞ。手間が増えて大変だったな」
「やっぱり自慢じゃねえかっ」
 プロイセンはぺちんとドイツの背中を叩いた。
「俺の話をちゃんと聞いていたのか……?」
 ドイツが半眼になると、プロイセンはふんっと横を向いて腕を組んだ。
「いや、いいけどな。俺はひとりの時間を楽しむ方法を極めている男だから、誰かとつるむ必要はない」
「そうか。それはすばらしいことだ」
「嫌味かよ」
「? いや、ただの感想だが。自分なりの余暇の楽しみ方を心得ているのはよいことだ」
「……おまえはそういうやつだよな」
 ドイツが真顔で返すと、プロイセンは脱力してうなだれた。そして、そのまま今度は顎をドイツの頭頂部に置く。
「……おい」
 意味のわからない行動の連発に、ドイツはやや苛立ち気味に片方の眉尻を上げた。と、突然プロイセンの声が上から降ってきた。
「あ、そうだ。おまえちょっと立てよ」
「おまえが引っ付いとったら立てん」
「ほらよ」
 ようやくプロイセンの体重から開放されると、ドイツはさっと立ち上がり、
「やっとキッチンに行ける」
 と出入り口に歩を進めようとした。が、プロイセンが彼の肘を掴んで止めた。
「待て。その前にこっち向け。おまえさ、今日イタリアとハグしたんだろ?」
「ああ。その質問にはすでに答えたと思――」
 文を言い切る前に、ドイツの声が途切れた。彼は、ふいに訪れた先程よりもずっしりした重みに一瞬バランスを崩しかけた。
「……おい、いまの発言がなぜこの行動につながるんだ?」
 気がつけば、プロイセンがドイツに抱きついている。ソファを挟んでいるため、体を伸ばしているプロイセンは爪先立ちの状態で、かなりアンバランスだ。ドイツは思わず片手を添えて相手を支えてやった。
 なんとか重心を安定させたところで、プロイセンが顔を上げた。
「今日イタリアとハグしたおまえに抱きついたら、俺も間接的にイタリアハグしたことになるじゃんよ。だから」
 にまっと笑うプロイセンを、ドイツは思い切りはたき落としたくなった。
「そんなものを間接的にやってどうする」
「あー、イタリア〜」
 プロイセンは悦に入った声音で、ぎゅうっとドイツを抱きしめた。ドイツはそろそろ額に青筋が浮かんできそうだ、と感じた。
 彼はプロイセンの片腕と腰にそれぞれ手を移動させると。
「おい、少し気をつけていろよ」
「ん? なんだよ、いまイタリアの青空を想像していい気分になってるところなんだから水差すな――よぉぉっ!?」
 唐突に加わった回転加速度に、プロイセンは何が起こったのかわからないまま、視界が急速にぶれるのだけを知覚した。
 数秒後、彼は自分が天井を見ていることに気づいた。上から差す影は、ドイツだ。見下ろす、というより覗き込むような位置にいる相手と自分の距離、そして背中に触れるよく知った感触。プロイセンはようやく、自分がソファに仰向けにひっくり返っていることを自覚した。ドイツが帰ってきたときにしていたのと同じ体勢だ。
 状況からして、ドイツにひっくり返されたらしい。ソファの背側に立っていた相手を持ち上げて転ばす――しかもほとんど前段階のモーションがなかった――とは、見上げた筋力と技術である。
 と、そこまで考えたところで、プロイセンは叫んだ。
「な……っにすんだよ! 危ないだろうがぁぁぁぁ!!」
「事前通告はしたつもりだ」
「だからってこれはないだろこれは!」
「おまえは邪魔だ」
「じゃ……」
 ぎくりと固まって急にしおれたプロイセンを背に、ドイツは乱れた髪を手で直しながら、
「夕飯がつくれないだろうが」
 と言い残して、すたすたとキッチンに向かった。
「な、なんだよ……飯の話かよ。やなこと言いやがって……」
 呟き、プロイセンは緊張を解いてソファに身を沈めた。
 ラジオのニュース番組はいつのまにか終了し、歌番組が流れていた。懐かしのあの曲と題して、テクノポップのリズムが響いてきた。

*****

 小一時間後、プロイセンはダイニングの扉を半開きにして、中にいるドイツに声を掛けた。
「俺そろそろ帰るわ。じゃあなー」
 それだけ告げて踵を返すと、黒いエプロンを掛けたドイツがドアを開けて顔を出した。
「なんだ、予定でもあるのか。そういうことは先に言え。ふたり分、つくってしまったではないか」
「え、俺の分、あんの?」
「たかるつもりで来たんじゃないのか?」
 当たり前のように言ってくるドイツ。プロイセンは無言のままダイニングに入った。テーブルには食器が二セット用意されていた。
「ははははは……仕方ねえな、メシ無駄にすんの嫌だからな、食ってってやるさ」
「いや、予定があるならそっちを優先しろ。余った分は明日の朝食に回せばいい」
「食ってくっつってんだよ」
 常識だとばかりに予定を済ませることをすすめるドイツを無視して、プロイセンは少し乱暴な動作で着席した。




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